第4話
駅員室に連れ込まれた私は助けて貰った駅員は勿論のこと、その他の駅員にも囲まれ、酷く説教をされた後に精神科への受診を進められた。おそらく自殺志願者とでも思われたのだろう。言い訳する気も、反論する気も起きずにただ淡々とすみませんと首を垂れた。それから警察も数人駆け付けた。職務質問を受けたことのない私にとって、警察からの事情聴取は新鮮だが、少々緊張もしていた。だがそれ以上にあの匣への執着心から起こした自殺未遂のほうが強烈な印象を残していて、正直、何を聞かれたのかあまり覚えていなかった。
茫然として、警察官に職業やら住所やらと色々なことを質問されてたが、淡々と機械的に答える私は放心状態に陥っていたのは言うまでもない。それを見て何とも言えない表情を浮かべていた警察官の悲しげな顔だけは覚えていた。そんなこんなで事情聴取を終え、自宅に着いたのは二十二時を過ぎていた。
上着を脱ぐとベットに崩れるように倒れこんだ。腹も減っているし、汗がべたべたとして気持ち悪いのだがとにかく疲れたのだ。立ち上がる気力もない。
瞼が重く、ぼんやりと周囲の景色が朧気になっていき、私は深い眠りについた。
翌日、思ったよりも早く目覚めたのだが体のだるさは酷く、とても出勤する気分にもなれなかった。会社に体調が優れないと欠勤の連絡し、翌日は家で休むことにした。電話に出た上司には昨晩のことがすでに伝わっているようで、『しばらくゆっくり休め、息抜きも大切だ』と休養を命じられた。普段の私なら見栄を張り、少しの体調不良でも無理をして会社に顔を出していたが今回は上司の一言に素直に従うことにする。
何せ色々ありすぎたのだ。昨晩の一連の出来事に関しては、一晩経った今でも私の中で消化できずにいる。こんな状態で仕事を熟せるわけがないし、もし出社したとしても周りから色物を見るかのように冷たい視線が集まるに違いない。会社自体に迷惑がかかるだろう、最も自殺未遂を犯した時点で厄介者を背負わせてしまったのだが・・・。
昼過ぎまで何をするでもなくベットでごろごろした後、疲れ切った体に鞭を打ち、シャワーで汗を流し、遅い朝食を済ませた。汗でべたついた気持ちの悪い不快感がなくなり、さっぱりと気持がいい。だが心にはもやもやとした霧がかかっており、小奇麗になった体と違いすっきりとはしていない。特に何をすることもなく、ぼんやりと部屋の壁を眺めてながら昨晩の事を思い出す。
偶然なのか、あの匣に再び出会ってしまったが為に、私の中の呪いは再び目覚めた。そしてそれは死への恐怖をおも上回る力で私を惹きつけた。
あの駅員には感謝せねばならない。あのとき、私一人ではあの力には抗えなかったのだ。もしあの場に私しかいなかったらと考えるだけでぞっとする。今頃、ニュース番組や新聞で取り沙汰されていたに違いない、会社勤めの男性、投身自殺。自殺に至った原因は不明と。
何となくあれは偶然ではないのだと思う。あの匣はそうやって人々の間を行き来しているのだ。あの匣を持っていた男性だって、私のように様々な葛藤があったに違いない。
あれはそうやって狙いを定めているのだ。まるでを花粉を運んで貰うために甘い匂いを発する花のように。私たちは虫で、甘い蜜に誘われて匣をせっせと運ぶのだ。目的がどうであれ、上手く利用されたものだ。そもそもあの匣に意思は感じられないが、そんな自然的な超常現象的な力はある気がするのだ。
あぁ、駄目だ駄目だ。やはりあの匣の呪いにやられてしまっているのだ。あんなにも酷い目にあったのにまだ匣の事を考えてしまう。大きな溜息に嫌気が指すが、溜まったものは吐いてしまわなければ気持ちが悪い。
深く、酷く重そうな溜息を付きながら私は窓の外を眺めた。今は考えたくない、何か別のことに意識を集中させたかったのかもしれない。
遠くのほうは車のテールランプとヘッドライトが僅かに見えるくらいで、真っ白くかき消されるほど雪が降り続いていた。したしたと可愛げなものではなく、吹雪のように数十メートル先は見えないほど降り注いでいる。空に張る雲は分厚く、降りやむ様子は感じられない。こいつは積もるなと、何気なく思う。
その日の晩、気を使った上司が家を訪ねてきた。仕事が辛いなら相談に乗る、人間関係の悩みも聞いてきた。だが私はそれらに曖昧に答える事しかできなかった。仕事は辛い時もあるがやりがいを感じているし、人間関係も悩んではいなかった。ただ、あの一瞬で匣の呪いにやられてしまっただけなのだ。
当然、そんな荒唐無稽な話を言えるわけがない。もし仮にあの黒い匣の呪いにやられたなんて言ってしまえば、本当に頭の可笑しなやつで本格的に社会から隔離されてしまう。まだ私はまともだと自分なりに思っているし、狂ってもいないはずだ。あの匣を目の前にしない限り、まともな考えを持つ、どこにでもいる普通の社会人だ。
そんな歯切れも悪い、有耶無耶な私に上司は優しく語り掛けるように言う。
「スケジュールは調整しておいたから安心しろ。一週間くらい休んで来い。実家に帰るなり、旅行に行くなり、リフレッシュもかねて。大丈夫、何も心配することはない。落ち着いたら戻ってこい」
入社して以来、私はこの上司にお世話になっていた。入社したばかりの頃は仕事を一から教えてもらい、たまに飲みにも連れて行ってもらった。面倒見がいい性格で仕事もできる理想の上司として社内の評判も高く、私自身も当然信頼しているし、ある意味目標にもしていた。
わざわざ家に尋ねて来るほど心配させてしまったのだろう。上司の優しに甘えてしまったと思うと本当に申し訳ない。平謝りする私に大丈夫大丈夫と、彼は笑顔を浮かべながら答えた。
三十分ほど軽く話しをしたあと、上司は帰っていった。静まりかえる部屋に私は一人取り残されるような孤独感を感じた。思い返せば、この家に人が来るのは久々だった。上司が家にいる間はなんだか部屋が賑やかな気がした。一人でいると気が付かないもので、自分の他に人がいると雰囲気というのか空気感が暖かくなるのだ。
それが一人いなくなるだけでその暖かみがすっかりと冷めきってしまう。静寂が部屋いっぱいを満たされて、私自身が生み出す鼓動や、足音や、僅かな息遣いしか聞こえない。朝から降り続いていた雪が街を全体を覆い積もっていたのも、取り残されたような孤独感を与える一つの要因といえる。雪は音をかき消してしまうのだ。
私は思わずテレビの電源を付けた。すぐに映像と共に音が流れ、私は少しだけ安堵した。画面には最近流行りの女優が出ているドラマが映り、落ち着いた曲が背後に流れていた。恋愛系なのか、男女が親しげに会話しながら酒を飲んでいる。このドラマに興味があったわけでもなく、静寂を消してくれれば何でもよかったのだ。
酒でも飲もうか。普段は下戸のため殆ど口にしないが、嫌なことがあったらつい口にしてしまう。体がふわふわとする感覚がして何もかも忘れられるからだ。
たしか冷蔵庫には友人から貰った缶チューハイがあったはずだ。おもむろに冷蔵庫の扉を開けると予想通りにそれがある。缶は二、三本あり、幾日も冷蔵庫の中で眠っていたのだ。それはまるで氷に触れているかのように冷え切っている。
それをとり出すとプルトップに爪を掛け、引き上げる。泡の弾ける音がして飲み口が開くと同時に僅かにアルコールの香りがする。それを口に含んだ。甘ったるい果実の香りと、工業製品のようなアルコールの癖のある独特の香りが混ざり合って口内を満たす。それが鼻に抜けながら甘味料で加えられた人工的な果実風味の甘味が感じられる。あまり美味しいものでもない安物の酒だが今はこれでいいのだ。
飲み終わるのに十分も時間はかからなかった。すぐにもう一つ缶を開けると流し込むように飲む。程よい浮遊感と若干の発汗を感じられるがそれが実に気持ちがいい。酒に弱い私は数杯程度で簡単に酔うことができるのだ。ふらふらした足取りでベットに腰を掛けるとそのまま崩れるように横になると瞼が重くなり睡魔が襲う。これも酔いのせいなのだろう。高揚感と睡魔が私を満たし、大きな欠伸が出た。
明日も休みなのだしこのまま寝ても構わないだろう。ただ寝るにしては天井で煌々と輝く照明が眩し過ぎる。ベットのすぐ横の壁に取り付けられたスイッチに手を伸ばそうとしたとき、先程つけたテレビはドラマが終わり、報道番組に切り替わってるのに気が付く。しわ一つないピシっとしたスーツを羽織った、如何にも真面目で冗談の利かなさ追うな男性アナウンサーが画面に映っている。眉間にはしわがより、少々怒っているようにも見える。そんな固い表情で原稿を読みあげていた。
酔いが回っているのだろう、静寂を紛らわすために付けていたことを忘れていた。これも消さねばなるまい。アルコールのおかげで鉛のように重くなった体を引っ張り上げ、テレビ台の横に置いたリモコンに手を伸ばす。
『市内に住む六十代会社経営の男性が昨晩から行方不明になっていることがわかりました。昨日の正午頃、『匣を買いに行く』と家族に話したきり連絡が取れておらず、男性の自宅から数キロ離れた雑木林で乗り捨てられた車が見つかっており、何か事件に巻き込まれた可能性があるとして警察は行方不明事件として捜査を開始しました。調べによりますと・・・』
そこに映る行方不明者の写真。間違いない、昨晩あの匣を抱えて向かいのホームに立っていた男性だ。
酔いが一気に冷めた。高揚感や睡魔はどこか遠くに消え去って、足の裏から脳天に掛けて震え始める。心臓の鼓動が破裂しそうなくらいどんどんと音を立てていた。
こんな偶然があるわけがない、あの匣の力だ。一度関わってしまったら最後、どんなに距離を置こうとも関わってしまうのだ。
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