第5話

 黒い匣は、ある大学の教授によって骨董品屋に齎された。それは一目見た者を魅了し、買われてはすぐに売られてを繰り返して、人々の間を行き来する。全くもって不可思議な存在であり、尚且つ酷く不気味な代物だ。

 私の心は四六時中、匣の事を考えるようになってしまい、命をも落とそうとしたほど惹かれてしまった。それほどに強力な力を持った匣を、一昨日の晩に初老の男性が手にしていた。その男性はとても満足げな表情を浮かべていたのだが、その日の内に行方不明となっていた。

 匣に関わってしまった事が失踪の直接的な原因だとは確定してはいないのだが、あの匣には何もかも放り投げてでも手に入れたいといった何かしら人々を魅了してしまう力があるのは確実だった。

 昨晩の報道番組を観てから、一睡もできずに朝を迎えた。私があの匣を手にしてしまうのは時間の問題だろうし、もし手にしてしまったら一体どうなるのだろうか。あの初老の男性のように、行方を眩ませてしまうのだろうか。

 では一体どこへ向かったのだろうか。会社を経営していると言っていたし、社員や家族を捨ててまで日々の生活を放り出して行くとは考えにくい。単純に身代金目的の誘拐だとしたら・・・。

 男性は車で匣を買いに行くと言っていたが、私が見たときは電車に乗っていた。車は近くの山林に乗り捨てられていたのだし、実に奇妙である。

 考えても憶測にすぎないのはわかりきっていた。あの駅で見た男性は別の人物で私の見間違いかもしれない。他人の空似というやつに過ぎないのだろう。

 とにかく、ここ最近の私はあの匣に日常生活を放り出すほど支配されている。いっその事、手にしてみる必要があるのではないか。関わってはならない、そうわかってはいるのだが、日常生活に支障をきたしている今の状況を打破するにはそれしかないのであろう。

 今、あの匣が骨董品屋の店先に並んでいる保証はなかったのだが、開店と同時に行くことにしよう。そこにあればすぐに買い、無ければ再び買い手に売られて店に戻ってきたときに取っておいてもらえないかと交渉できないだろうか。

 身支度を簡単に済ませて、家を出る準備はできた。窓の外を見ると昨晩降った雪がいっぱいに積もっている。空には雲が厚く張っており、雪自体は降ってはいないのだが実に寒そうだ。

 財布からお札を抜き取ると無造作にポケットに突っ込んだ。そして意を決し、部屋を後にする。

 冷え切った空気が針のように肌に突き刺さる。寒さに弱い私は、寒さを理由に部屋に籠るのが当たり前なのだが、今日は違った。どうしてもあの匣を手にするという確固たる意志を持ち合わせていたのだ。

 コートのポケットに手を突っ込みながら、身震いする。それは高鳴る鼓動から湧き出る武者震なのかもしれない。


 例の骨董品屋に着くと、店主が白い吐息を吐きながら、シャッターを開けていた。開店準備をしているようだ。私に気がつくと、ぐにゃりと口角を歪める。待ってましたと言わんばかりの満面の笑みである。


「あるよ、あの黒い匣」


 どんどんどと、鼓動が破裂しそうな勢いで高鳴り、全身の毛穴から汗が噴き出した。

 今、すぐそこにあの黒い匣があるのだ!私が追い求めた、あの黒い匣が!

 胸から込み上げるどす黒いもの。それは私の肺をいっぱいに満たして、さらに呼吸を荒げる。嗚咽しながらそれはとてもか細いものだったかもしれないが、私は精一杯の大きさでこう言った。


「黒い匣を買いたいのですが」


 私はくしゃくしゃになった一万円札を店主に突き出した。店主は毎度と、陽気な声をあげるとカウンターの裏に入っていく。

 ごぞごそと漁る音がしてる間も、私は落ち着きがなく、何度も周囲を見回したり、ポケットに手を突っ込んだり、忙しなく動いていた。

 少しすると、店主があの黒い匣を抱えて裏から出てきた。カウンターの上に置くと、実にいやらしい笑顔で、これはあんたのものだと言った。

 私は持ち帰ることすらしなかった。その瞬間に黒い匣に手を掛けたのだ。艶やかな光沢が、艶かしい質感が、一瞬にして私を虜にする。

 ついに、ついに手に入れた!これは私のものだ!私が中を覗く機会が、ついにやって来たのだ!

 鼓動が爆音となり、真冬だと言うのに脂汗がダラダラと流れ落ちる。

 蓋に触れた時、私の手は震えていた。がたがたと歯軋りが脳内に響いていた。

 ことっ、という音ともに蓋が開いた。ゆっくりと蓋を持ち上げる。たった一度も、私は瞬きなどしなかった。見逃してはなるまい、ようやく待ち望んだ黒い匣の中身を見れるのだ!

 蓋を避けるとそこには、黒い穴が二つ開いた、干物のようなものがあった。

 


 その瞬間、私の目の前が真っ暗になった。

 


 何だ、何が起きたのだ!何度瞬きしても、永遠と暗闇が広がって、何一つ見ることができない。一体どうなっているのだ!

 気が動転した私は、悲鳴のような叫び声を上げた。



 ひゅーっ。



 何故だ、声が聞こえない。風の抜けるような乾いた音だけが響く。何度叫ぼうとも、その音だけが響き渡る。

 私の声が、声が出ないのだ!ただ風の抜けるような音だけが、私の口から出ているのだ!

 この暗闇から、逃れたい一心で私は必死に四肢を振り回した。だが、私は何も触れることができない。いや何かがおかしい。触れることができないのではない、腕を伸ばすことができないのだ!

 上も下も、前も後ろも、何もわからない。ただ暗闇だけが私の周囲を満たしているだ!


「ありがとうございます。あなたのおかげです」


 目の前で声が聞こえる。その声を聞いた瞬間に、私の思考はぐるぐると渦巻くと同時に驚愕する。そんな、そんなはずではない、いやありえない!一体どう言うことなのだ!

 その声は聞き覚えがある。私が生まれて来てから聞き続けている、私自身の声なのだ!

 

「大丈夫、すぐに新しい買い手が見つかるさ」


 店主の声だ。そしてすぐに、ことっ、という音が響く。

 嫌だ、助けてくれ!私をここから出してくれ!

 私は力一杯に叫んだ!

 たが私の叫びは声にならない。

 

 ひゅーっ。


 私の叫びは、乾いた風の抜ける音にかき消されていた。

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辰巳 @yaoyao824

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