辰巳

第1話

 何故だか私は、とある黒い匣に惹かれていた。

 それは人通りの少ない閑静な住宅街に佇む、古びた骨董品屋の店先に置かれている。

 これと言って特別目を引く特徴があるのかと言われればそうではない。両手で抱えることができそうなくらいの大きさで、まるで賽子のようにとても綺麗な正方形をしている。

 漆だろうか、または何か別の塗料だろうか。重箱のように艶やかな光沢を持つ黒い塗料で、表面を丁寧に塗装されている。

 黒く塗られた奇妙な匣。店先に置かれた陳列用戸棚の上で、来る日も来る日も、じっと買い手を待ち続けていた。店先を通る私を思わず立ち止ませる程、それは強く惹きつける魅力的なものであった。

 戸棚に並べられている骨董品の中には、物珍しいものが豊富にあるのだが、その黒い匣以外にはそれほど私の興味を引くような品物はなかった。戦国時代の大名が残したと云う掛軸や、中国で作られたと云うやたら装飾が派手な茶碗。人魚の木乃伊なんてものもあった。千差万別、時代も異なる奇妙な珍品が並べられた店の奥で、店主は顔馴染みの客に高らかと語っている。

 五、六十代だろうか。煙草を吹かしながら、意気揚々と語る姿が実に胡散臭い。まして、それを聞く顔馴染みの客も同様に歳を食った者ばかりだ。骨董品に触れる事無く、ただ店主の武勇伝を聞き頷く。時には政治の話や、最近の若い者はとか、日々溜まった鬱憤を吐き出しながら時間を潰すように笑っているのである。

 物を売る気はそもそも無いのだろう。私が度々この店の前を通るが、商品の入れ替えは無いように思える。在庫が複数あるように思えないし、見たところ同じものが並び続けている。そんな中、定期的に集まってはくだらない世間話や、若いころの昔話をする。隠居生活の楽しみとしては十分なのかもしれない。

 そんなあらゆる骨董品の中で、何の変哲もないただの黒い匣に、何故だか私は、恐ろしい程に惹かれているのだ。まるでガラスケース展示されるおもちゃを眺める子供のように、店の前を通るたび、それをじっと眺めていた。

 あの黒い匣が欲しい。その思いが日に日に強くなって行き、次第に仕事も手につかなくなり、仕事中だろうと何だろうと、何時もあの黒い匣の事を考えるようになっていた。





 私の住むアパートは住宅街の一角にある。最寄りの駅まで徒歩五分という通勤には大変便利な位置で、近くにはスーパーもあった。市内に向かう人々のベットタウンでもあるここ一帯には、家族連れも多く、平日休日関係なく、子供たちの声がこだましていた。

 当然、各横断歩道には緑のおばさんの名で知られる学童擁護員もいて、滅多にパトカーのサイレン音など耳にしない実に治安が良い街だ。

 肝心の部屋にも文句はなかった。南側に大きな窓があり日当たりも良い。築15年と云う事もあって、内装は少々古めかしさを感じられるが清潔感がありとても綺麗だ。

 だがこの場所に決めた決定的な理由は、何といっても家賃が安いという事だ。社会人としてまだ日が浅い私にとって、身の丈に合った住まいを探す方が賢明であり、家賃が安いと云うのはとても魅力的だった。


 黒い匣を見たのは一週間ほど前の事だ。その日はいつもより早く目覚めた。会社勤めの私は通勤する際にいつも電車を使っていたのだが、天気も良かったので徒歩で会社に向かうことにした。

 十月中旬の早朝、秋の朝は空気がとても澄んでいる。日差しは出ているのだが決して暑いというわけではなく、冷たい空気と相まって暖かく実に心地が良い。外に出ると思わず背伸びをしてしまう。

 真夏の昼間に薄着で外出する感覚とはまた違った開放感があり、私は何だが特別な日常を送っているかのように心が躍る。

 いつも電車で通勤しているため、ここ一帯を歩いたのが引っ越し以来という事もあり、見覚えのない建物など少し新鮮味を感じていた。

 家を出て五、六分歩いた所にあの骨董品屋がある。信号待ちをしていた私は何気なく、その骨董品屋を眺めていると、店先の陳列棚に黒い何かが置かれているのに気が付いた。

 黒い真四角な匣である。その横には陶器やら何やらが置かれているのだが、僅かに視界に入る程度でさほど気にも留めなかった。しかし、何故だか黒い匣だけが私の目を引いたのだ。

 腕時計を確認するが、出社までまだ余裕がある。信号が青になると、私は直ぐに横断歩道を渡った。

 店先に並ぶ白い鉄製の陳列棚は、常日頃から雨風に晒されて所々錆びつきが目立つ。一方で黒い匣はくすみも無く艶やかな光沢を放ち、それがより一層、存在感を際立たせている。

 その一瞬で、私の心は奪われた。

 値札は書かれていない、売られたばかりなのだろうか。右手を伸ばし触れようとするが、思わず躊躇う。隣に置いてあるよくわからない壷は手書きの値札で一万円と書かれていた。値段のわからない匣に触れて、買わされてしまったらたまったものではない。

 私はそれを覗き込むようにまじまじと見た。両手で抱えれるほどの大きさで、ボーリング球程度ならすっぽりと納まりそうである。四隅は角が取られ、丸みを帯びている。よく見ると上部に薄い隙間があり、重箱のように蓋があるのだ。お節料理などを入れる重箱は美しい装飾が施されている物が殆どなのだが、これにはその類のものはない。

 鏡のように反射する黒い光沢。目を凝らしてみると、まるで自動車のように黒い塗料の上に透明な塗料が塗られ、きめ細かな粉か何かを振りかけたような細工がしてある。それは覗き込む角度が変わるたびに、きめ細やかな光を七色に反射していた。あまり工芸品などに詳しくはないのだが、手の込んだ細工を施されているように感じてしまう。どのような技法で、どのような価値があるかはさっぱりわからない。だが、私を魅了するだけの存在感を示すのはそれだけで十分だった。


「その匣、買いたいのかい?」


 私が匣を凝視している間に店主が横に立っていた。まだ開店前だったのか、店内から骨董品を店先に並べていたのだ。


「いえ、何と言うのか。その・・・」


 私の曖昧な返事に店主は鼻を鳴らす。


「その匣、定期的に買いたがる奴が現れるんだよ。でもまぁ、直ぐに売られて戻って来やがる。だからいつもそこそこの値段で売りつけるんだよ。お兄さんも、こいつが気になるんだろう?」

「売られては戻って来るんですか?」

「あぁ、そうだよ。売った次の日には売りたいんですってね。だから買取価格は安くする」


 それでも店は繁盛しねぇやと、店主は笑いながら店内に戻っていった。

 売れては直ぐに戻ってくる、なんだか妙な話だ。私はその一言に少し違和感を覚えたのだが、それ以上深追いすることを避けた。興味を持っているのを良いことに、高値で売りつけられたら、たまったものではない。給料日前で手持ちに余裕もなく、こんな大きな物を会社に持っていく訳にもいかなかったのだ。それに買ったとしても使い道もなく、後々後悔する事は目に見えている。

 私は名残惜しかったがその場を後にすることにした。今はこれを買うこともできないし、それに腕時計を確認すると出社時間も迫っていたのだ。横断歩道の信号が青になると同時に私は歩き出した。

 

 ひゅーっ。


 その瞬間、背後で乾いた風の抜けるような、隙間風のような音が聞こえた。思わず振り返ったが、何もない。道端に植えられた街路樹の葉は揺れる事無く、当然風など吹いてはいない。周囲を見渡すがこれと言って何か気になるよなものはない。気のせいだ、そう思うことにした私は点滅し始めた横断歩道を渡り始めた。

 するともう一度聞こえた、確かに聞こえたのだ。ひゅーっと言った、何か不可思議な音が。

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