異界越境家族(未満)

□□□

第1話

 「お゛どぉざぁああん゛!」


 ひどい濁点汚れの泣き喚き声に、木次高きじたかモクジはうんざり、玄関へ向かった。


 休日なんて無い、が当然の仕事柄だ。

 今日は本当に、奇跡的に、小学校の下校時間以前に退勤できた。

 お陰で娘を家で迎えられるというのに、当の娘はずびずびと鼻を垂らしてギャン泣きの帰宅らしい。


「ギーギャー声張るんじゃねぇ、バカ娘。また服、きったねぇくれぇ汚してきやがって」


 呆れ果てたとばかりに四白眼を半分にし、モクジは一人娘――――ツツにタオルを投げつける。

 拭けるだけ拭いて、早く風呂に行け。

 たるあごをしゃくれば、しょぼくれで泣き続けるツツ音は、一層情けない顔で全身を拭い始めた。

 洗いたての、柔らかなタオル。

 その白を、全身に被った生臭い血と臓物の赤で汚しながら。





「ツツ音ちゃん、清掃班が到着するまで現場で待ってればよかったのに」


 職場の処理班所属である同僚が、モクジの差し出したどす赤黒いビニール袋を引き受け苦笑する。

 家の風呂で血は流したが、バカ娘がやたらめったら引きって帰ってきた臓器や肉片は、流石にそのまま生ごみに――――とはいかない。

 臓物の主である仏の無念を拝みつつ袋に一まとめにし、モクジは退勤したばかりの職場にとんぼ帰りした。

 モクジの身長は165そこそこ。

 その腰ほどもない娘は、同僚の気やすい笑みに照れて、さっとモクジの足にしがみつく。

 挨拶しろとうながしても、はにかみが止まずにグネグネと身をよじるばかり。

 親として礼儀くらいは身につけさせてやりたいが、如何いかんせんまだ成長途上である。

 モクジも強要まではせず、頬を軽く引っ張るに留めた。

 照れ笑いが出る辺り、引っ込み思案という程でもない。

 幼い娘に同僚は「かわいー!」と喜んで、引き取った臓物を調査に回しに行った。



 日本の各都道府県ごとに置かれた警察本部。

 その基本五(六)部署に加え、おおよそ十年前から新たな部署が発足した。

 正式名称・異境界管理部。

 その監守二課が、モクジの勤務先である。


 約二十数年前のことだ。

 世界各国で突如、当時の予測を遥かに超えた急激な地殻変動、それに伴う大規模な災害が頻発した。

 それは日本も例外ではなく、数多あまたの被害を記録する。

 そして同時期、日本各地で奇怪な事件が確認されるようになった。

 

 後に『樹手じゅしゅ』と名付けられた、灰褐色の木蔦きづたによく似た異形が発現。

 異境界と呼ばれる空間の裂け目より現れ、人間を異界へ引きずり込むようになったのだ。


 樹手は、まず人を『食う』。

 口があるわけではない。

 しかし、幾筋にも細かく枝分かれした太い木蔦の先端は素早く人を強襲。

 蜘蛛の巣の如く獲物に張り付き体内に侵入ののち、内側から人体を裁断する。

 四肢欠損のようにいくらか分解された人間は、それでも息の根が止められる訳ではない。

 瀕死ながらも臓器や出血を樹手に内部から保護コントロールされ、木蔦が絡みついたまま、異界に引きずり込まれていく。

 目撃した当初の人をして、まさしく食われゆくむごい有様だったとニュースは踊り、人食いの樹の触手――――『樹手』と名付けられたのだ。


 樹手は人を喰らう。

 それだけでも十分人類にとって脅威の存在だったが、事はそれを超える危機であると、数年の経過を置いて人々は知る。

 樹手が人を『生かしたまま』捕らえる。

 まさしくその理由が、異境界管理部設立の発端である。





 ツツ音が血潮を被った現場は、下校途中の人気ない林道だった。

 すでに所轄しょかつの方で規制線が張られている。

 被害者自体は境界に取り込まれ済みで、辺りには樹手襲撃時に飛び散った血と肉片の残骸がいくらかという程度。

 人間の生命を維持したままという特性上、樹手もミンチ様までには人体に損壊は施さない。

 しかし何事も例外があるように、ツツ音はたまたまひどい惨状に居合わせ、真正面から血を浴びる羽目になったらしい。

 モクジは捜査に合流するべく、ツツ音を伴って現場に出向いていた。

 当時をフラッシュバックするのか、小さな娘は半泣きでモクジに引っ付いて離れない。

 そんなきかん坊から証言を取ろうと、モクジの同僚たちが大きな体を丸め、猫なで声で寄り集まってきた。


「ほらほらツツ音ちゃん泣かないで?ちょっとお話聞くだけだから!お話終わったらそこのアイス買ってあげるから!」

「怖かったね~現場は見なくていいからね~?おにーさん達は怖くないよぉ?大丈夫だからねぇ?」

「……やめろ気色悪ぃ」


 娘の情操を案じ、モクジは悪ノリする成人男共を邪険に払う。

 仕方なしにモクジが仲介で成り行きを聞くによれば、話はごく単純。

 ツツ音が下校途中に散歩中らしき被害者とすれ違った直後が、樹手の発生だったらしい。

 奴らは唐突に境目を割って現れる。

 被害者は悲鳴を上げきらぬまま、ツツ音の頭上に体液だけ残し、連れ去られてしまった。

 よくある事例とも言えるが、苦い話だった。

 遭遇したのがたった五歳の娘という事も含めて。





「ごめん、おとーさ……」


 ツツ音はしょぼんと肩を落とし、つらそうに処理されていく血の跡に目を落とす。

 謝るな。

 咄嗟とっさに雑な本音が口を突きそうになった。

 しかしそんな言葉では、この小ささをもっと縮こまらせてしまうくらいは分かっている。

 モクジはぐっと力のこもった体から息をいて、娘と同じ視線の高さまで腰を落とした。


「おい、ツツ音ぇ……俺はなぁ、お前に怒ってねぇし、お前がダメな奴だとも思ってねぇ。それにだな………………あー……違う。今のは無しだ」


 ツツ音。


 情けなさに濡れた目を、力込めた視線で拾い上げる。

 そしてしっかりと噛み含めるように、


「俺はな。お前が、無事で、本当に、心底――――ホッとしてる」


と、モクジはツツ音の頭をでた。

 瞬間、小さな体から何かがにじむ。

 何もかもを預け切ったように、無垢で、無防備な、それの名を、


 自分以外の誰かの優しさに心から安堵するからこそ、向けてもらえる。

 『信頼』という心の形だと語ってくれたのは、ツツ音の母である女性、朝霞あさかだった。





 朝霞という人は、元々モクジが上から押し付けられた見合い相手だ。

 それも警察組織のトップである警察庁上層から直々下された、ほぼ拒否権のない『お相手』。

 裏があるのは当然なので詳細は割愛するが、樹手対策関係で繋がりのある筋からの持ち込みであったらしい。

 だが話が来た当時、モクジも異境界管理部に配属されて間もない新人。

 若手として仕事にも打ち込みたいし、そもそも中肉中背……にギリ引っかかる程度の人相の悪い四白眼かつ不健康面の自分に結婚という縁などこれっぽちもないと、荒れに荒れた。

 外見に対する自信のなさとひねくれた性格。

 加えて女性経験のとぼしさも相まって、こじらせを拗らせまくったのである。

 ただ、運がいいと言えばいいのか。

 当時モクジの直属の上司であった人は、年若い男の面子めんつという面倒な割れ物にいたく理解を示す人で。

 無様なさらし者になりたくないとごねるモクジの身支度を全てけ負い、見合い当日の朝に指定のホテルへの送迎まで手配してくれたのだ。

 いつものよれたスーツではなく、着こむのは折り目の通った新品の一張羅。

 生来縁の薄い、洒落しゃれたホテルの内装のせいですでに居たたまれないというのに、


 モクジを迎えたのは、とても美しく身なりを整えた妙齢の女性だった。


「木次高さんですね」


 しっかりとした、それでいて臆面おくめんは一切ない発話。

 正面から人を見ても不快にさせない雰囲気。

 容姿も服飾も、関係が無かった。

 その人のかもす気配にこそ、モクジは言葉を忘れた。

 自らが小さい事に囚われる性質たちだとどこかで自認していたからこそ、対極の人だと直感した。

 うながされるまま席につき、丁寧に向き合われながら話をし、この場を強制されはしなかったかと心を案じられ、直感は確信に変わる。

 時折見せてくれた、自分と同じ年頃と感じられる青い苦笑も、内側が凪ぐように心が落ち着いた。


 だからこそ、約束の時間が終わるまでにモクジは断りを入れる気持ちを固めていた。


 自分には過ぎた人だと思ったからだ。

 そんな臆病風でしかない勝手な理由だという事だって、口下手の精一杯で心底頭を下げて伝えた。

 なのに、そんなモクジの申し訳なさをすべてすくい上げて、


「お気持ちは、分かりました。でも…………勿論、木次高さんが嫌でなければ、ですが……私は、次の約束をいただけることの方が嬉しいのですが、」


 駄目ですか?と、安部やすべ朝霞、その人は真っ直ぐな目で言った。





 樹手の発生確認より、おおよそ半日程度。

 現場から半径三キロ圏内は要警戒地域となる。


 何故なら、が戻ってくるからだ。


「アイス……も一個欲しかった……」

「アホ、三段までにしとけ。欲かいてなんでも吸い込む前に、味わって感謝するのも大事だ」


 聴取のご褒美だと同僚たちに甘やかされた結果、小さな手が得たのは三段アイスだ。

 そいつをぺろりと平らげて口を尖らせるツツ音に、モクジはきっちり苦言を示す。

 ツツ音はこれで大食漢である。

 どうせ夕飯もぺろりといくのは分かり切っていたが、親として言うべきラインというものもあるのだ。


「おとーさん!いつもの公園行けるよー、行こー!」


 ツツ音が遭遇した樹手襲撃の現場から三キロ圏内を見回りつつ、親子はしばらく歩いていた。

 そしていつの間にか、少しだけ高台にある、馴染なじみの公園のすぐそばまで来ていたのだ。

 その公園には、モクジの都合さえつけば、ツツ音にせがまれてよく通っている。

 ツツ音は遊具もほとんどない、しかし町を見渡せるその静かな公園が好きだった。

 以前そこが、モクジと母・朝霞の思い出の場所だと聴かされたからだ。

 そしてモクジはあまり好きではなかった。



 なぜならそこで、モクジは樹手に朝霞を奪われたからだ。



 ツツ音が公園への坂道を駆けていく。

 無線が音を発した。

 同じく三キロ圏内を警戒している、課の同僚からの連絡だ。

 「……木次高ァ」と端的に応答し、決して追いつけない事の無いよう、小さな背についていく。


『そっちもまだ見つけてないか?他も、《還俗げんぞく》の発生は確認されてない。だがそろそろ、過去の事例でいうだ。――――用心しろ。そちらで出れば、俺たちもすぐ急行する』

「ツツ音もいる。そうしてくれ」


 娘の事を一番に言う。

 それくらいモクジ当人が否定したとしても、周囲はその親バカを認めている。

 向こうのスピーカー口で小さな笑いが震え、同僚は『お前、ツツ音ちゃんのお陰で言葉が上手くなったな』と、娘に無事を心底願ったと伝えるため言葉を選んでいた先ほどを暗示して、声を穏やかにした。

 昔は、そんな器用なことはできないと端から放り投げるような奴だったのにと。

 一瞬鼻白みながらも、モクジは「俺ももう親だからなァ」と渋く答えた。

 だってもう、ツツ音に丁寧な言葉遣いを、気持ちの伝え方を教えてくれる朝霞ははおやはいない。

 だったら、自分が代わりにやるしかないと、腹くらいは決めている。


「朝霞さんみたいにしゃんとしゃべれりゃ、あいつの情操上も良かったんだろうが……俺はその点、ド下手なもんだからよぉ」


もうあいつに言葉を使って見せてやれない朝霞さんの代わりは、俺がやるしかねーんだ。


 どこか開き直ったように本音を吐くモクジに、同僚はまた笑った。

 そして珍しく、揶揄からかいのない声音で言う。


 きっとそのおかげで、ツツ音ちゃんは今あんなに『普通』でいられる。


 そう、確信を込めた想いで。





 片手で数える程度の逢瀬おうせしかなかった。

 それだけ。

 しかしそれだけで、モクジは朝霞を自分の特別だと認めるほど近しく、彼女に心を寄せた。

 そして朝霞も、逢瀬の別れ際に必ず、自分から次の約束を願ってくれた。

 彼女ばかりに言わせるのも心苦しいと、モクジから口を開いたこともあった。

 それでも次会う事には変わりないが、


「木次高さんは好意を言葉で言っても、簡単に信用するような方ではなさそうなので。次の約束を私からお願いすれば、私の方もまた会いたいと思っているって、木次高さんに納得してもらえるかな?と思ったんです」


 そんな殺し文句を屈託なく突き刺してくるのだから、堪ったものではなかった。

 朝霞は彼女の意思をどう扱えば『間違わないか』と躊躇ためらうモクジのらぎを見抜いていた。

 あの時はまさしく情けないと思った。

 だがそこに重ねて、


「そういう慎重さが、最初は木次高さん自身の保身のためだったとしても。今は私を尊重したいと思ってくれているから一生懸命なんだと感じているので……私はまた、あなたに会いたいと思ってしまうんですけど……それは伝わってましたか?」


 とどめを刺す手抜かりもないのだから、モクジに勝ち目などなかったのである。



 だから、早々に観念しようとしていたのだ。

 見合いの記憶から『きらびやかな場所では、自分は馬鹿をやりそうだ』と、心底痛感していた。

 朝霞との縁に明確な名前を持ちたいと願うなら、万全に平常心を保っていたい。

 丁度片手を超えた、逢瀬の最後。

 結局モクジが足を向けたのは、最初の回で朝霞がいい所だと気に入ってくれた、あの高台の公園だ。

 ほんの少しの時間しか過ごしていないはずの二人の間で、定番になった場所だ。

 何も用意はしていない。

 結婚を一足飛びに願う程ほうけてもいない。

 ただ、ほんの少しの変化を望んでいる。

 それだけを伝えたい。

 それだけだ。


 それだけ、だったのに。






 朝霞は突如現れた樹手によって、モクジの目の前で、血まみれのまま消えてしまった。



 手を伸ばした。

 確かに届いた。

 けれど、取り返しは出来なかった。

 連れて行くなと激情したモクジの必死を嘲笑あざわらうように、樹手は朝霞の手をつかんだモクジの利き手を道連れに、異界へと全てを消し去ってしまった。


 破損した前腕を強く握りしめて、肉と心を裂く激痛にのたうって。

 モクジはあの日、自らの無様に慟哭どうこくした。





「おとーさん、さく登っていい?!町見たい、町ぃ!」


 だだっ広い広場の先、少し高めの安全柵の前で、ツツ音が楽しそうに手を伸ばす。

 追い付いたモクジは年の割にまだ小さく軽い体を持ちあげ、柵の途中に足を掛けさせてやった。

 広がる景色に嬉しさで揺れる体を片手で支えてやれば、幼い歓声が空に広がる。


「映画のビル、ケーキいっぱい食べれるとこ、おとーさんがハンカチもらったおっきい店!」


 ここに来れば、いつも繰り返す指さし確認。

 ツツ音が、せがんで、わめいて、さんざっぱら駄々だだをこねて。

 どうしても聞きたいとモクジに強請ねだった、両親の思い出の場所。

 行きたいと、言う訳でもない。

 ただモクジが語るだけで嬉しくて仕方がないというように、何度も同じ話で笑う。

 何度話しても頭を抱えてうめき声をあげたくなる父親のうらめし気な顔にも腹を抱えて、いつも。





 ――――いつも、笑うようになった。


 何の産声うぶごえも上げず、産まれた子だったのに。

 それなのに、よく、笑ってくれるようになった。

 ずっと、モクジは言葉を交わせなかった。

 伝えても、伝えたい相手からは返らない想いを渇望かつぼうして、朝霞を助けられなかった日からもがき続けた。

 でも、いつの頃からか、ツツ音が言葉の先に居た。

 まだ真っ白な、何も持たない赤子だったツツ音に。

 そんな未知の存在に、どう思いを向ければいいのかも想像できないまま、モクジは惰性だせいで話しかけて、育てて。

 けれどいつの間にか、あの無反応な命は、父親以上に多くを投げかけてくれるようになった。


 小さな背を支えるてのひらに、何かが脈打つ。

 義手でしかない感覚の通じないそこへ、でも、確かなものを感じている。

 ここで、いつも、こうして。

 朝霞を取りこぼしたこの場所で、モクジはまた一つ、自分の手の中に握りしめていたいものを見つけた。

 その実感があった。

 だからもう二度と失わない。

 

「おとーさん、」


 ほら、


 遠くを飛ぶ鳥を指して、ツツ音が笑う。








 ――――ドッ


 鈍い音。

 飛び散る血潮。

 驚愕に見開かれたツツ音の瞳を、鮮烈な赤が汚す。


 時が凍り付いていくような景色に、モクジはくずおれる体を抱き留めた。


 細い脇腹を穿うがつ灰褐色の木蔦が、柔い肉の中に根を張り始める。



 あの忘れもしない悪夢の日の、朝霞と同じように。



「ツツ音ぇえええ!!」



 絶叫と共に、モクジは衝撃の走る腕を振るった。

 灰褐色の蔦は、ツツ音の背を支えるモクジの義手を貫通して、ツツ音に達していた。

 灰褐色の木蔦に巻き取られそうになる腕ごと、ツツ音から木蔦を引き剥がす。

 痙攣けいれんする体をきつく抱きしめ、モクジは背後を振り返った。


 のびやかな空を背に、ぎょっと開いたいびつな裂け目。

 そこからうぞうぞ、次から次へとのたうち出てくる、灰褐色の群れ。

 樹手。



 還俗した……!



「クソがァ……!当たり引かせやがってッ」


 

 思い出す。

 憎悪と悔恨に焼ける記憶。

 あったはずの腕に成り代わる義手を握りしめ、モクジは悪し様吐き捨てた。


 還俗。

 人を取り込んだ樹手が、再び姿を見せること。

 姿を現し、そして、連れ去った人間を苗床にして作られた、を現世に持ち込むこと。


 膨れ上がる灰褐色のうごめき。

 一際ひときわ肥え太った一本の先端に、花のがくに似た器官が閉じられている。

 ぞろりと開いたそれは、血液混じりの粘液をしたたらせ、吐き気をもよおす肉塊を産み落とした。

 肉――――人の体だ。

 頭部は眼球とあごを失い、体の皮膚のほとんどがはごがれ落ちて地を引きずる。

 まるで子供が作った雪だるまのようにあべこべで不格好な方向に生える四肢。

 それらが突き刺さる中核は、元々人間の胴だった場所は、何百匹ものミミズを詰め込んだビニール袋の如く膨らんで、薄膜になり果てた肉の下の蠢きをさらす。


「こちら木次高ァ!種が出たぞ!!」


 無線に絶叫、即座の応援を求める。

 還俗が起これば、必ず種は始末しなければならない。


 なぜならそこから生まれるモノは、

『異界に根があるためにこちら側へ浸食が制限されている樹手が、こちら側で自由に活動する先遣として人の肉と樹手の肉を混ぜて作った』だからだ。


 肉樹にくじゅ渾名あだなされるそれは、樹手と同じく人を襲い、人を苗床に仲間を増やす。

 決して、世に蔓延はびこらせてはならぬモノ。


 無線ががなる。

 急行を伝える言葉と、安否を確認する声。

 畜生が。

 モクジは吐き捨てて、ツツ音を一層強く腕にかばった。


「潰させろ、その気色悪ぃ成れの果て。てめぇらが来ていい領分じゃねぇんだよ、ここはァ……ッ」


 種を守る樹手に殺気を放ち、モクジは血を吹くほどに奥歯を噛みしめる。



 樹手は朝霞を奪った。

 持って行くなと取りすがるモクジの絶叫を嘲笑うように、その腕すら食いちぎって彼女を手の中から失わせた。

 何度あの裂け目に飛び込んで、根こそぎ千々に蹂躙じゅうりんしてやりたいと願ったか分からない。

 それでもをしなかったのは、


「ツツ音」


 この腕の中の命を、朝霞がくれたから。



 案じる声で名を呼んで、モクジはぐったりとする娘の顔をのぞきこむ。

 すでに体内に侵入した樹手の破片が、皮膚の下を伸びている。

 捕獲できる状態に欠損破壊されるまで、猶予ゆうよはない、



 普通なら。






「ツツ音、目ぇ開けろ」


 本体と引き剥がされたせいで勢いはないが、それでもゆっくり侵食する灰褐色の筋。

 すでにあどけない顔の半分をおおうそれは、閉じられたまぶたごと、眼球に食らいつく寸前であった。

 半分が崩壊した顔。

 だが、唐突に瞼は開く。


 黒くにごった血に染まったような、黒一色の目がモクジを捕らえる。


『ぅ、お゛、どぉ、ざ……ぁ゛』


 歪にじれた声が、ツツ音ののどからあふれた。

 瞬間、幼い体をむしばんでいた樹手の破片が激しく痙攣して暴れ出す。

 ツツ音の肉が。

 樹手に喰われていた肉が、今度は


『ぃだぁ……いだぁいぃい゛い……!!』


 到底子供のものではない声でツツ音は絶叫し、体全体の肉で侵食する異物を噛み砕き、吸収していく。

 辛いだろう、苦しいだろう。

 体の内側をけずるような心境で娘をき抱き、モクジは小さな頭を撫でた。

 でも、もう少し。

 もう少しだから、ツツ音。

 負けるなよ、蹴散けちらせ。


「……お前は強ぇ子だ」


 微かに震える舌先に言葉を乗せて、モクジは樹手を取り込み切ったツツ音を見た。

 半壊した顔面。

 そこに浮く黒の眼球。

 おおよそ人の有様とは言えない。

 それでも、ツツ音は歪に笑う。

 人としてのツツ音の意思を乗せて、ひくひくと笑って、


『ごろ゛、ぞ、おどぉ、ざ』


 あの化け物を消し去る許可を、モクジに願う。


「――――ああ、派手にやれ。ぶっ放せ」


 小さな我が子にこれからさせる行為の痛みを飲んで。

 ちょっとした親父の面子めんつと、ツツ音の背を支える想い。

 それらを乗せたうそぶきの余裕で、モクジは皮肉に笑って言った。

 ツツ音は相好そうごうを崩し、そのあどけなさを無垢な残虐にして、崩壊した顔面を異形に向ける。


『お゛、ま゛え゛ら゛、ぜんぶ、ゆ゛るざな゛い゛』


 おとーさんから、おかーさん、ったから。

 全部全部、消えろ。

 消えてしまえ。


 ボコボコと肉を割る音。

 崩れたツツ音の顔面から、黒い何かが姿を現す。

 それは銃口だった。


 あの日、朝霞を守れなかったモクジの手が握りしめていた拳銃の銃口。

 大切だった人と共に奪われた手の中にあったもの。


 異境界管理部所属職員全てが携帯を許されるそれは、元々、一般的な仕様のものに過ぎない。

 だが、ツツ音の中に宿るこの銃口が打ち出す弾丸は、訳が違う。

 どう生み出されるのかも分からない鉛玉は、異界生命体である樹手の体細胞をもろく腐食させ、破壊する。

 肉樹の種も、同様に。


「俺たちのとこに顔出したのが運の尽きだ」


 壮絶な威嚇に引き上がる口角で、モクジはチェックメイトつみを告げた。

 同時にツツ音も、


『ギエ゛ロ゛』


 怨嗟えんさを唱えて、銃口が火を噴く。


 弾丸は正確に二発。

 まさしく肉樹の種と、裂け目の奥にある樹手の根を捉えた。

 声とも言えぬ樹手の断末魔が空気を引き裂く。

 たちどころにドブのにごりにも似た色へ変化する灰褐色。

 凄まじい腐臭が吹き寄せた。

 異形の命が腐り落ちる。

 その証が、渦巻いた。





 小さな体を抱いている。

 傷にさわらぬよう柔らかく受け止めながら、廊下を歩いた。

 凄惨せいさんな還俗の現場を駆けつけた同僚たちに任せ、傷を手当されたモクジとツツ音は、警察本部付属の研究施設を訪れた。

 ここは、限られた職員にしか立ち入りを許されない場所。

 研究関係者でもないモクジたちでは、本来足を踏み入ることはできない。



 二人の来訪が、とあるの反応を誘発しない限り。





 最後の厳重な扉をくぐり抜け、モクジは常にない柔らかな表情で「来たぜ」と呟いた。


「朝霞さん」


 呼ばれた名に、がうぞろと顔を上げる。


 現場で見た、憐れな肉塊。

 本来肉樹の苗床にされた人は、肉樹の誕生と共に完全な死を迎える。


 けれど、朝霞は帰ってきた。


 還俗の瞬間こちらへ吐き出された朝霞の成れの果ては、それでも蠢いた。

 しかもどういう訳か、そのはらに肉樹を宿さず。

 いや、正確には宿った肉樹と自らの肉、そして共に連れていかれたモクジの手の肉を元に生まれた、ツツ音をはらんで戻ってきたのだ。


『お、がーさん゛……?』


 常人的ではない回復に眠気をむさぼっていたツツ音が起きる。

 モクジの腕の中から手をのばし、分厚いガラス越しにただれた肉の手を伸ばす母親と向き合った。

 肉樹の種として人の姿を崩壊させた朝霞の顔には、もう人であった頃の表情ない。

 それでもまるで優しげな動きをする指先が、忘れてしまった言葉の代わりに、ツツ音とモクジを求めるようであった。



 朝霞にはもう、人としての意思は戻らないだろう。

 それでもこの悲しい姿を残したいかと、上層部からは一応の確認を寄越された。

 この朝霞に、人を害する意思は感じられない。

 肉樹を孕んでいない以上、脅威としての可能性は低い。

 研究材料として、どのみち上は朝霞を利用する意図はあったのだ、どうせ。

 だとしても、モクジはうなづいた。

 人とも言えないと奪われそうになった赤子のツツ音を死に物狂いの交渉で取り戻し、朝霞とツツ音を研究の素体として差し出す協力をするという憎悪を吹くような契約を組織と交わし。

 例え利用されるとしても、むごい姿で彼女を生かすとしても。

 まだもう少しだけ、ツツ音が母親を感じる必要がある間だけでも。

 そこにいてほしい。



 俺が、あんたのそばにいたい。



 まだ、諦めきれない。

 あの日伝えられなかった関係を変えたいという願いに、朝霞の意思が答えを返してくれるまで。

 人の理知を忘れた、畜生のように蠢くだけの朝霞の形を、諦めきれない。


 おかーさん。

 モクジの大切なもの達が、嬉しげに手を重ね合わせる。

 朝霞だったモノは、おおよそ内面の何かが欠如したような動きで首を傾げ、二人をただじいっと眼球のない崩れた顔で眺めていた。

 この朝霞だったモノに、人の言葉など期待するのは空虚だろう。


 分かっている、理性だけが。

 

 

 だがは、モクジとツツ音の前以外では、決して反応を示さない。






「……あんたの嬉しそうな顔が見れて、俺も嬉しい」


 淡い笑いが、自然と零れる。

 

 まだ、自分たちは家族ではない。

 モクジは朝霞に、願いを投げかけてすらいない。

 けれどいつか、この抜け殻に、人としての朝霞の何かがまた宿るとしたら。

 どうか、


「(その時は改めて、俺の方から同じ籍に入ってほしいと拝み倒すんで。俺たちの言葉で、答えを下さい)」


 きっと。

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