異界越境家族(未満)
□□□
第1話
「お゛どぉざぁああん゛!」
ひどい濁点汚れの泣き喚き声に、
休日なんて無い、が当然の仕事柄だ。
今日は本当に、奇跡的に、小学校の下校時間以前に退勤できた。
お陰で娘を家で迎えられるというのに、当の娘はずびずびと鼻を垂らしてギャン泣きの帰宅らしい。
「ギーギャー声張るんじゃねぇ、バカ娘。また服、きったねぇくれぇ汚してきやがって」
呆れ果てたとばかりに四白眼を半分にし、モクジは一人娘――――ツツ
拭けるだけ拭いて、早く風呂に行け。
洗いたての、柔らかなタオル。
その白を、全身に被った生臭い血と臓物の赤で汚しながら。
*
「ツツ音ちゃん、清掃班が到着するまで現場で待ってればよかったのに」
職場の処理班所属である同僚が、モクジの差し出したどす赤黒いビニール袋を引き受け苦笑する。
家の風呂で血は流したが、バカ娘がやたらめったら引き
臓物の主である仏の無念を拝みつつ袋に一
モクジの身長は165そこそこ。
その腰ほどもない娘は、同僚の気やすい笑みに照れて、さっとモクジの足にしがみつく。
挨拶しろと
親として礼儀くらいは身につけさせてやりたいが、
モクジも強要まではせず、頬を軽く引っ張るに留めた。
照れ笑いが出る辺り、引っ込み思案という程でもない。
幼い娘に同僚は「かわいー!」と喜んで、引き取った臓物を調査に回しに行った。
日本の各都道府県ごとに置かれた警察本部。
その基本五(六)部署に加え、おおよそ十年前から新たな部署が発足した。
正式名称・異境界管理部。
その監守二課が、モクジの勤務先である。
約二十数年前のことだ。
世界各国で突如、当時の予測を遥かに超えた急激な地殻変動、それに伴う大規模な災害が頻発した。
それは日本も例外ではなく、
そして同時期、日本各地で奇怪な事件が確認されるようになった。
後に『
異境界と呼ばれる空間の裂け目より現れ、人間を異界へ引きずり込むようになったのだ。
樹手は、まず人を『食う』。
口があるわけではない。
しかし、幾筋にも細かく枝分かれした太い木蔦の先端は素早く人を強襲。
蜘蛛の巣の如く獲物に張り付き体内に侵入ののち、内側から人体を裁断する。
四肢欠損のようにいくらか分解された人間は、それでも息の根が止められる訳ではない。
瀕死ながらも臓器や出血を樹手に内部から保護コントロールされ、木蔦が絡みついたまま、異界に引きずり込まれていく。
目撃した当初の人をして、まさしく食われゆく
樹手は人を喰らう。
それだけでも十分人類にとって脅威の存在だったが、事はそれを超える危機であると、数年の経過を置いて人々は知る。
樹手が人を『生かしたまま』捕らえる。
まさしくその理由が、異境界管理部設立の発端である。
*
ツツ音が血潮を被った現場は、下校途中の人気ない林道だった。
すでに
被害者自体は境界に取り込まれ済みで、辺りには樹手襲撃時に飛び散った血と肉片の残骸がいくらかという程度。
人間の生命を維持したままという特性上、樹手もミンチ様までには人体に損壊は施さない。
しかし何事も例外があるように、ツツ音はたまたまひどい惨状に居合わせ、真正面から血を浴びる羽目になったらしい。
モクジは捜査に合流するべく、ツツ音を伴って現場に出向いていた。
当時をフラッシュバックするのか、小さな娘は半泣きでモクジに引っ付いて離れない。
そんなきかん坊から証言を取ろうと、モクジの同僚たちが大きな体を丸め、猫なで声で寄り集まってきた。
「ほらほらツツ音ちゃん泣かないで?ちょっとお話聞くだけだから!お話終わったらそこのアイス買ってあげるから!」
「怖かったね~現場は見なくていいからね~?おにーさん達は怖くないよぉ?大丈夫だからねぇ?」
「……やめろ気色悪ぃ」
娘の情操を案じ、モクジは悪ノリする成人男共を邪険に払う。
仕方なしにモクジが仲介で成り行きを聞くによれば、話はごく単純。
ツツ音が下校途中に散歩中らしき被害者とすれ違った直後が、樹手の発生だったらしい。
奴らは唐突に境目を割って現れる。
被害者は悲鳴を上げきらぬまま、ツツ音の頭上に体液だけ残し、連れ去られてしまった。
よくある事例とも言えるが、苦い話だった。
遭遇したのがたった五歳の娘という事も含めて。
「ごめん、おとーさ……」
ツツ音はしょぼんと肩を落とし、
謝るな。
しかしそんな言葉では、この小ささをもっと縮こまらせてしまうくらいは分かっている。
モクジはぐっと力の
「おい、ツツ音ぇ……俺はなぁ、お前に怒ってねぇし、お前がダメな奴だとも思ってねぇ。それにだな………………あー……違う。今のは無しだ」
ツツ音。
情けなさに濡れた目を、力込めた視線で拾い上げる。
そしてしっかりと噛み含めるように、
「俺はな。お前が、無事で、本当に、心底――――ホッとしてる」
と、モクジはツツ音の頭を
瞬間、小さな体から何かが
何もかもを預け切ったように、無垢で、無防備な、それの名を、
自分以外の誰かの優しさに心から安堵するからこそ、向けてもらえる。
『信頼』という心の形だと語ってくれたのは、ツツ音の母である女性、
*
朝霞という人は、元々モクジが上から押し付けられた見合い相手だ。
それも警察組織のトップである警察庁上層から直々下された、ほぼ拒否権のない『お相手』。
裏があるのは当然なので詳細は割愛するが、樹手対策関係で繋がりのある筋からの持ち込みであったらしい。
だが話が来た当時、モクジも異境界管理部に配属されて間もない新人。
若手として仕事にも打ち込みたいし、そもそも中肉中背……にギリ引っかかる程度の人相の悪い四白眼かつ不健康面の自分に結婚という縁などこれっぽちもないと、荒れに荒れた。
外見に対する自信のなさと
加えて女性経験の
ただ、運がいいと言えばいいのか。
当時モクジの直属の上司であった人は、年若い男の
無様な
いつものよれたスーツではなく、着こむのは折り目の通った新品の一張羅。
生来縁の薄い、
モクジを迎えたのは、とても美しく身なりを整えた妙齢の女性だった。
「木次高さんですね」
しっかりとした、それでいて
正面から人を見ても不快にさせない雰囲気。
容姿も服飾も、関係が無かった。
その人の
自らが小さい事に囚われる
時折見せてくれた、自分と同じ年頃と感じられる青い苦笑も、内側が凪ぐように心が落ち着いた。
だからこそ、約束の時間が終わるまでにモクジは断りを入れる気持ちを固めていた。
自分には過ぎた人だと思ったからだ。
そんな臆病風でしかない勝手な理由だという事だって、口下手の精一杯で心底頭を下げて伝えた。
なのに、そんなモクジの申し訳なさをすべて
「お気持ちは、分かりました。でも…………勿論、木次高さんが嫌でなければ、ですが……私は、次の約束をいただけることの方が嬉しいのですが、」
駄目ですか?と、
*
樹手の発生確認より、おおよそ半日程度。
現場から半径三キロ圏内は要警戒地域となる。
何故なら、連れ去られた人が戻ってくるからだ。
「アイス……も一個欲しかった……」
「アホ、三段までにしとけ。欲かいてなんでも吸い込む前に、味わって感謝するのも大事だ」
聴取のご褒美だと同僚たちに甘やかされた結果、小さな手が得たのは三段アイスだ。
そいつをぺろりと平らげて口を尖らせるツツ音に、モクジはきっちり苦言を示す。
ツツ音はこれで大食漢である。
どうせ夕飯もぺろりといくのは分かり切っていたが、親として言うべきラインというものもあるのだ。
「おとーさん!いつもの公園行けるよー、行こー!」
ツツ音が遭遇した樹手襲撃の現場から三キロ圏内を見回りつつ、親子はしばらく歩いていた。
そしていつの間にか、少しだけ高台にある、
その公園には、モクジの都合さえつけば、ツツ音にせがまれてよく通っている。
ツツ音は遊具もほとんどない、しかし町を見渡せるその静かな公園が好きだった。
以前そこが、モクジと母・朝霞の思い出の場所だと聴かされたからだ。
そしてモクジはあまり好きではなかった。
なぜならそこで、モクジは樹手に朝霞を奪われたからだ。
ツツ音が公園への坂道を駆けていく。
無線が音を発した。
同じく三キロ圏内を警戒している、課の同僚からの連絡だ。
「……木次高ァ」と端的に応答し、決して追いつけない事の無いよう、小さな背についていく。
『そっちもまだ見つけてないか?他も、《
「ツツ音もいる。そうしてくれ」
娘の事を一番に言う。
それくらいモクジ当人が否定したとしても、周囲はその親バカを認めている。
向こうのスピーカー口で小さな笑いが震え、同僚は『お前、ツツ音ちゃんのお陰で言葉が上手くなったな』と、娘に無事を心底願ったと伝えるため言葉を選んでいた先ほどを暗示して、声を穏やかにした。
昔は、そんな器用なことはできないと端から放り投げるような奴だったのにと。
一瞬鼻白みながらも、モクジは「俺ももう親だからなァ」と渋く答えた。
だってもう、ツツ音に丁寧な言葉遣いを、気持ちの伝え方を教えてくれる
だったら、自分が代わりにやるしかないと、腹くらいは決めている。
「朝霞さんみたいにしゃんと
もうあいつに言葉を使って見せてやれない朝霞さんの代わりは、俺がやるしかねーんだ。
どこか開き直ったように本音を吐くモクジに、同僚はまた笑った。
そして珍しく、
きっとそのおかげで、ツツ音ちゃんは今あんなに『普通』でいられる。
そう、確信を込めた想いで。
*
片手で数える程度の
それだけ。
しかしそれだけで、モクジは朝霞を自分の特別だと認めるほど近しく、彼女に心を寄せた。
そして朝霞も、逢瀬の別れ際に必ず、自分から次の約束を願ってくれた。
彼女ばかりに言わせるのも心苦しいと、モクジから口を開いたこともあった。
それでも次会う事には変わりないが、
「木次高さんは好意を言葉で言っても、簡単に信用するような方ではなさそうなので。次の約束を私からお願いすれば、私の方もまた会いたいと思っているって、木次高さんに納得してもらえるかな?と思ったんです」
そんな殺し文句を屈託なく突き刺してくるのだから、堪ったものではなかった。
朝霞は彼女の意思をどう扱えば『間違わないか』と
あの時はまさしく情けないと思った。
だがそこに重ねて、
「そういう慎重さが、最初は木次高さん自身の保身のためだったとしても。今は私を尊重したいと思ってくれているから一生懸命なんだと感じているので……私はまた、あなたに会いたいと思ってしまうんですけど……それは伝わってましたか?」
だから、早々に観念しようとしていたのだ。
見合いの記憶から『
朝霞との縁に明確な名前を持ちたいと願うなら、万全に平常心を保っていたい。
丁度片手を超えた、逢瀬の最後。
結局モクジが足を向けたのは、最初の回で朝霞がいい所だと気に入ってくれた、あの高台の公園だ。
ほんの少しの時間しか過ごしていないはずの二人の間で、定番になった場所だ。
何も用意はしていない。
結婚を一足飛びに願う程
ただ、ほんの少しの変化を望んでいる。
それだけを伝えたい。
それだけだ。
それだけ、だったのに。
朝霞は突如現れた樹手によって、モクジの目の前で、血まみれのまま消えてしまった。
手を伸ばした。
確かに届いた。
けれど、取り返しは出来なかった。
連れて行くなと激情したモクジの必死を
破損した前腕を強く握りしめて、肉と心を裂く激痛にのたうって。
モクジはあの日、自らの無様に
*
「おとーさん、
だだっ広い広場の先、少し高めの安全柵の前で、ツツ音が楽しそうに手を伸ばす。
追い付いたモクジは年の割にまだ小さく軽い体を持ちあげ、柵の途中に足を掛けさせてやった。
広がる景色に嬉しさで揺れる体を片手で支えてやれば、幼い歓声が空に広がる。
「映画のビル、ケーキいっぱい食べれるとこ、おとーさんがハンカチ
ここに来れば、いつも繰り返す指さし確認。
ツツ音が、せがんで、
どうしても聞きたいとモクジに
行きたいと、言う訳でもない。
ただモクジが語るだけで嬉しくて仕方がないというように、何度も同じ話で笑う。
何度話しても頭を抱えて
――――いつも、笑うようになった。
何の
それなのに、よく、笑ってくれるようになった。
ずっと、モクジは言葉を交わせなかった。
伝えても、伝えたい相手からは返らない想いを
でも、いつの頃からか、ツツ音が言葉の先に居た。
まだ真っ白な、何も持たない赤子だったツツ音に。
そんな未知の存在に、どう思いを向ければいいのかも想像できないまま、モクジは
けれどいつの間にか、あの無反応な命は、父親以上に多くを投げかけてくれるようになった。
小さな背を支える
義手でしかない感覚の通じないそこへ、でも、確かなものを感じている。
ここで、いつも、こうして。
朝霞を取りこぼしたこの場所で、モクジはまた一つ、自分の手の中に握りしめていたいものを見つけた。
その実感があった。
だからもう二度と失わない。
「おとーさん、」
ほら、
遠くを飛ぶ鳥を指して、ツツ音が笑う。
――――ドッ
鈍い音。
飛び散る血潮。
驚愕に見開かれたツツ音の瞳を、鮮烈な赤が汚す。
時が凍り付いていくような景色に、モクジは
細い脇腹を
あの忘れもしない悪夢の日の、朝霞と同じように。
「ツツ音ぇえええ!!」
絶叫と共に、モクジは衝撃の走る腕を振るった。
灰褐色の蔦は、ツツ音の背を支えるモクジの義手を貫通して、ツツ音に達していた。
灰褐色の木蔦に巻き取られそうになる腕ごと、ツツ音から木蔦を引き剥がす。
のびやかな空を背に、ぎょっと開いた
そこからうぞうぞ、次から次へとのたうち出てくる、灰褐色の群れ。
樹手。
還俗した……!
「クソがァ……!当たり引かせやがってッ」
幻肢痛はまだ残っている。
思い出す。
憎悪と悔恨に焼ける記憶。
あったはずの腕に成り代わる義手を握りしめ、モクジは悪し様吐き捨てた。
還俗。
人を取り込んだ樹手が、再び姿を見せること。
姿を現し、そして、連れ去った人間を苗床にして作られた、樹手の種を現世に持ち込むこと。
膨れ上がる灰褐色の
ぞろりと開いたそれは、血液混じりの粘液を
肉――――人の体だ。
頭部は眼球と
まるで子供が作った雪だるまのようにあべこべで不格好な方向に生える四肢。
それらが突き刺さる中核は、元々人間の胴だった場所は、何百匹ものミミズを詰め込んだビニール袋の如く膨らんで、薄膜になり果てた肉の下の蠢きを
「こちら木次高ァ!種が出たぞ!!」
無線に絶叫、即座の応援を求める。
還俗が起これば、必ず種は始末しなければならない。
なぜならそこから生まれるモノは、
『異界に根があるためにこちら側へ浸食が制限されている樹手が、こちら側で自由に活動する先遣として人の肉と樹手の肉を混ぜて作った合いの子』だからだ。
決して、世に
無線ががなる。
急行を伝える言葉と、安否を確認する声。
畜生が。
モクジは吐き捨てて、ツツ音を一層強く腕に
「潰させろ、その気色悪ぃ成れの果て。てめぇらが来ていい領分じゃねぇんだよ、ここはァ……ッ」
種を守る樹手に殺気を放ち、モクジは血を吹くほどに奥歯を噛みしめる。
樹手は朝霞を奪った。
持って行くなと取り
何度あの裂け目に飛び込んで、根こそぎ千々に
それでもそれをしなかったのは、
「ツツ音」
この腕の中の命を、朝霞がくれたから。
案じる声で名を呼んで、モクジはぐったりとする娘の顔を
すでに体内に侵入した樹手の破片が、皮膚の下を伸びている。
捕獲できる状態に欠損破壊されるまで、
普通なら。
「ツツ音、目ぇ開けろ」
本体と引き剥がされたせいで勢いはないが、それでもゆっくり侵食する灰褐色の筋。
すでにあどけない顔の半分を
半分が崩壊した顔。
だが、唐突に瞼は開く。
黒く
『ぅ、お゛、どぉ、ざ……ぁ゛』
歪に
瞬間、幼い体を
ツツ音の肉が。
樹手に喰われていた肉が、今度は樹手を喰いちぎり、飲み込み始める。
『ぃだぁ……いだぁいぃい゛い……!!』
到底子供のものではない声でツツ音は絶叫し、体全体の肉で侵食する異物を噛み砕き、吸収していく。
辛いだろう、苦しいだろう。
体の内側を
でも、もう少し。
もう少しだから、ツツ音。
負けるなよ、
「……お前は強ぇ子だ」
微かに震える舌先に言葉を乗せて、モクジは樹手を取り込み切ったツツ音を見た。
半壊した顔面。
そこに浮く黒の眼球。
おおよそ人の有様とは言えない。
それでも、ツツ音は歪に笑う。
人としてのツツ音の意思を乗せて、ひくひくと笑って、
『ごろ゛、ぞ、おどぉ、ざ』
あの化け物を消し去る許可を、モクジに願う。
「――――ああ、派手にやれ。ぶっ放せ」
小さな我が子にこれからさせる行為の痛みを飲んで。
ちょっとした親父の
それらを乗せた
ツツ音は
『お゛、ま゛え゛ら゛、ぜんぶ、ゆ゛るざな゛い゛』
おとーさんから、おかーさん、
全部全部、消えろ。
消えてしまえ。
ボコボコと肉を割る音。
崩れたツツ音の顔面から、黒い何かが姿を現す。
それは銃口だった。
あの日、朝霞を守れなかったモクジの手が握りしめていた拳銃の銃口。
大切だった人と共に奪われた手の中にあったもの。
異境界管理部所属職員全てが携帯を許されるそれは、元々、一般的な仕様のものに過ぎない。
だが、ツツ音の中に宿るこの銃口が打ち出す弾丸は、訳が違う。
どう生み出されるのかも分からない鉛玉は、異界生命体である樹手の体細胞を
肉樹の種も、同様に。
「俺たちのとこに顔出したのが運の尽きだ」
壮絶な威嚇に引き上がる口角で、モクジは
同時にツツ音も、
『ギエ゛ロ゛』
弾丸は正確に二発。
まさしく肉樹の種と、裂け目の奥にある樹手の根を捉えた。
声とも言えぬ樹手の断末魔が空気を引き裂く。
たちどころにドブの
凄まじい腐臭が吹き寄せた。
異形の命が腐り落ちる。
その証が、渦巻いた。
*
小さな体を抱いている。
傷に
ここは、限られた職員にしか立ち入りを許されない場所。
研究関係者でもないモクジたちでは、本来足を踏み入ることはできない。
二人の来訪が、とある要研究兼監視対象の反応を誘発しない限り。
最後の厳重な扉を
「朝霞さん」
呼ばれた名に、肉樹の種の成り損ないがうぞろと顔を上げる。
現場で見た、憐れな肉塊。
本来肉樹の苗床にされた人は、肉樹の誕生と共に完全な死を迎える。
けれど、朝霞は帰ってきた。
還俗の瞬間こちらへ吐き出された朝霞の成れの果ては、それでも蠢いた。
しかもどういう訳か、その
いや、正確には宿った肉樹と自らの肉、そして共に連れていかれたモクジの手の肉を元に生まれた、ツツ音を
『お、がーさん゛……?』
常人的ではない回復に眠気を
モクジの腕の中から手をのばし、分厚いガラス越しに
肉樹の種として人の姿を崩壊させた朝霞の顔には、もう人であった頃の表情ない。
それでもまるで優しげな動きをする指先が、忘れてしまった言葉の代わりに、ツツ音とモクジを求めるようであった。
朝霞にはもう、人としての意思は戻らないだろう。
それでもこの悲しい姿を残したいかと、上層部からは一応の確認を寄越された。
この朝霞に、人を害する意思は感じられない。
肉樹を孕んでいない以上、脅威としての可能性は低い。
研究材料として、どのみち上は朝霞を利用する意図はあったのだ、どうせ。
だとしても、モクジは
人とも言えないと奪われそうになった赤子のツツ音を死に物狂いの交渉で取り戻し、朝霞とツツ音を研究の素体として差し出す協力をするという憎悪を吹くような契約を組織と交わし。
例え利用されるとしても、
まだもう少しだけ、ツツ音が母親を感じる必要がある間だけでも。
そこにいてほしい。
俺が、あんたのそばにいたい。
まだ、諦めきれない。
あの日伝えられなかった関係を変えたいという願いに、朝霞の意思が答えを返してくれるまで。
人の理知を忘れた、畜生のように蠢くだけの朝霞の形を、諦めきれない。
おかーさん。
モクジの大切なもの達が、嬉しげに手を重ね合わせる。
朝霞だったモノは、おおよそ内面の何かが欠如したような動きで首を傾げ、二人をただじいっと眼球のない崩れた顔で眺めていた。
この朝霞だったモノに、人の言葉など期待するのは空虚だろう。
分かっている、理性だけが。
だがコレは、モクジとツツ音の前以外では、決して反応を示さない。
「……あんたの嬉しそうな顔が見れて、俺も嬉しい」
淡い笑いが、自然と零れる。
まだ、自分たちは家族ではない。
モクジは朝霞に、願いを投げかけてすらいない。
けれどいつか、この抜け殻に、人としての朝霞の何かがまた宿るとしたら。
どうか、
「(その時は改めて、俺の方から同じ籍に入ってほしいと拝み倒すんで。俺たちの言葉で、答えを下さい)」
きっと。
異界越境家族(未満) □□□ @koten-3
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