チャム

@kiyosejunko

第1話 乱れ歩いて遮光

 私が手記を綴り始めて八日が経つ。

 私の金色の腕時計の短針がおよそ十回まわったのだ。その時計は、長針の先には赤い石がついていて、短針の先には丸くなって水ぶくれのようになった玉がついていた。その奇妙な玉、蝋を溶かして落下させたような塊は、飴色に美しく輝いていて、私がこの時計を気に入って懐中する理由のひとつであった。

 私は眠りにつく前に、必ずこの時計の針の位置を確認した。

 飴色の塊は、不思議と少女の形のように見えた。頭と見なした部分からは細い金属が二対垂れていて、ちょうどお下げの少女のシルエットに見えるのだ。ただし、下半身はまっすぐな針一本だから、それは少女を模した案山子というのが正しいだろう。

 最近の私にとって案山子の少女は唯一の友である。

息を殺さねばならぬとき、私は決まってこの少女を目で追って気を紛らわせた。長針の赤い石、燃え盛る炎は何度も少女を追い、やがて去り、そうしてまた少女を追った。少女はその場から動かない。実際には短針も動いているのだが、たったの数分では少女は立ち止まっているように見える。少女は足が遅いのだ。きっと、炎に吃驚して心臓をどきどきさせているうちに、また炎がやってくる。呆けた少女なのだ。物置の前を誰かが通るとき、私の心臓もどきどきと音を鳴らす。

 私は毎日古いカーテンに包まって眠り、食料庫から適当な食品を盗んで食べた。放置された古い家財道具を伝って屋根裏に入り込み、家主たちの暮らしを覗き見た。私自身が置かれている事柄の全貌を把握するために、隠密に敷地内を探索してまわった。私は父親の物書き机から持ち出したインクペン一本を使い、左腕に大雑把な見取り図のようなものや住人たちの情報を書いた。はじめは手の甲に覚え書きしていたものが、虫がうつるみたいに、色を濃くして私の腕を支配していった。

 この屋敷には、少なくとも四人の人間が暮らしている。みな、私と変わらない年頃の少女である。

 静かさをまとった猫のように大きく伸びをした。すっかり暗闇に慣れてしまった瞳は野性的に蠢き、辺りの様子を臆病に伺う。安全が確認できると、私は箪笥の取っ手に足をかける。箪笥の取っ手、荒縄の山、小さな踏み台を経て、私はようやっと屋根裏に辿り着くことができるのだ。私の隠れ家となっているこの物置は、無限とも思える程に莫大な量の古道具で埋まっている。

 屋根裏は狭く、一度潜り込んでしまったが最後、這って前進することしかできない。しかし私にとっては窮屈も塵埃も問題にならないのだ。私は屋敷の住人たちの様子を覗き見、敷地の地図を着々と完成させていく。地図づくりは仕事であり義務である。

 ここに来てから、風も寒さも感じなかった。十一月の気抜けた冷ややかさや厚手のセーターに滲みる汗の湿っぽさが懐かしく思える。

 私は午前三時から四時にかけて、屋敷の探索と生活必需品の確保を行うことを決めている。朝になれば少女らが起床して賑やかな一日が始まるし、夜になれば巡警係がランプ片手にあちらこちらを往来するから、自由に動ける時間は僅かなものだ。それに加えて、行きと帰りは必ず安全な経路を通らなければならない。人目を恐れるということは、私の良心がまだ正常に機能していることを証明した。ここにやってきてからも、私は私のままで変わりない。

隠れ家から屋根裏を通って、四階の東に位置する収集展示室に着地する。物置と同じ並びにある部屋だ。ここから始まる通気口を経て、次は三階へ下る。謂わば、収集展示室は安全な中継地点である。そんな具合に、廊下を移動する代わりに屋根裏や通気口を通って屋敷内を下り、あとはひっそりと庭へ出て、適当に切り上げて帰ればよい。

 紺色の硬い絨毯が敷かれた部屋で、ここはその名の通り、収集物を展示するための部屋である。中央には大仰な硝子ケース、壁には等間隔に額縁が並んでいる。壁から四十センチメートル程離れたところにはポールとロープで立入が制限されている。個人の収集室であるにも関わらず、随分と凝った内装だ。小さいながらも立派な博物館である。

 しかし、午前四時の収集展示室に白色の照明が灯ることはない。この部屋の扉は厳重に鍵がかけられているようだが、光が漏れてしまえばすぐに巡警係が飛んでくるに違いないからだ。

 収集室については、いつもの屋根裏から片眼鏡で覗き込んで調べたのだ。ここは昼でも人が出入りすることは滅多にないから、隅々までじっくり観察することができた。収集展示室と大層な名前がつけられているが、ここに展示されている品々はどれも端切れの集束のようなものだ。

・掌くらいの正方形に切り取られた包装紙 三十枚

・キャンディーの包み紙 十二枚

・コートの大きなボタン 三つ

・植物標本 額縁五枚分

・商品タグ 八枚

記憶の浅いところから容易に取り出すことのできる凡庸な収集品だ。もしかすると、几帳面に切り取られた包装紙は折り紙かもしれない。

植物標本の出来は悪くない。慎ましい種の植物たちは葉の一枚一枚を丁寧に圧されて、タペストリーのように美しく額縁の中に収まっていた。額縁の下には手書きの説明文があり、植物の名が学名とともに羅列されてあった。

 この奇妙な展示室はいつも私を引き留める。時間は限られているというのに、私はこの部屋の隅に立って、羊羹のように分厚く塗られた闇の先に収集物の輝きを探す。     私にとっては、学術的に処理された植物標本も無意味に正しく切り取られた包装紙も、それらを仕舞う硬質な硝子や窓のない冷えた壁も、何もかもが美しく感じられる。

 闇は闇のままだった。私がいくら目を凝らしても、視界は彩度の低い濃霧に覆われている。私は発見されることを恐れてライトを持たずに出歩くから、収集展示室にいても収集物を見ることはできない。

 あと少しで、屋敷の地図が完成する。短針少女は、一体何回火の玉に越されただろうか。

私は収集展示室に息づかいだけを残し、床近くの通気口に頭から潜り込んだ。

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