第三部 趣よ人の望みの喜びよ

「渋染一揆」ある意味では贅沢でバカバカしく、それ故に人間が人間であるために必要な自由のための一揆である。

1856年、時は安政。

渋染一揆は奴隷解放を謳ったアメリカ南北戦争よりも5年も前に、人権問題についての先駆けとなり、日本が国際連盟において「人種差別撤廃提案」をするにいたったこととも無関係ではない出来事である。

明治大正になっても東北の寒村が娘を売っていた時代に、転生者でもいたのではないかというくらいの勢いで一揆(正確には強訴)をしたのである。全ては「オシャレ」のために。


一揆に至るまでを軽く説明すると

備前の地は天領倉敷を抱え、南には後に最後の将軍徳川慶喜とも縁があるような讃岐があり、親藩・譜代としてはともに最前線にあたる場所で、辺境伯としての動きを余儀なくされた。

食うには困らないほどの税をかけ、領民に教育を施し、身分に依らない立身出世の道を示し、本音と建前を使い分け、有事や天災への備えをし、参勤交代をつつがなくこなす。

つまり、何事につけ、おあしが足らないので倹約令を出した。

と、ごく普通の事情である。


ただ、時と場所と内容が悪かった。

農民のなかでも特に貧しい人たちーいわゆる水呑み百姓ーは柿の渋で染めた服を着るようにとのお達しだった。

差別主義者でなくとも心の中の悪い部分がシャーデンフロイデを求めて肯定してしまうかもしれない。

そもそも、近世に詳しい人なら「服の色選ぶほど余裕あったの?」と驚くところかもしれない。

しかし、当時の普通の農民も猛反発したのである。

なぜなら、教育を受けていたから。

そして、おそらくは「モテ」のために。

命を懸けて「オシャレ」という人間が人間らしくあるための自由と尊厳を守ったのである。

今の世の中で、自分よりも弱い立場である隣人の権利のために立ち上がることが出来る人がどれだけいるだろうか?

少なくとも私には出来ない。


それゆえに、日本が世界の一等国として歩み始めたのはこの日ではないかと私は思う。


翻って、現代の岡山の趣味人に聞くと少しの照れをもってこう答えるのだ。

「趣都は秋葉原でも日本橋でも大須でもない。趣都 岡山だと。」


それは、愚かであり、それゆえに尊い趣味のために命をかけて行動した先祖への尊崇だろうか。それとも、単に昔から適度に暮らしやすくて天災も少なく、のんびりと趣味のために暮らせるゆえの無知だろうか?


歴史の真実も、人の心の真実もわからないが、歴史的な事実として言えることは渋染一揆から30年、岡山の地に「女学校」(現在の山陽学園)が開かれた。

それも、キリスト教関係者の手によって。


脈々と受け継がれてきた開明的な文化風土が明治維新への素早い対応を可能としたのである。


そして、最終章の現代へと物語は続く

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