第3話

 骨董品屋に顔を出さなくなり、既に一か月が経っていた。二、三日前に降った雪が僅かだが道につもり、うっすらと白く色を塗る。街はすっかり冬の支度を済ませたようだ。針のように突き刺さる冷たい空気を堪えながら、行き交う人々はマフラーで口元を覆い、みな同じように肩を竦ませながら歩いている。

 休日を使い日用品の買い出しの為に街に出てきた私は、一通り用を済ませると道沿いにあるカフェで一休みすることにした。店内はさほど広くはないが、私を含めて客は数人しかいないのでそれ程気にはならなかった。

 暖色系のライトで照らされた店内に、ジャズが静かに流れている。音楽に関しては特別詳しいわけではない。だが店内に流れるこの音楽は、実に心地が良く、私の耳によく馴染む。

 窓際に座った私は上着を脱ぎながら珈琲を頼むと、買い物中に購入した小説を鞄から取り出した。これといった趣味はないのだが、時折こうしてカフェで本を読むのが好きだ。店内に流れる落ち着いた雰囲気の音楽。白く冷たい蛍光灯ではなく、柔らかな暖色系のライト。香ばしさもあり、深みのある独特な芳香を放つ珈琲豆を煎る香り。カフェ全体を包み込むゆったりとした空気感が、毎日の仕事で張り詰めた私の心をゆっくりと溶き解してくれる気がするのだ。

 このような落ち着いた生活が私には合っている。だが別の人生を味わってみたいと思うこともある。酒に溺れて、騒音めいた派手な音楽が鳴り止まない空間で永遠に踊り続ける。そんな破天荒な生活にも多少の憧れはあるのだが、私は来る日も来る日も、同じような生活を送ってしまうのだ。変化が苦手な私は一歩踏み出すことが出来ずにいる。多少の憧れている程度のものかもしれない。

 本を読み始めて少しすると、先程注文した珈琲が出された。湯気が立つ挽き立ての珈琲に少しばかり砂糖を加える。ただ苦いだけではなく、少しばかり甘いほうが私は好きなのだ。

 珈琲碗を口元に近づけると香ばしい香りが鼻腔いっぱいに広がった。口に含んだ瞬間に感じるほろ苦い味わい。炒った豆の苦味と若干の酸味の中に少しだけ感じることのできる砂糖の甘さに満足した私は、珈琲碗を置くと本のページをめくった。

 私は日々、頭の片隅であの黒い匣の事を考えながら生活していたが、以前ほど執着することはなかった。時折思い出しては「あの匣の中身は何だったのだろうか」と、ぼんやりと考えるくらいのものだ。時間を見つけては、黒い匣を見るためだけの為に、欠かさず骨董品屋に通っていたとは今思えば実に馬鹿らしい。それほどにまで執着させるほどの恐ろしい力を持っていたに違いない。


 どれくらい時間が経っただろうか。私はすっかり本にのめり込んでいた。若い女性の店員が何度か珈琲のお代わりに来たのは覚えているが、正確な時間はわからない。凝り固まった体を背伸びをして伸ばす。小さな欠伸がこぼれ出た。相変わらず客はまばらだ。こなものでやっていけるのかと少々心配になるが、珈琲しか頼んでいない私がとやかく言う資格もない。

 腕時計を確認すると十七時を過ぎていた。日は沈んで窓の外はすっかりと暗くなっている。街灯や店の照明が煌々と輝いている。夏場は十九時を過ぎてもまだ明るいというのに冬場は日が沈むのが実に早い。

 そろそろ帰ろう、そう思い上着を羽織る。窓の外を歩く人々は手を摩ったり、はぁっと白い息を手に吹きかけたりしている。日が沈んで昼間に比べて気温がぐっと下がったのだろう。長い間、暖かい室内で過ごしたのだ。今から外に出るのかと思うと少し身震いをしてしまった。

 支払いを済ませると、上着のポケットに手を入れながら店を出た。やはり針のように冷たい外気が顔に突き刺さり、思わず顔を歪ませた。それが息をするたびに肺を満たし、体温が一気に下がる気がする。マフラーを持ってくれば良かったと若干後悔したが無いものはしょうがない。早く帰ろう、そう思った私は、道を行き交う人々同様に肩を竦ませながら歩き出した。

 

 近くの駅までは道なりに歩けば五分程で着く。子供を連れた家族や、カップルなどとすれ違う。みな思い思いの会話をしながら楽しそうに歩く者や、ただ寒さに耐えながら無表情で歩く者など様々な表情を浮かべている。こんなにも寒いというのにすれ違う人は多かった。クリスマスが近づけば、より一層街に人は溢れるだろう。そんな生産性のないことをぼんやりと考えながら盲目的に歩いていると目の前に駅の看板が現れた。

 駅構内に入ったが気温は外とあまり変わらなかった。実際、屋内といっても屋根がついているだけであまり外と違いはないのだ。寧ろ、定期券を翳して入ったホームは人々の賑わいもなく、蛍光灯の青白い光も相まってか外よりも気温が低く冷たく感じる。ホームに佇む自動販売機で売られている暖かい飲み物に浮かぶ、売り切れの文字がその寒さを物語っていた。

 あと数分で電車がやって来る。頭上にある電光掲示板には二つ前の駅を出発したと表示されていた。

 不意に向かい側のホームに視線を移す。こちら側と同様にぽつりぽつりと人がいるだけで殆ど人気はない。

 私のちょうど目の前には茶色いトレンチコートに身を包んだ初老の男性が一人佇んでいた。白髪交じりの髪。背筋が伸び、すっとした出立の男性はどこか上品な印象。何処か見覚えがある。

 他にも電車を待つ利用客はいるというのに、自然と私の視線がくぎ付けになっていたのだ。

 そして次の瞬間に、その理由がはっきりとした。男性が胸の前で抱え込んでいたものを見て。

 

 あの黒い匣だ。

 

 そうだ、以前骨董品屋を訪れた際に店主と話し込んでいた男だ!あの時、店主は気になっていると言っていた。そしてついに手に入れてしまったのだ!

 まるで赤子のように優しく抱えている。その表情は満足気で慈愛に満ちた、愛おしむかのように柔らかだ。

 心臓の鼓動が速くなり、足の裏から脳天に掛けて震え始めるのを感じた。寒さで震えているわけではない。それは一言で言うなら恐怖だ。骨董品屋から距離を置いてしばらく経っていた私の中のあの黒い匣への執着心は薄れていた。客観的に見ることができるほど思いが覚めていた私は、純粋にあの黒い匣からでる魔力のような呪いのような恐ろしいものを全身で感じているのだ。

 額から汗が流れる。それもまた、着こんだ衣類の暑さではない。未知のものへの恐怖がそうさせているのだ。

 だが、そんなにも恐怖を感じながらも私の視線は目の前に佇む男性から離れなかった。いや、離さなかったのほうが正しいだろう。

 やはり黒い匣には人を引き寄せる力があるのだ。時が経とうが、それを見てしまった瞬間に異様なまでの欲求が生み出されるのだ。それは恐怖心をも上回る強烈なものだ。私はまたあの時と同じようにあの匣に惹かれているのだ。一分でも一秒でも、目を離したくない。そんな思いと、早くここから立ち去らねばという思いが脳内をぐるぐるとかき乱していた。羨望と恐怖、相反する二つの思いが交わり、私の心は冷静さをすっかり失っていた。

 甲高い大きな金属音を響かせながら男性側のホームに電車がやってきた。私と男性の間に停車した電車の扉が開き、男性はゆっくりと乗り込む。私は少しでもその匣を見ようと、一歩、また一歩と少しづつ前へ出た。何故だ、何故そこまで満足気なのだ。そこまでその黒い匣はあなたに幸福を与えてくれるのか。それが知りたかった。

 危ないから下がってくださいと、遠くの方で聞こえた気がする。だがら駅員の声も耳に入らないくらい私は必死だった。その姿が余りにも度を越していたのだろう、駅員が私の肩を掴み線路から放そうとした。私はそれでも向かい側の電車に乗る男性の胸の中にある黒い匣が見たかった。お願いだ、理由を教えてくれ。そうぶつぶつと呟きながら私の歩みは止まらない。

 電車がゆっくりと走り出す。徐々にスピードを上げていく電車の中で、男性の表情はやはり満足気だ。電車が駅から離れていき、次第に男性と黒い匣の姿が見えなくなって行く。そうして完全に電車が過ぎ去った後、ようやく私は冷静さを取り戻した。ふと自分の肩や胸に駅員が必死の形相で掴みかかっているのに気が付いた。


「危険ですので、離れてください!」


 私はほんの数センチ先にホームの端があるほど線路に近づいていた。すぐ下には黒い砂利がまかれている。線路までは二メートルもないほどの距離だ。

 その瞬間、思わず腰が抜けた。崩れるようにその場に尻もちをつく私につられて駅員も倒れこんだ。

 それと同時にこちら側のホームに電車がやってきた。鼻先をかすむように勢いよくホームに侵入した電車が風を生み出す。髪が逆立ち、衣服が乱れるのを感じた。しかし、気が抜けた私はその場から身動きができなかった。耳元で駅員が何か叫んでいるが、何と言っているのかわからないほどだ。

 恐ろしい、あれは駄目だ、余りにも危険だ。私の手が、足がガタガタと音が聞こえるくらい震えている。あの匣の記憶を消し去りたい、何もかも忘れてしまいたい。そうでなければ次にあの匣を目にしたとき、確実に虜になってしまうだろう。死をも恐れぬほど、心酔して、いや、結局は命を落としてしまうかもしれない。

 生気が抜けてただ座り込む私を駅員が抱え込み、端から離す。私はただ茫然と、過ぎ去った電車の方向を見続けていた。


 

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