後編 満月の夜、瀬田くんと出会った

 とりあえず一人で買いもしない服を見て、ハンバーガーショップでチーズバーガーとポテトを食べた。少し肌寒いので、氷がたっぷり入ったコーラの炭酸は喉を突き刺すようだ。


 一人ご飯をしている女子高生は私くらいなものだ。皆友達だとか彼氏だとか、誰か親しい人と食べている。一人ご飯は苦手ではないけれど、つまらなくはある。


 周りを見回して、ん? と思う。壁際の席でハンバーガーセットを食べている狼男、瀬田くんじゃない?


 瀬田くんはもそもそとハンバーガーを食べ、時々飲み物を飲み、ポテトをつまんで、たまに、ふう、とつまらなそうに息をついた。瀬田くん、塾は? と思う。火曜日は七時から塾って言ってたから、それを待っているのだろうか?


 時計を確認する。七時十分。


 サボり? いや、瀬田くんに限って……。私はしばらくじっと瀬田くんを見ていたが、彼は全く気付いていないようだった。ぼんやりと窓の外を眺め、何かに思いを馳せている。窓の外はビルが見えるだけだが、外に出ると満月だ。瀬田くんたち思春期の恋する少年たちを狼男にしてしまう満月。


 私は黙って店を出ることにした。瀬田くんは相変わらず外を眺めていた。


 九時にもなると高校生に馴染みの店は閉められ、街は夜の顔になり、ネオンが光り出す。空は満月でらんらんと照らされ明るい。


 黒い服のキャッチのお兄さんがいるし、派手な年齢不詳のお姉さんが歩いて行くし、会社員の男女は楽しそうに飲みに繰り出す。面白いなあ、と思う。彼らはどんな気分なんだろう。大人になるってどんな気持ちなんだろう。私には何もかも未知だ。そしてかすかな不安と、ちょっとした憧れを覚える。


 そろそろ帰ろうかなあ、と思う。いくら私が不良生徒認定されてしまったとはいえ、親だって心配するし、することがないなら帰るしかない。本当に不良生徒ならすることがあるだろうが、私には悪い友達も彼氏もいない。


 バス停でバスを待つことにした。ベンチに座り、ぼんやりとする。今日は何でこんなに遅くまで外を出歩いたんだっけ。瀬田くんが馬鹿にされていて、くさくさしたからだ。


 瀬田くんはいつも頑張っていて、誰かを不快にすることなんて絶対にしないのに、何であの子たちは瀬田くんを馬鹿にするんだろう。私は、彼の努力を見下す理由になんてできない。


 瀬田くんは、どうして狼男になったんだろう……。


 がうう、と声がした。ふと隣を見ると、瀬田くんが座っていた。わん、と彼は言った。わたしと同じ高校の制服を着ているが、袖から出た手は毛むくじゃらだし、首から上は完全に狼だ。灰色の狼で、ハスキー犬めいている。


「奇遇だね」


 という意味に聞こえた。私はさっき同じハンバーガーショップにいたことは黙っていた。何となく、理由を聞かれたくなかった。


「こんばんは、瀬田くん」


 私が言うと、瀬田くんは、「わん!」ともう一回言った。ちょっとかわいかった。


「瀬田くん、今日は満月だね」


 月を指さす。ビルとビルの間に挟まる、まん丸くて黄色い月。彼は月を見つめ、嬉しそうに口を広げた。この口は私の頭なんて軽く収められるんだろうなってくらい大きな口だった。


 がうう、と彼は言う。多分、「俺、満月が好きなんだ」という意味だ。


「そうなんだ」


 私がにっこり笑うと、瀬田くんはうんうんとうなずいた。何だか犬に懐かれているみたい。距離もいつもより近いし、昔買っていたラブラドールレトリバーを思い出す。


「瀬田くんはどうしてこんな時間にここに?」

「わうう(君こそ)」

「そうだね、確かに」

「がうう(いい夜だからね。何となくうろついてたんだ)」

「瀬田くん、真面目なイメージだから意外」

「うー(心外だなあ)」


 わたしは瀬田くんのいかにも残念そうな顔を見て笑った。確かに真面目という言葉は素敵な感じがしない。


「瀬田くんは、塾はサボり?」


 わたしが訊くと、瀬田くんは黙った。私は答えない瀬田くんを少し見て、また満月を見上げる。


「わうー(サボるの、楽しい)」


 瀬田くんの顔を見ると、満面の笑みだった。いたずらをしているときのうちの犬とそっくり。私は吹き出す。


「瀬田くんもサボりのよさがわかってきたようだね。私も好き。髪を好きな色に染めて、好きな化粧をして、好きなように振舞うのが私の人生を豊かにする息抜き行為でね、嫌なことをたまにサボるのはそれに近い」


 瀬田くんは目をぱちくりさせた。少し考え、


「わう(いいね)」


 と答えた。そのまま満月を眺める。ずっと、長い時間見つめ続ける。満月は人を狂わせるという。瀬田くんはそれで狼男になってしまったのだろうか? そして満月は私にもその力を及ぼしているのだろうか? 私はこの犬じみた瀬田くんを何だかいいなと感じ始めている。


 と、そのとき、後ろで自転車が停まる音がした。


「君たち、高校生だよね?」


 振り向くと、制服を着た警察官だった。私は慣れたもので、もう帰ります、と言おうとしたのだが、警察官は瀬田くんをちらりと見ると、私に言った。


「あんまりよくないよ。男の子と女の子が遅くまで遊んでたら」


 つまり瀬田くんが私に何かするのだと言いたいのだ。私はむっとして、


「彼は真面目なので……」


 と言いかけた。そのときだった。


 瀬田くんが私の手を掴み、全速力で走り出した。「待ちなさい!」と警察官は叫ぶ。私は男の子の力強さと速さに圧倒されながら走る。自転車が追ってくる。瀬田くんは私の手を毛むくじゃらの手で掴んでいる。とても温かい手。瀬田くんは角を曲がり、居酒屋の軒下まで走り込む。警察官は行ってしまったらしい。スピードを緩めた自転車のチェーンの音が遠ざかっていく。


 ぜいぜいと、息をする。瀬田くんもそうだ。私たちはひとしきり息をつき、汗をぬぐい、最後に顔を見合わせて笑った。


「瀬田くんやるじゃん。警察官に反抗する行為、だいぶ不良だよ」


 瀬田くんは犬の顔のまま笑った。それから口を尖らせ、わう、わう、と何度か試すように声を出す。何だろうと思った次の瞬間、彼は大きな声で遠吠えを上げた。長い、彼の満足気な声に、私も思わず笑ってしまう。


 瀬田くんは私を見た。キラキラした目で見つめる。思わず、私は彼の頭に手を伸ばし、「よしよし」と頭を撫でた。瀬田くんは目を細め、気持ちよさそうに笑う。


「今の、君たち?」


 居酒屋の出入り口から店主らしい手ぬぐいを頭に巻いた中年の男性が迷惑気な顔で顔を出した。


「うるさいから別のとこに行ってね。あと高校生は夜……」


 瀬田くんは私の手を再び掴み、走り出した。私と瀬田くんは先ほどとは違う心地いい速さで走る。瀬田くんは笑っている。私も笑っている。私は自分が狼男になったみたいな気分で、獣じみた喜びを感じながら走る。


 やがて、私たちは空き地になった小さな立ち入り禁止区域に入り、地べたに座って満月を眺めた。


「今日のはなかなかの不良行為だった」

「わう(だね)」

「瀬田くん、気分いいでしょ」

「わふっ(君こそ)」

「いい気分だねー」


 私たちはずっと空を眺めた。何かをしゃべるでもなく、時々居眠りしたりして、互いの寝顔を見たり、手を繋いだり、月を見つめたり……。瀬田くんの愛おしむような目に、私は照れる。彼は目を細め、満足気に私を見ている。


 朝が近づいてくる。空は明るみ、小鳥の声がし始める。ああ、もう帰らなければ。とても惜しいような気分になる。隣を見ると、瀬田くんはいつの間にか空を見上げながらいつもの人間の姿になっていた。


「朝になっちゃったね」


 瀬田くんの人間の声に、何だか戸惑う。瀬田くんは私を見て、微笑む。私は急に恥ずかしくなる。夜の間の二人の交流は、とてもおかしなものだったような気がして。手を繋いだり、笑い合ったり、頭を撫でたり……。普通じゃなかった。


 瀬田くんは、立ち上がった。背伸びをして、振り向く。


「いい夜だった。椎葉さん、つき合ってくれてありがとう」

「うん」

「今日は学校だけど、椎葉さんももちろん行くでしょ?」

「うん」


 反応のおかしな私を、瀬田くんは気にした様子もない。


「じゃ、帰ろう」


 私たちは日常へと帰っていくのだ。とてもつまらない、ありきたりな日常に。


 瀬田くんは私が立ち上がるのを待った。それから、私の手を握った。毛の生えていないつるつるした彼の手に、戸惑う。


「一緒に帰ろう」


 瀬田くんは微笑んでいたが、顔は真っ赤だった。そうだ、と思う。彼だって夜までのように奔放に振舞うことができないのに、こんなに一生懸命、私と接しているのだ。


 私は彼の手をぎゅっと握り返した。彼の手が汗ばんだのを感じる。


「帰ろう! 学校、絶対来てね」


 私たちは歩き出した。日常がつまらないのは当たり前だ。私たちはコツコツと重ねた蓄積の中で今を生きられているのだ。でも、たまに本音を示せるあんな時間があれば。自分を示せる開放的な時間があれば。


 隣の彼は、狼男とは全く違う人間の目を、私に向けて微笑んでいた。その愛おしむような目に、私は照れた。

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狼男の夜 酒田青 @camel826

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