狼男の夜

酒田青

前編 瀬田くんが狼男になったらしい

 教室がざわついている。今は朝のホームルームの時間。そろそろ担任の教師が来るころだが、みんなそれどころではない。彼らは揃って私のいる辺りを見つめている。くすくす笑っている子もいる。でも笑っているのは私のことではない。彼らは私の後ろの席を見て笑っているのだ。


 後ろの席の瀬田くんが狼男化したらしい。毛並みの美しい灰色狼の顔をし、手は毛むくじゃらだ。当たり前のようにノートを整理しているらしく、「シュール」と笑う女子の声も聞こえる。


 振り向いてみようかと思うが、そこまでする気はない。瀬田くんは真面目なクラス委員で、私は彼にさほど興味がないのだ。瀬田くんは真面目な男子。それだけ。私はそういう男子に魅力を感じないので、彼のことを教室の模様程度にしか考えていない。


 それにしても、彼が好きになった人ってどんな人だろう? というのは、狼男化は二年前まで猛威を振るっていた強力な感染症の後遺症として起こっているらしいのだ。思春期の男子が誰かを好きになると、その子は満月の日に狼男になってしまうという。しかも鏡を見ても気づかない。自分の声が人間の言葉になっていなくてもわからないのだ。とても厄介。とても可哀想。


 瀬田くんは犬のように大きく口を開けてノートをまとめていることと思う。思う、というのは私からは彼の様子が見えないからだ。きっと一生懸命やっていると思う。彼は医者の両親の跡取り息子で、自分も医者にならなければいけないと思っているから。


 チャイムが鳴ると、スライドドアが開いて教師が入ってきた。「おはよう」と言った次の瞬間には目をぱちくりする。それはそうだろう。この教室の男子の半分は狼男の姿をしている。今夜は満月だから。それでも素知らぬ顔をして、教師は教卓に立った。


「わうーん」


 響いた声に、教師が驚いた声を立てる。女子が震えるようにくすくす笑う。瀬田くんが号令をかけたのだ。クラス委員だから。皆一応立ち、次の「わうーん」で頭を下げ、最後の「わうーん」で着席した。


 教室が何となくざわつく。皆戸惑っているのだ。笑ってはいけない。笑うと狼男差別主義者として糾弾される。でも笑いたい……。それでも、何とか笑いを表に出さずにやり過ごせたようで、彼らは皆ほっとしていた。


 私はどうだっていい。別に笑う気にもならないし、瀬田くんの様子を確認する気もない。彼はクラスの模様の一部。狼男化しようが何だろうが、私にはどうだっていい。



 私はクラスで浮いている。高校に入って早々に授業についていけなくなった私は、髪をまだらに染め、爪を塗り、派手に化粧をしたいわゆる不良生徒とされる格好をしている。でも、不良ではない。万引きもしないし、いじめもしないし、彼氏だって中学のときにいた爽やかな運動部の先輩くらいだ。


 瀬田くんは私とは深く関わらない、優等生だ。「不良生徒」になって両親に見放された私は家に帰りたくないので放課後も教室でお菓子をかじりつつスマホを見てだらだらするのだが、帰宅部の瀬田くんもたまに教室で勉強している。塾の時間に合わせるために少しのんびり勉強して待っているのだそうで、私はたまに彼に絡む。


「瀬田くんすごいよね、成績いいし」


 からかい交じりに言うと、彼は照れるでも浮かれるでもなく、真面目な顔でこう言った。


「模試の結果が思わしくなくて、こんなんじゃ全然だめなんだ。だから全くすごくない」


 私は少し面食らった。それから瀬田くんの家のことを聞き、自分の家のことを話し、家族のプレッシャーだとか将来のことだとかを話した。瀬田くんは、


「将来は医者になるんだ。両親が望むから」


 と言うので、私はこう返した。


「私はバックパッカーになって二十七歳くらいまでは世界旅行するかな。ほら、感染症も収まったし。親は大学に行っていい仕事に就いてって言うけど、関係なくない?」


 瀬田くんはぱちくりと目を瞬かせた。それから「そう」と答え、しばらく考え込んだ。私はくすくす笑い、


「瀬田くんもたまには自分のこと考えなきゃ。自分のための自分の将来、考えるの楽しいよ。瀬田くんも一年くらいバックパッカーやればいいのに!」


 と言った。瀬田くんはそんな私を見て、軽く微笑んだ。私も笑い返す。


「椎葉さんは」


 瀬田くんは言った。


「すごく笑顔がかわいいね」


 それから、また勉強を始めた。私は退屈になったので、その日は家に帰った。



 それから四日後の満月の今日、瀬田くんは狼男になった。好きな子ができて、それがみんなに知れ渡るのってすごくきついことだと思う。思春期にそれが起きたら恥ずかしくて街を歩けなくなるだろう。私たちは狼男化した少年たちを馬鹿にしてはいけないのだ。法律はないけれど、社会の風潮がそうなっている。


 そうやって社会が狼男たちをそっとしておくから、彼らは自分たちの変化に気づかない。ただ、確実に思春期の女子優位が強くなっている。彼女たちは瀬田くんを少し馬鹿にしている。


「瀬田、完全犬じゃん」

「あの声で号令かけられるの本当地獄だった。笑いこらえられなくて」

「狼男って言っても、犬だもんね。犬。笑うしかないって」


 私はそんな彼女たちの前を通り過ぎる。瀬田くんはクラスの模様の一部。でも、気の毒だ。彼女たちは私が教室を出ると、私の香水の匂いについて文句を垂れ始めた。


 くさくさする。今夜は夜まで家に帰りたくない。

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