タイガー・パニック
前田渉
タイガー・パニック
夜中、半鐘が鳴り響く音でたたき起こされた。夏はすぎたが、まだ蒸す空気の漂う時期で、日中よりは和らいでいるものの、やはり肌に湿気が張りつくようだった。僕は布団から這いだして窓の外を見た。向かいの家の2階の部屋のカーテンが揺れたのが見えた。遮光カーテンで、その向こうは見えないが、明らかに人為的に揺らされたものだった。きっと、あの部屋に寝ていた誰かが、半鐘の音で目覚めたのだろう。僕はカーテンの境目あたりをじっと見つめていた。鐘は静かになっていて、さっきの衝撃は干潮みたいに、あたりから気配を消していた。
よく晴れていた。深夜だというのに、とても見通しがよく、向かいの家の庭の木の梢のさざめきまでもがよく見えた。木の葉が擦れる音も聞こえてくる。街灯の光が流れてきて、木の葉の表面を光らせる。
再び半鐘がとどろいた。向かいの2階の部屋のカーテンがわずかに開き、若い男の顔面が左側だけ見えた。僕が見ていることにはまったく気づいていなさそうだ。半鐘の音が聞こえてきた方向を、目を細めながら覗きこもうとしている。30歳くらいか? 何かに怯えているようだ。左目はまさに陶のようで、つるつるした光沢がうかがえた。きっとあの男にとっても、半鐘が鳴らされるのは初めてなことに違いない。僕も半鐘を聞くのは初めてなのだ。だから半鐘がどこにあるのか知らないし、あったことすらも知らなかったのだ。そもそも、半鐘なんて聞くのも初めてだ。しかしいまどき半鐘なんて使うところがあるとは思わなかった。防災無線ですらない。そのうち、拍子木でも打ちながら誰か走ってくるんじゃないだろうか。
周囲の家のカーテンが揺らいでいる。半鐘で続々起きだしたらしい。ちらほらと、新しく明かりをつけた家も見えた。隣の部屋のカーテンが素早く引かれた音がした。隣人も起きたらしい。若い女だった気がする。髪を巻いた、派手な顔の女。こちらも三〇前後と思われる。朝、家を出るときに、まれにすれ違うが、会釈だけして、声を交わすことはない。目を合わせた記憶もない。当然名前も知らない。
僕がいま寝泊まりしているアパートは2階建の1Kで築26年目、10戸が入っている建物だ。特に何の特徴もないし、駐車場は5台分しかない。外壁はニンジンを摂取しすぎたみたいな変なペールオレンジで、オートロックなどの防犯設備は何ひとつ備わっていない。あるのは火災報知器くらいだ。周囲には住宅が立ちならび、日が暮れてから日付が変わるまでの間だけ、生活が盛んに営まれている雰囲気が立ちこめる。昼間、近くの自販機に飲み物を買いに行っても、人の気配は希薄で、何とも薄ら寒い思いをしたものだ。
隣の部屋の窓が開く音がした。好奇心に負けたのかな? 身を乗りだして、半鐘をがんばって探しているのかもしれない。若い女らしい、素直な行動だ。あるいは好ましい少年のような。僕にもそのような時期があったのかもしれない。いまとなっては、まるで想像ができないことではあるが……
眠気がぶり返してきた。時計を見ると、2時29分。もういちど床に就こうとした。明日は休みだが、だからこそたっぷり寝ておきたいのだ。普段は5時間寝られればいい方なのだから、こういう日くらい10時間ほど寝だめさせてくれ。
布団を抱えこむようにして被ったまさにそのとき、窓が外から叩かれた。僕はギョッとして、すぐさま布団を蹴飛ばし上体を起こした。くぐもった、女の声が外から聞こえる。深夜に他人の家の窓を叩いているとは思えない、能天気な声。おーい、いますかー? ちょっとー、でてくんないですかー。ねえねえねえ、すみませーん。無視したかったが、女はちっともめげる様子はなく、同じテンションで僕の家の窓を叩いていた。そのねちっこさに耐えかねて、僕はそろそろとカーテンをちょっと引き、窓の外をちらりと見た。
女が窓枠にしがみついて、窓を急いで叩いている。左手で上部をつかみ、右手を下部について体を支えている。開けて、ねえ開けて! 落っちゃうから! 早く!
僕はクレセント錠を確認した。女が助けを求めていることに対する咄嗟の反応で、閉まっていれば開けようとしていたのだが、錠は開いており、そこで手は止まってしまった。女の顔にはそろそろキツい、とでも言いたげな焦燥の色があったが、錠の位置を見つめて固まっている僕から何かを察したのか、素早く右手を窓につけて奥に滑らせ、見事に窓を開けた。バランスを崩して女の下半身は振り落とされかけたが、すばやく窓を開けた右手を窓枠の下側に引っかけて身体を支えた。女の胸から上だけが、窓枠から覗いている。思っていたよりも若かった。20代前半のようだ。息を切らして(?)、汗をかいている。
僕は黙って女を見ていたが、会話もなく待っているのが次第にいたたまれなくなり、ついにこちらから、
「あのー、どうかしましたか……」
と声をかけた。すると女は顔を上げ、
「虎だってさ」
と言った。
「虎?」
「そう、虎」
「虎が何かありましたか」
「何かありましたじゃないんだって、ねえ、さっき半鐘が鳴ったでしょ」
鳴りましたね、それが何か、と返そうとしたが、女はそれを遮って言った。
「虎が脱走したんだって、近所で! 自警団で、付近を大慌てで探してるって!」
女はそのまま僕の部屋に入りこんで、ベッドの上を占拠した。僕は床に、座布団を敷いて座った。まったく遠慮も謙遜もせず、我が物顔でベッドに居座り、頬に手を添えて滔々と話している。
「あのー、さっきまであたし友達と話してたんですけどー、もう2時くらいだったじゃないですかー、うとうとして寝そうだったんですよー。それでパタンって一瞬寝ちゃってたみたいで、前後の記憶は全然ないんだけどー、あの、ほらー、カンカンカーーンっていう半鐘の音であたしびっくりして起きたの。それで眠かった気持ちが全部とんじゃって、何、何、何って慌ててたら、友達もおんなじだったみたいで、何、いまのって。あ、その子朋美って言うんですけど、結構近くに住んでるんですよー。で、えーいきなり何なの怖い怖い怖いぃ~って言ってたら、あたしの職場の子が、あ、あたしガルバで働いてるんですけど、そこで受付とかやってる男の子がいて、その子がLINEしてきたんですよ、半鐘の理由を。その子自警団やってて、いろんな不審者情報とか、要注意人物の情報とか流してくれるんですよ。この前も、窃盗団がいま来てるから車に注意してってグループLINEに流してて。あたしは車もってないからそんなに関係ないし、関係あったのはベンツ乗ってるうちのオーナーくらいなんですけどね、アハハ。で、何だったかって言うと、あのー森というか山がすぐそばにあるじゃないですか、その足元におっきい家ありますよね、あの豪邸。そこでいろんな動物飼ってたらしいんですけど、そこから虎が脱走したから注意して、って連絡が来て。しかも2匹! だからこの辺のどっかで虎が歩いてるんだって。困ったなー、あたし明日の、ってかもう今日? の7時から出勤なんだけど、虎が歩いてるとこを通ってお店行きたくないよー。前回も前々回もシフト休んじゃってるから、今回もってわけにはいかないしさー。ねえ、えーと……何だっけ名前……まあいっか、あんたも怖いでしょ、虎。家から出たくないよね、ね! 聞いてる?」
独り言なのか、僕に話しかけているのか、さっぱりわからないので、途中からまったく耳を傾けずにツイッターを眺め、虎の情報を探していた。だが僕の地域に関しては、虎の情報は出てこなかった。「半鐘鳴ったんやけど、なに⁉」というツイートは見つかったが。
「聞いとらんかったでしょ、虎だよ虎、しかも大人の。気になるでしょ、でしょ」
「で、それでどうにかなるの……不安にはなるかもだけど、俺は明日は1日引きこもるつもりだから、はっきり言ってそんなに関係がない。明後日も在宅だから、家から出なくてもどうとでもなるし……」
「あたしは関係大ありなんですけど。明日も、明後日も、明々後日も行かなきゃいけないの。だからさあ、えーと、何か連絡つけてくんない、自警団に。護衛がほしいなー」
「自分でできないの」
「他人からの紹介がないとつけてくれないの。あたしの友達、電話してた子しかいないし、その子も知り合いいないし」
「ガルバの人はだめなの」
「無理、無理! うちの人たち、他人に徹底して厳しいの。自警団の子、内野くんって言うんだけど、その子がみんなを洗脳してさ、自警団への紹介は頼まれてもするな、したらただじゃおかないって釘打ってるの」
「でも、俺も知らないし……」
そういった瞬間、スマホのバイブ音が鳴った。開くと、山本からのメッセージが届いていた。
トラが出た
家から出るな
自警団からのお知らせだ
ありがとねー、とにこやかに手を振りながら、女は部屋から出て――といっても窓から――行こうとしたが振り返り、あんた名前なんて言うの、と尋ねてきた。
「なんで言わなかんのだ」
「いいじゃん、言っても減るもんじゃないし、そもそもお隣さんですし。あたしは牧野佑衣子、源氏名は春風うらら」
「竹部新誠」
「竹部さんありがと。Schwarzenってお店で働いてるから来てね」
背を向けて女は言い、窓から這いだして隣の窓へ飛び移るような動作をし、僕の視界から消えた。好みではないけれど、顔のいい女だったな、となぜかぼんやり思っていた。たぶん、彼女のガールズバーに行くことはないだろうけれど。
寝て起きた午前11時10分ごろ、朝食のレーズンパンをかじっているとき、外からものものしい足音を聞いた。虎の脱走を聞いたのが8時間半前だったから、もしかしたら虎がそろって歩いているのかも、と期待して窓から路上を見下した。そこには作業着を着てさすまたや銛、猟銃等を備えた20人規模の集団が、ピタリとそろった行進をしていた。住宅街には似つかわしくない威容だった。
「お、山本」
グレーのワークキャップを被り、なぜか銃剣を担いでいた。鉄仮面のような顔つきだった。プログラマとしての真面目な顔を、仕事で顔を合わせたときにはいつも見ていたが、それとは明らかに質が違った。いまなら何にも容赦することはなさそうだ。あの、丁寧すぎるテストを書く真面目さではない、集団の意志に忠実で、それに従うことに一切のためらいがないという類の、とてつもない従順さを僕は彼に見た。
彼は僕と同い年だったから、まだ20代後半の、若手のプログラマだ。テスターとして非常に優秀で、仲間内では一目置かれている。普通にプログラムを組めるはずなのに、なぜかテストを書くことしかしていない。そのことを、自信がなくて、ぬるま湯で満足してるようだ、と軽くバカにしている同僚もいる。それは間違いなく山本の耳にも入っていて、ふたりで仕事帰りに飲みに行ったときに、同僚の話になると彼は露骨に苦い顔をし、舌打ちをする。そして歯切れの悪い言葉をたばこの煙みたいに吐きだして、さっさと切りあげようとするのだ。心配になって、他の奴とは遊んだりしないのか、と訊いたことがある。すると彼はうんざりしたような溜息をつき、
「やだよ、あんなのとプライベートでまで」
「どうして。せっかくの同僚じゃないか、仲よくなって損はないと思うんだけど」
「損があるないじゃないんだよ、俺はあんな奴らに浸食されたくないんだ」
「どういうこと」
「俺はあいつらの軽薄さが耐えがたいんだ、○○(マルマル)してる奴がえらい、そうじゃない奴はしょぼいみたいな、簡単にカーストを作ろうとする、あのサル山みたいな価値観が」
彼はプライベートの話を、僕も含めてほとんど語らなかった。ただ一度だけ、家の近くで強盗未遂が続いたことを話したら、彼は僕の住んでいる地域を言いあてた。どうやら彼もそこにほど近い場所に住んでいるらしいのだ。何か不穏なことがあれば言えよ、と彼は連絡先を交換してくれた。それまでは、会社以外で彼と接触する手段はなかったのだ。
山本が隊列から外れ、おろしたてのシャツみたいな敬礼をして僕の住んでいるアパートに入った。隣の部屋の女、牧野佑依の部屋に行くらしかった。
呼び鈴が鳴って、どちらさまですか、とドアの向こうに呼びかけた。頼まれてきました、山本です。一度、お声がけをしておこうかと思いまして、とドアの外から聞こえてきた。
「竹部さんのお知りあいですか」
「まさにそうです。竹部くんから頼まれてきました」
「あの、自警団の方ですか。内野くんって、知ってますか」
「知ってますよ。うちの耳を担ってくれています」
「そうですか、よろしくお願いします」
「夜に改めてきますが、18時15分でよろしかったですか」
「はい……18時15分で」
了解しました、と言って山本は踵を返した。ドアスコープから見た山本の出で立ちは物々しかった。自警団の噂は聞いていたが、実際に目撃したのは初めてなのだ。
「内野くん、自警団って何やってるの」
彼が自警団の一員であると判明した日の次のシフトの日に、私は訊ねた。もとより表情の変わらない彼はやはり表情を変えず、
「特別なことはしてないですよ……警察じゃできない、より迅速な治安維持をしています」
「治安維持って、何してるのさ。逮捕してるの」
「現行犯逮捕なら、誰だってできますよ」
「そっかー」
うちの警察、当てになんないもんねー、と言うと、彼は眉を顰め、そうかもしんないですねー、とやる気もなさそうに呟いた。
午後3時ごろ、最寄りの県道で1頭の虎が10トントラックにはねられて死んだという報せが入った。市道をゆっくり、泰然と歩いていた虎が、突然路地に駆けいって、抜けた先の県道に飛びだし、不運にもスピードを出していたトラックの目の前に出てしまったのだ。
死んだのは10歳のメスのノアだった。気性は穏やかだということだった。飼い主はこの地域でいくつもの不動産屋を営む実業家で、かなりの道楽者として有名だった。虎の他にも、駱駝、ペリカン、タスマニアデビルなどの動物を飼っており、そのうち動物園でも開くつもりなんじゃないのか、と噂されていた。虎脱走騒動によってそれをライターに茶化されたとき、彼は顔を真っ赤にして、お前、俺をバカにしたか、飼うってのは大変なんだぞ、だからお前は独身なんだよ、と憤怒したそうだ。それ以後、取材をすべて拒否するようになった。行政の指導は入ったものの、その詳細はわからないまま風化してしまった。
午後5時ごろ、虎が天領川で水浴びをしている、という目撃情報が入った。自警団は10人がかりで川へと向かったが、すでに虎はいなくなっていた。もう1頭は、9歳のオスのサイモンである。
18時15分きっかりに山本は来た。相も変わらずグレーの作業着で、銃剣を肩にかけていた。
「時間ですが、出れますか」
と山本が尋ねた。
「あとちょっとだけ、ピアスつけさせて」
山本が昼に挨拶に来てからの7時間、誰とも話さずに部屋ですごした。ずっと虎が気がかりで、柄にも合わずツイッターを開きつづけた。いつもはこんなの見ないのに、と思った。地域の掲示板も見た。そこでは、虎への恐怖と虎を逃がした実業家への怒り、そしてなかなか見つけない自警団への怨嗟などが書きこまれていた。どんな飼い方をしていたのか、説明して責任を取る気はないのか、これで誰かが襲われたらどうするつもりなのか、いらだちが次第に募った。そしてこんな状況でもなお出勤させようとする店長にもいい気がしなかった。
ドアスコープ越しに見たとき以上に、山本の顔は青白く、銃剣の刃の光のようだった。いま虎はどうなっているのか訊くつもりでいたが、あまりにとっつきづらい雰囲気の男だったので、こちらから声をかけることはできなかった。私がドアを開けたまま会釈をして、彼もまた会釈をし返して
「じゃあ、行きましょう」
と言ったっきり、ずっと黙ったままだった。
18時21分ごろに目が覚めた。昼にレトルトカレーを食べて、ベッドに寝転がった1時すぎから記憶がない。どうやら昼寝をしてしまったみたいだ、しかも5時間も。今日はひたすらダラダラして休むつもりだったから、それでもよいのだけれど、時間を無駄にした感は否めない。外出でリフレッシュしようと考える質ならほんとうに気落ちしただろうな。
外は静かだ。住宅街の真ん中で、そもそも騒がしい時間などないも同然なのだが、それでもあまりに人の気がない。虎のせいか。だから誰も家から出ないんだな。
窓から空を見ると、だいぶ薄暗くなっていた。いよいよ、家から出る人がいなくなる時間帯だ。僕も今日は決して家から出ないだろう。夕飯もきっとレトルトカレーだが、それでも別に食えるからいいのだ。よその家だって、そんなもんじゃないか、きっと……
下の方を何かが駆けた。大きな動物みたいで、体幹が力強くうねった。慌ててその影が走っていった方向を見たが、黄昏に紛れ、もう目で追うことはできなくなっていた。はっきり見た訳ではないが、僕らを家から出ないように留め置いていた虎に違いない。この距離ですれ違うことになるとは思ってもみなかった。窓枠の下にもたれて腰を落とした、というよりへたりこんだ。鳥肌と冷や汗が同時に出た。《虎が今家の前を走ってった…》とSNSに投稿した。あの影が立てていった、アスファルトを爪が擦り、踏みしめていく音が耳に残った。
「あ」
隣を歩く山本がポケベルを見て、担いでいた銃剣を降ろして両手に持った。相変わらず無表情だが、目つきがさらに尖った。
「何か?」
「あなたは気にしなくていいです。気にするのはこちらだけです」
日もほとんど落ちて、街灯の明りが頼りになっていた。」それでも視界はそこまで利かず、100メートル先は完全にぼやけてその曖昧な輪郭しかわからない。
「もう、ずいぶん暗くなりましたね……」
「そうですね」
それっきり。まったく会話が進まない。私は不安を募らせていた。
「あのー、何で銃剣を……」
「答えるようなことじゃないです」
自然私はきょろきょろとあたりを見渡していた。どこに何がいるのか怖かった。明らかに山本は何かを警戒している。さっきのポケベルもその関係に違いない。虎だ、虎が出たんだ、きっと。
「虎なんですよね、虎がいるんだよね!」
「いいから黙ってろ! 静かに歩け、気が散る」
「そんな……あなたいちおう、私の護衛じゃ……」
「わかってるなら、なおさら気の散らないようにしてくれないかな……あなたが気づいたときの声がわかりやすいように」
道の陰に何人もいて、筒状の物を抱えている。あれは銃なのかな。あんなふうにこそこそされていると、余計気を揉むよ。あ、向こうの電信棒の陰にまたひとり。何人がこの辺にいるの?
突然山本が立ちどまり、左手を差しだして私を制した。どうしたんですか、ねえ、と尋ねても無言である。掌をこちらに向けながら、ゆっくりと前進して、目前の十字路の角についた。私は受動的に佇んでいた。仕事のことは頭から抜け落ちていた。
2発の銃声が響いた。そして何かの唸り声が聞こえ、さらに数発が放たれた音がした。唸り声の主は胴がねじれたかのように吠えた。そしてさらに何発も撃つ音が聞こえた。山本も2発ほどを撃ったようだ。かすかに、巨体が倒れたような音がした。そこからは銃声は聞こえず、複数人の足音だけが耳に届いた。山本は角を曲がり、一度姿を消したかと思うと、すぐに戻ってきて、
「もう護衛の必要はなくなりましたから、では」と言い、また角を曲がった先に戻っていった。
その交差点を横切るとき、私は銃声の聞こえた左手側を見た。そこには20人を超える作業着の集団が集まっていて、その中心には大きな虎が横たわって死んでいた。うっかり目を奪われてその光景を眺めていたが、作業着の集団のうちのひとりが私に気づいた。ドキリとして、そそくさと私はその場から逃げ去った。
(2022.7)
タイガー・パニック 前田渉 @watarumaeda
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