過労公爵のハグ係〜働きすぎな公爵様は今日も訳ありメイドを抱きしめる〜

水都ミナト@【解体嬢】書籍化進行中

第1話

「エレン、こっちへ」


「は、はい…」


 私はオリバー様に手を引かれ、いつものように優しく腕の中に抱きすくめられる。


 ほんの三十秒。毎晩こうして抱き合っているが、一向に慣れないし胸の高鳴りは増す一方だ。


 刹那のような、永遠のような三十秒が終わり、オリバー様の手が私の両肩に添えられる。それを合図に静かに身を離す。離れた途端に熱が冷めてしまうようでキュッと胸が切なく締め付けられる。


「ありがとう。おやすみ」


「おやすみなさい」


 オリバー様は優しく微笑むと、私の頭を撫でて自室へと戻られた。私はオリバー様の部屋の扉が閉まるまで見送り、メイド用の部屋へと足を向けた。





 ◇◇◇


 私はエレン・トリファー。公爵家のメイドだ。

 クリーム色の髪と翠玉色の瞳は亡くなった母譲りで気に入っている。

 十二歳の頃から訳あって公爵家で働き始め、早いものでもう五年。日頃の働きぶりが認められて先日オリバー様付きのメイドへと昇格した。


 私の主人は、オリバー・ダルケル公爵様。二十六歳にして公爵家を取りまとめるお方。三年前にご両親が体調を崩して公爵領へ隠居されることとなり、二十三歳の若さで公爵位を継がれた。

 プラチナブロンドの美しい髪に淡い碧眼。整ったお顔立ちに、すらりと背が高くて真面目な性格。眉目秀麗な私の主人は女性人気が凄まじいが、何故か妻を娶らずに今も独り身だ。


 お側に仕えるようになり、私はオリバー様と接する機会が増えた。お食事の給仕や、息抜きの紅茶を淹れるのも私の仕事。近くで見るオリバー様の仕事ぶりは凄まじかった。


 王国随一の公爵家だけあり、その仕事量は常軌を逸していた。オリバー様は夜明けと共に目覚められ、朝食の前にその日の仕事をザッと確認する。そして朝食をとると執務室に篭り、山のように積まれた書類を捌いていく。広大な領地の管理に、公爵家が興した事業の推進、武術に造詣も深くて稀に王城まで赴いて騎士団の指南役も務めていらっしゃる。王子や国王とも親しいらしく、ちょっとした相談事もたくさん舞い込んでくる。そんなお仕事をこなしながら、日が変わった頃にようやくお休みになる。


 誰の目から見ても働きすぎだ。

 勤勉で仕事が早くて優秀だとは前々から思っていたが、あまりにも抱える仕事が多すぎる。


 せめて補佐官をと恐れながら進言をしたが、「どうも人に仕事を任せるのは苦手だ」とやんわり断られてしまった。


 オリバー様付きになって、まだ一ヶ月程であるが日に日に目の下のクマが濃くなっている気がするし、睡眠時間も足りてないのは明白だ。一日三食しっかりお召し上がりになるのが唯一の救いだろうか。


 私はいつこの生真面目な公爵様が倒れてしまうかと、内心気が気でならなかった。


 もちろん屋敷には優秀な執事もいる。名前はメイソン・ハリマンと言い、オリバー様の右腕だ。唯一仕事を任せる人らしいのだが、それも屋敷の管理に留まっている。彼は二十八歳で、銀髪にアメジストの瞳を有し、隙がない笑顔を携えている。いつもオリバー様の身体の心配をしていて、私にも親身になってくれる兄のような存在だ。


 そんな彼とオリバー様のことを話すのが日課となっていた。今日も休憩時間に一緒に紅茶を啜っている。


「オリバー様…昨夜も夜更けまで働いておられました。そろそろ倒れてしまうのではないでしょうか」


「そうですね、少しは仕事を周囲に振って休むように口を酸っぱくして言っているのですが、一向に聞き入れていただけませんね」


「オリバー様の仕事量は公爵としての範疇を超えているのでは?先ほどもお城の財務に関わる資料をご覧になっておりました。お城には財務大臣や文官の方々がいらっしゃいますよね?何故オリバー様がそんな仕事まで…」


「主人は優秀すぎるのですよ。それ故に頼られすぎてしまう。しかも生真面目で努力家とくれば手元に舞い込んできた仕事を無碍にすることもできません」


「それはオリバー様のいいところでもありますが…このままだと過労で…最悪の場合…」


 私はその先を口にするのが恐ろしくて、紅茶でごくんとその言葉を飲み込んだ。メイソン様も口では否定しているが、今の状況を打破できないかと日々頭を悩ませていらっしゃる。




 しばしの暇を終え、自分の仕事に戻る。オリバー様の身の回りのお世話ももちろんだが、手が空いている時は屋敷の掃除や洗濯を手伝っている。

 今日もいつものように掃除の手伝いに行くと、メイド仲間のサリーとリナが楽しそうにお喋りをしていた。二人は私に気がつくと、顔を見合わせて悪戯っぽい笑みを浮かべた。ん?と首を傾げた拍子に二人がガバッと私に抱きついてきた。


「わ、わわっ」


「うふふ、エレン。お疲れ様。ねえ、知ってた?こうして三十秒の間ぎゅーっとハグするとね、ストレスが半減するんですって!」


「どうどう?実感ある?」


「え、うーん…?確かに何だか胸が温かくて心が軽くなった気がする…?」


 そう伝えると、二人は嬉しそうに笑いながら身体を離してくれた。

 うん、確かに人との触れ合いは胸を温めるかもしれない。長らく感じていなかった温もりがぽかぽかと胸の内に広がっていった。それに、メイド仲間の二人がこうして気安く接してくれるのも嬉しい。

 私は満ち足りた気持ちで箒を手に取り、鼻歌を歌いながら掃除を始めた。


 


 

 ――そう、私は少し浮き足立っていたのかもしれない。そうでなければ、オリバー様にあんな話はしなかった。きっと。





 その夜、私はいつもの時間にいつもの紅茶と夜食を手にオリバー様の執務室へ向かった。コンコン、とノックをすると、短く「入ってくれ」と返事がする。


「失礼いたします」


 するりと扉を抜けて中に入ると、相変わらずオリバー様は書類の山に囲まれていた。いつか雪崩のように崩れ落ちるのではと思うが、絶妙なバランスで書類の山はテーブルの上に鎮座している。


 黒縁の眼鏡をかけたオリバー様はいつにも増して素敵だ。物憂げな表情もまたいい。だが、その端正なお顔にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。

 私は憎き書類たちを睨みながら素早く紅茶の用意をする。


「どうぞ」


「ありがとう」


 オリバー様はチラリとカップに視線をやり、ふぅと小さく息を吐いた。眼鏡を外して眉間を指で摘むようにして揉むと、ソーサーごとカップを手に取った。温かな紅茶を口にして、オリバー様の疲労が浮かんでいた表情が少し和らだ気がした。どうにかその疲れを癒すことができないか、と考えてしまうのも致し方ない。


 その時私の脳裏に浮かんだのは、昼間の仲間たちとのやり取りだった。


「オリバー様、ご存じでしたか?」


「ん?何をだ?」


「三十秒のハグで、抱えていたストレスが半減するらしいのです。実際にサリーとリナに抱きしめられたのですが、少し心が軽くなった気がしました」


「ほう…」


 少し得意げに仕入れたばかりの豆知識を披露すると、オリバー様は顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。


「もしよろしければ、オリバー様も試してみてくださいね」


「そうだな…」


 そこではた、と私はオリバー様のハグの相手のことを考えた。オリバー様には恋人も奥様もいらっしゃらない。試してみてとは言ったものの相手のことまで考えていなかった。ハリソン様…は流石にないか、と色々と考えを巡らせていると、オリバー様は徐に立ち上がって私の前に立った。


「どうなさいました?」


「いや、その三十秒のハグとやらでストレスが減るのか試してみたいと思ってな」


「ええ、是非」


「では、少し失礼する」


「え………っ!?」


 私の話に興味を持ってもらえたことが嬉しくて満面の笑みで答えたところ、それを承諾と解釈されたようで、あっと思った時には私の身体はオリバー様の逞しい腕の中に収まっていた。


「!?!?」


「ふむ…」


 何が起こったのか理解ができずに思考が停止する。混乱する私をよそに、オリバー様は何かを確かめるようにぎゅっと私を抱く腕に力を込めた。


 そしてきっかり三十秒後、私は解放された。


 ぽけっと惚けて立ちすくむ私は、さぞかし間抜けな顔をしていることだろう。一方のオリバー様は何やら納得したような顔をして頷いている。


「確かに、少し心が軽くなった気がするな。三十秒間のハグか……存外悪くないかもしれんな」


「え、あ、はい」


「よし、これから毎晩三十秒だけ付き合ってもらえるか?」


「あ、はい……って、え!?」


 ぼーっと回らない頭で空返事をしていると、聞き捨てならない言葉に遅れて反応した。


「えっと、毎晩私がオリバー様とハグをする…ということでしょうか…?」


「ああ、君の言う通りの効果を感じた。だから今後も続けていきたい。だが、俺には妻も恋人も居ない。君さえ良ければ相手役を務めてくれないか?もちろん嫌なら断ってくれていい」


「その…少しでもストレスが軽減したのですか?」


「そんな気がする」


 私はしばし考え込んだ。

 主人の命とあらば逆らうわけにはいかない。それに、過労でストレスも溜まっているだろうオリバー様を少しでも癒すことができるのならば…


「わ、分かりました。ハグのお相手、謹んでお受けいたします」


「ああ、頼んだ」




 こうして毎晩行なっていた紅茶と夜食を運ぶ仕事に、三十秒間のハグが加わった。





 ◇◇◇


「ハグ係…ですか?」


「はい…」


 私はハリソン様に、オリバー様との昨夜のやり取りを吐露していた。ただのメイドが主人と触れ合うなんて問題にならないかと不安になって、相談したのだ。でも、相談内容が照れ臭くて、私は両手で赤くなった顔を覆いながら話をしていた。


 指の間からチラリとハリソン様の反応を覗き見ると、ハリソン様はキョトンと驚いた顔をしていた。いつも冷静沈着で笑顔を絶やさないハリソン様のそんな顔は初めて見たので、とても興味深い。


「…ふむ。主人の息抜きになるのであれば、いいかもしれませんね。確かに人との触れ合いは心を満たすでしょうし」


「い、いいのでしょうか…私なんかで」


「そこは提案者として責務を果たすべきではありせんか?」


「うう…ハリソン様、少し面白がっていませんか?」


「おや、バレてしまいましたか」


 可笑そうに肩を揺らすハリソン様に対して、私はぷくっと頬を膨らませた。メイドの仕事の範疇を超えていると叱責されたらどうしようかと少し心配していたので、内心ホッとした。

 

 不意にハリソン様が真面目な顔をして私をじっと見つめてきた。


「主人は幼い頃より次期公爵として厳しく育てられてきました。ですので、ご家族との触れ合いもほとんどありせんでした。もちろん仲睦まじいご家族ではありますが、子どもらしく甘えることはあまりなさいませんでした」


「そう、なんですね…」


「ええ、だからこそ人との温もりを感じることは、凝り固まった主人の考えを解す一助になるやもしれません。エレンさえ良ければ、是非ハグの相手を務めていただきたい」


「……分かりました」


 オリバー様は一心不乱に仕事に打ち込んでおられる。ご両親が公爵領に隠居して以来、一人で大きな屋敷に残って公爵家を守るために休みなく働いている。周りからは期待と羨望の眼差しで見られて、弱さを見せる場所がないのかもしれない。


 せめて私の前では、弱音を吐けるように…そんな時間を過ごせるようになって欲しいと、心からそう思った。




 ◇◇◇


「エレン」


「は、はい。オリバー様」


 毎晩ハグをするようになって早くも三週間が経過した。


 オリバー様はいつも、紅茶を味わい、夜食で小腹を満たした後、一息ついてから私の名前を呼ぶ。それが合図となり、私はオリバー様の腕に優しく包まれる。どくんどくんとオリバー様の規則正しい鼓動を感じて、ドキドキ胸が高鳴るものの、何だかとても安心する。


 自惚かもしれないが、この関係を始めてからどことなくオリバー様の表情が柔らかくなった気がする。本当に気のせいかもしれないのだが。


「ありがとう」


 そしてきっかり三十秒後、オリバー様はお礼の言葉と共に私を解放する。最初はぎこちなかったが、すっかり慣れてしまったようで、間近に見るオリバー様の微笑みは随分と穏やかだ。


「君と触れ合うようになってから、何だか寝つきがいいんだ」


「本当ですか?お役に立てているのなら嬉しいです」


 最近では、ハグの後に少し世間話をするようになった。紅茶のおかわりを注ぎ、恐れながら私もご一緒させていただく。「君も飲んで」と言われてからこうして一緒に紅茶を味わっているのだ。

 今日のオリバー様はいつにも増して饒舌だった。


「これまでは毎日仕事のことしか目に入っていなかったが、少し心の余裕ができたのか、周りに目が行くようになったんだ」


「さようでございますか」


「屋敷で働いてくれている使用人のみんなの様子や、廊下に飾られている季節の花々、空を仰ぎ見ることも増えた。色を失っていた毎日が鮮やかに色付いて見えるんだ」


 そんなにハグの効果は凄まじいのだろうか?過大解釈では?と思うが、せっかく喜んでもらえているのだし水を差すこともなかろう。私は微笑みを携えてオリバー様の話に聞き入った。


「エレン、君は今の生活に不自由はないかい?」


「ええ、同僚のみんなもとても良くしてくださいますし、毎日充実しております」


「そうか…その、家族とはしばらく会えていないんだろう?たまには暇を取って会いに行ってもいいんだぞ」


 オリバー様の言葉に、カップを持つ私の手がピクリと動いた。


「いえ…姉が頻繁に手紙をくれますし、家の状態は把握できております。それに私は…先代様が肩代わりしてくださった借金の分、しっかりと働かなければなりませんので」


 ニコリと微笑みを浮かべるが、オリバー様はどこか悲しげな顔をしていらした。




 ◇◇◇


 母を亡くしたのは八年前、私がまだ九歳の時だった。


 私は子爵家の生まれで、優しい姉が一人いる。両親も優しくて、裕福ではなかったがとても幸せな幼少期を過ごした。


 状況が変わったのは母が倒れてから。

 激しい頭痛に襲われる原因不明の難病を患ったのだ。母を愛してやまない父は、子爵家の全てをかけて母の病気を治そうとした。評判の薬の噂を聞けば、いくら高価であろうとも薬を手に入れ、腕のいい医師がいれば即座に雇った。

 だが、その努力も虚しく母の病状は悪化するばかりだった。父は母につきっきりになり、仕事は溜まる一方。私と姉も母が心配で、ずっと母の側に居た。次第に母は食欲も無くしていき、痩せ細っていった。

 

 そして一年後、父の必死の看病も虚しく、母は息を引き取った。


 母を亡くしてからの父の落ち込みぶりは見ていられなかった。母と過ごした部屋に篭り、数日出てこないこともしばしばで、私は父までこのまま居なくなってしまうのではないかと恐怖に震えた。

 ようやく部屋から出てきた父は、目の下に濃いクマを携えていた。目は腫れてパンパンで、ずっと泣き明かしていたことが明白だった。

 

 父は母の喪が明けると、少しずつ仕事を再開した。だが、いつも心ここに在らずでぼんやりとしていた。子爵家に仕えてくれていた人たちは、父の様子を心配し、そして子爵家の行く末を憂いた。段々と使用人への給与の支払いも滞り、一人また一人と辞めて行ってしまった。

 私も姉も自分達にできることを、と慣れない掃除や洗濯、料理に励んだ。そんな私たちの姿を見た父も、いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかないと、寝る間も惜しんで仕事に没頭するようになった。

 そうして家族みんなで何とか生きてきたが、とうとう父が過労で倒れてしまった。

 

 幼い私と姉だけではどうすることもできない。二人で肩を寄せ合って泣いていると、先代のダルケル公爵様が我が家を訪ねてきた。

 私はそこで、トリファー子爵家がダルケル公爵家に多大な借金をしていたことを知った。母の闘病中の薬代、医者代、それ以降の生活費諸々の援助をしてもらっていたらしい。

 ベッドで寝入る父はすっかり年老いて見えた。私と姉は公爵様にこの先どうしていけばいいのか分からないと泣きついた。


 公爵様は困ったように眉根を下げ、とある提案をした。



『借金の肩代わりに公爵家でメイドとして働くのはどうか』



 その話に私は飛びついた。幼い私が家族を守るために出来る唯一のことだと思った。

 姉は自分が行くと主張したが、私一人だと父の看病をする自信がない、姉には父についていて欲しい、姉の分まで私が立派に働いてみせる、と説得してなんとか了承してもらった。子爵家の領地や事業の管理は、全て公爵様が引き取ってくれた。

 そして、父と姉は空気のいい田舎町へ療養のために移住し、私は公爵様と共にダルケル公爵家へと向かった。

 

 それから必死で働いて、気が付けば五年の月日が経過していた。その間に先代の公爵様も体調を崩して田舎の領地へ隠居され、その息子であったオリバー様が爵位と仕事を継がれた。


 

 病に臥せる母、過労で日に日に元気をなくしていく父、体調を崩した公爵様。そんな姿を間近で見ていたからこそ、一人で仕事を抱え込み朝から晩まで働き続けるオリバー様を放っておけなかった。


 


 ◇◇◇


「オリバー様、失礼いたします」


 私はおやつの時間どき、紅茶と茶菓子を持ってオリバー様の執務室を訪ねた。返事がなかったが、仕事に没頭しているとそんなこともしばしばなので特に気にせず中へと入った。


「オリバー様…?」


 いつもならばカリカリとペンを走らせる音がするのだが、やけに部屋の中は静かだった。

 

 妙な胸騒ぎがする。


 私は近くのテーブルに紅茶のセットを置くと、オリバー様の作業机へと近付いた。


「オリバー様!」


 そこには机に突っ伏すオリバー様の姿があった。私は悲鳴に近い声を上げ、オリバー様に駆け寄る。どうしよう。どくどくと、やけに心臓がうるさい。ああ、だからあれほど働きすぎだと言ったのに…こんなことになるなら、無理にでも仕事を取り上げてしまえばよかった。私は涙が滲みそうになり、慌てて歯を食いしばって耐えた。


「う、ん…エレンか?」


「オリバー様…っ」


 オリバー様は低い呻き声を上げると、頭を押さえながら上体を起こした。


「ああ…どうやら少し寝てしまっていたようだな…すまない、そこの書類を取ってくれないか」


 オリバー様は虚な目で私の後ろの書類を指差した。



 私はもう限界だった。



「なりませんっ!オリバー様は働きすぎですとあれほど…っ、オリバー様まで居なくなってしまうのかと、私は…私はっ」


「え、エレン…すまない、落ち着いてくれ」


 身体の横で強く拳を握り締めるが、意に反して涙はぼろぼろと溢れ続ける。オリバー様が戸惑っている。でももう止められない。


「嫌です、嫌なんです…もう、大切な人を失うのは…お願いです、もっとご自身を労ってください。もっと周りに頼ってください。あなたは一人ではないのです…」


 嗚咽混じりに訴える私を真っ直ぐに見つめるオリバー様。ああ、私はメイド失格だ。主人に反抗してしまった。クビになったら残った借金はどうなるのだろう。

 どこか冷静な頭でそんなことを考えていると、オリバー様にそっと手を握られた。


「エレン、すまない。君に泣かれると、なぜか堪える」


「お、オリバー様…」


 立ち上がったオリバー様は戸惑ったような笑みを浮かべると、私の手をぐいっと引いた。バランスを崩した私の身体はオリバー様の腕の中に閉じ込められてしまった。毎夜感じているオリバー様の温もりに、少し心が落ち着く。


「驚かせて、心配をかけてすまなかった。本当に少しうたた寝をしていただけなんだ」


「……本当に?」


「ああ、だが…そうか。俺はうたた寝をしていたのか」


 すんすんと鼻を啜る私の頭上で、オリバー様は可笑そうにククッと笑った。私は一体何がおかしいのかと抗議の声を上げかけたが、それより先にオリバー様が口を開いた。


「いや、これまでは自分を追い込むように仕事をして、気を張り詰めていたからな。うたた寝をするなんてあり得なかったんだが…どうやら少し気が緩んでいたようだ」


「どういうことですか?」


 私はオリバー様の言葉の意味が分からずにそっと顔を上げた。目の前には優しく微笑むオリバー様。うっかりオリバー様が倒れてしまったのかと早とちりをしたが、その表情は穏やかで、よく見ると目の下のクマもかなり薄くなっている。


「君との時間が俺を随分と癒してくれているらしい。少し前までは仕事の鬼と言われても、自分の責務を果たそうと躍起になっていたのだが…実はな、最近では全部を請け負わずに適切な部門に仕事を振り分ける努力をしているんだ」


「えっ!」


 あの生真面目で何でも自分で抱え込むオリバー様が何という進歩だ。私が目をまん丸に見開いたからか、オリバー様が苦笑した。これまで頑固一徹だったことを自覚してはいるのだろう。


「ところで、さっき俺のことを大切な人だと言ってくれたかい?」


「えっ!?わ、私そんなこと言いましたか…?」


 本当は覚えているのだが、流石になんてことを口走ったのかと恥ずかしかったので、私はとぼけて誤魔化した。何か言い訳をしなくては…


「ええっと…そう、主人として大切なのです!た、他意はございませんのでご安心ください!」


「そうか、残念だ」


「えっ?」

 

 思わず聞き返す私をよそに、オリバー様はどこか楽しそうに笑みを深めている。

 

「少し時間はかかりそうだが、仕事の整理をしようと思っている。そうすれば自分の時間が十分取れるようになるだろう。妻を娶っても、仕事ばかりで寂しい思いをさせるぐらいなら、生涯独身でもいいと思っていたが…俺ももう二十六だし、そろそろ身を固めるのもいいかもしれないな」


「そ、それは素敵なことだと思います」

 

 身を固める…ということは結婚するということ?


 私の胸はザワザワと不穏に騒めいた。一方でオリバー様はなぜか伺うように私を見つめている。

 

「うん、そう簡単にはいかないようだが…覚悟しておくことだ」


「な、何にでしょうか…?」


「すぐに分かる…いや、分からせてやるさ」


「ええ………?」


 意味深な言葉にさっきから翻弄されっぱなしだ。落ち着くためにふぅと息を吐くと、大変なことに気がついた。


「お、オリバー様…!とっくに三十秒は過ぎております」


 さっきからずっとオリバー様に抱きしめられている。もうとっくに三十秒以上このままだ。

 

「うん?別にいいだろう。三十秒の縛りは撤廃だ。今日からは俺が満足するまで抱きしめさせてもらおう」


「ええっ!?」



 

 ――こうしてこの日から、オリバー様とのハグの時間はすっかり甘いものとなった。


 蕩けてしまうような優しい目で見つめられ、強く、けれども優しく抱きしめられる日々。私の頭を撫でたり髪で遊んだりするオリバー様はどこか楽しそう。仕事の配分もうまくいっているようで、オリバー様の顔色も随分と良くなった。

 

 オリバー様に優しく触れられて、私は否応なしに自分の気持ちを自覚してしまった。


 密かに育てようと誓った淡い想いは遠くない未来に成就し、私はオリバー様付きメイド兼ハグ係から、晴れて公爵夫人となる。


 ――でも、それはまだもう少し先のお話。

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