第2話
その日を境に、私は電車通勤を辞めて歩いて通勤するようになっていた。雨の日も風の日も、毎朝あの黒い匣を眺めて会社へ向かう。買うわけでもなく、ただ眺めるだけの私に、店主は文句を言うことはなかった。早くしないと他に買う奴が現れちまうよと、少し急かすように茶化すように言うだけであった。
初めて黒い匣を見てから一週間ほど経った頃。平日、休日問わず、時間を見つけてはあの骨董品屋に顔を出すようになっていた。それは相も変わらず、黙って店先に並んでいた。ただ以前と違うのが値札が貼られていたことだ。値段は税込み五千円、手が出ない値段ではない。だが、私の中の何かが引き留めていた。
休日、昼過ぎに起きた私は、遅い朝食を済ませると着替えてすぐに家を出た。その日の天気はあまり良いものではなかった。厚い雲が空を覆い、すぐにでも雪が降りそうな寒さだ。
店内を覗くと店主はいつもの常連たちではなく、初老の男性と話し込んでいた。
茶色のトレンチコートを羽織り、子供が一人入りそうなくらいの大きさの鞄を肩に下げていた。革靴は汚れなく、丁寧に磨かれている。白髪交じりだが、撫で付けられた髪。とても清潔感がある。背筋が伸び、すっとした出立でどこか上品な印象だ。こんな貧相な骨董品屋では嫌に目立っていた。
何を話しているのかわからないが店主の表情は固い。取り込み中なのだろう、私は軽く会釈をして店先の黒い匣を見た。
それは黒い光沢を放ち、私を魅了する。店主が丁寧に扱っているようで、一日の殆どを外で過ごしているのにも関わらず、新品同様に傷一つなく実に美しい。毎晩、綺麗に磨かれでもしているのだろうか。
いつものように店先にやってきた私を見て、店主は少し笑みを浮かべる。気が付いたら私の横に立っており、どうやら話しは付いたのだろう、男の姿はなかった。
「懲りないね、そんなに気になるなら買ってしまえばいいのに。すぐに売ってくれてもかまわないよ」
店主が気さくに話しかけてきた。通い続けて顔馴染みになった私は時折、たわいもない雑談をする仲になっていた。今日は天気が良くない、不景気でどこも大変だ、などと言った意味を持たない世間話程度ではあるのだが。
「さっきの人、これを気に入ったって言っていたよ」
「えっ、本当ですか?」
思わず声が大きくなった。店主はなおも続ける。
「あぁ、中に何が入っているのかって質問攻めにあったよ。でもまぁ、買うことはしなかったけど、近いうちにまた来るとか言ってた気がするな」
「僕以外にも、この黒い匣に興味がある人が来るのですね」
「前も言ったように定期的にいるんだよ、うちの一番の売れ筋商品ってところかな」
店主は自虐的に笑う。だが私は少々焦りを覚えた。これが誰かの手に渡ってしまうと、私はもうこれを見ることができなくなってしまうではないかと。
だが私の心配を見透かしてか、店主は大丈夫、大丈夫とまた笑い出した。
「どうせ直ぐに戻って来るさ。この匣はそう云うものだから。それとも先に買っちまうかい?」
直ぐに戻ってくる。その言葉に私はあいまいな返事をしてしまう。何故だろうか、とても魅力的で都合さえ合うと直ぐに見に来てしまう程、私はこの黒い匣に魅了されているというのに、自分のものにするのだけは躊躇いがあるのだ。
買いたい、自分のものにしたい。使い道がわからない、買って後悔する。そういった効率的な観点ではない。値段もそう高いわけでもなく、直ぐに売ってくれて構わないと店主も言ってくれているのだが、やはりで何かが私を引き留めていた。
「その女性は、いつ頃来ますかね?」
「さぁね、ただ結構しつこく色々聞いてきたからね、よっぽど気に入ったんだろう。特に中身を知りたがっていたな」
「中身・・・ですか」
私はこの黒い匣に魅了されていたが、中身に関しては特に考えてもいなかった。この黒い匣には確かに蓋がある。蓋があると云う事は中に何かを収納する仕組みがある。そうでなければ蓋を作る必要はないのだ。
しかし、品物として売られているのは匣だ。中身とセットなら値札にも記載があるはずだ。値札には「匣、税込み五千円」としか記載されていない。やはり中身は空なのか。もし仮に中に何か納められているのであれば、値札にも品名にもそう書かれているはずだ。だが、この商品には「匣」の一言しか記載がない。
そんな事を考えている私に対して、店主の発した何気ない一言。その一言で私の興味はより一層増すことになった。
「中身はお楽しみだ。買った人にしか教えないって言っておいたよ。そうしたら、また近いうちに来ますって。そう言ってたよ。もちろん中身のことは君にも言えないなぁ」
と云う事はやはり中に何かが入っているのだ。店主は高らかに笑いながら私の顔を覗き込んだ。恐らく、焦りと好奇心の入り混じった酷くみっともない表情をしていたに違いない。大丈夫かい、と少し心配そうに声を掛けてくれたのだが、動揺していたのだろう。私はすぐに答えることができなかった。
曖昧な生返事をした後に新たに生まれた疑問をぶつけることにした。
「あなたは、この匣の中身をご存じなんですよね?」
店主の口角がぎゅっと上がり、待ってましたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべる。そうして、匣の経緯をさも自慢げに語りだした。
「そりゃそうさ、もう十年くらい昔かな。何処かの大学の先生だったはず。教授とか言っていたね。ある日、ふらってやってきてこれを売りたいって言ってきたんだよ。非常に珍しもので、これを見た者は喉から手が出るほど欲しがるものだって。俺だって色んな骨董品を見てきたんだ。当然、これがそんなに価値があるように見えなくて、買ってもいいが安いよ、と言ったんだ。何たって出自がはっきりしていないんだからね。そうしたらその先生は、中身を見たらわかるってその場で蓋を開けたんだ。その時は麻紐でしっかりと閉じられてたんだ。お札なんか貼っちゃいないよ。俺の目の前で麻紐を解いて、ゆっくり蓋を開けたんだ、大事そうに。俺は驚いたね。中身を見た瞬間、これは買うしかないって思ったんだよ!」
店主の鼻息が徐々に荒くなる。私もそれにつられて少し高揚していた。
「それで、すぐに買ったというわけですか?」
「あぁ、そうさ。いくらで買ったかは覚えていないが、直ぐに金を払ったよ。俺はその日のうちに店先に並べたさ。そしたらよ、すぐに客が来て売ってほしいって。あの先生の言ったことは正しかったって、その時は思ったさ。ただそれっきり、その先生は見てないなぁ」
出自が不明の黒い匣。売りに来た大学教授。人を惹きつける得体のしれない力。そして中身の謎。
この黒い匣には何かある。この匣が欲しいが、やはりこれを手にするべきではない。そう云う思いが頭を過ぎる。
だが、それと反するように。匣を手にしたいという欲求がますます強くなる。たかが五千円だ、これを買ったからと言って生活に困るほど困窮はしていない。ならば今すぐに買ってしまって中身を見たらどうだろう。ここ一週間ばかり、ほかのことが手につかないほど気になってしまってしょうがない。休日だというのに今日もこうして黒い匣を見に来てしまっているのだし、いっその事、今ここで買ってしまってスッキリしてしまってはどうだろうか。
黒い匣への思いが、どろどろとした液体のように溢れ出しているのを感じ取れる。まるでタールのようなどす黒いものだ。それが私の心をいっぱいに満たしてしまったとき、私はこれを手にしてしまうのだろう。
そんな思いが頭の中駆け巡っていたとき、一つ疑問が生まれた。では何故、これを手にした者たちは直ぐに手放したのだろう。中身を見て満足したのだろうか。それとも何か手放したい理由でもあったのだろうか。
それに気が付いたとき、先程まで心に溢れ出ていたどろどろとした欲求は静まり返り、少し冷静さを取り戻していた。
ではその疑問とは何なのだろう。例えば、開けてしまって中身が大したものではなく、持ち続けてしまってもしょうがない、実にくだらないものだったならどうだろうか。皆すぐに手放すに違いない。五千円も支払ったことに後悔してしまったと説明が付く。それに店主は直ぐ売ってもかまわないと言っていたのだ。
よく考えれば異常なのだ。中身もわからず、誰もが欲しがる。買われてはすぐに売られ、持ち主を転々とする匣なんて聞いたことが無い。
私は黒い匣をまじまじと見る。今までとは違い、とても魅力的に感じていた艶やかな光沢が、打って変わって嫌に不気味に感じた。得体の知れない力を感じるのだ。触れてはいけない、穢れのような何かを。
それに引き込まれていたと思うと、実に恐ろしい。私の額には嫌な汗が滲み出て居た。だが、同時に安堵の溜息が漏れていた。危ない所だった、これ以上引き込まれていたら一体どうなっていたのだろうかと、考えるだけで心底恐ろしい。幽霊やら妖怪やら、呪いといった非現実的なものを私は信じてはいないが、それに似た科学では説明できない恐ろしさがある。美しい花には棘があるというが、これはそう云う類の物かもしれない。
店主に軽く挨拶を済ませると、私は急ぎその場を後にした。
去り際に、やはりひゅーっと言った風の抜けるような音が匣のほうから聞こえるのだ。足を止める事無く歩き続けた。ここで止まってしまうとまた黒い匣の不気味な力に魅了されて、取り返しのつかなくなってしまう気がしたのだ。
ここに来るのは辞めよう。そう心に誓い、私は決して振り返らずに来た道を戻っていった。
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