特別室の患者さんの忘れもの

土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)

全1話

 わたしが病棟の患者さまのお世話をしていたころ、個室である特別室に末期がんの患者さまが入院していました。


 五〇代後半の痩せた整体師の方でした。多臓器及び骨にまで転移したがんであるため手術も不可能。抗がん剤は使わず、緩和ケアをご希望でした。


 大柄で人のよい奥さまがつきっきりで、ときには泊まり込みで、甲斐甲斐しくお世話なさっていました。とても仲がよいご夫妻でした。


 奥さまもお仕事をお持ちで、一、二週間来られないことがあるとのことでした。そのときも必ず、


「しばらく来られませんので主人のことをよろしくお願いします」


 と、わたしたちに声をかけてくださいました。


 もっとも、奥さまがいらっしゃらない間は必ず患者さんのお嬢さまが代わりにいらっしゃって、やはりまめにお父さんのお世話をなさっていましたので、わたしたちも何も心配なことはありませんでした。


 お嬢さまも人当たりがよく温厚な方でした。


 タイマッサージを習っていたそうで、少しでもお父さまが苦しまないようによくマッサージをしてあげていらっしゃいました。


 本当に仲がよいご家族だとわたしたちは思っておりました。


 しかし、末期の緩和ケア中の患者さまです。お二人の介護の何度かの交代のあとで、来るべきものが来て、患者さまはお亡くなりになりました。


 あまりお苦しみにならなかったように見えたのは、緩和ケアだけでなくご家族の愛に支えられていたからでしょう。


 ご葬儀の後、奥さまとご子息の方がわざわざ病棟までご挨拶にいらっしゃいました。


「この度は誠にご愁傷様でした」


「いえ、皆さん、主人によくしてくださって本当にありがとうございました」


「あれ、そういえば今日はお嬢さまはご一緒ではなかったのですか?」


 そうわたしが聞いたときの奥さまの言葉が忘れられません。


「うちには、娘なんておりませんが」


 温厚なはずの奥さまのお顔がわたしたちの目の前で般若に変わりました。


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特別室の患者さんの忘れもの 土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり) @TokiYorinori

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