Epilogue;消却と不眠

[200X年]

[閉鎖街 ■■家邸内にて]


 1978年12月1日に始まり、同年12月31日に途絶える日記。31日間の記録を収めたその古い日記帳を、男は読了し、閉じた。

「くだらない」

 唇から漏れた呟きはどこまでも冷たかった。まるで酷寒の夜が産んだ氷が、人の言葉の形を取っているかのような声音であった。

 邸内、その家は人家としての活力を失い、どこも均一に薄い埃の層に覆われていた。照明の類は死んだように灯らず、夜の訪れを告げる薄青い闇が、曇った窓ガラスに寒々しい。床にも調度品にも長年にわたって丁寧に使い込まれてきた痕跡が見て取れるが、今やその主は不在であることが窺える。

 いいや、厳密にはに限って言えば不在ではない。


 窓辺の机の前で古びた木椅子に腰掛け、革表紙の日記帳を繰り終わったその男こそ、かつて31日間の狂気の記録を書き上げたその人であった。

 久方ぶりの帰郷であった。彼は当時21歳の己が残した忌々しき若き備忘録に、時を経て再び相まみえたのである。


 手袋を嵌めた男の手が、褪せた深緑色の革表紙をそっと撫でる。邸内に隙間風として吹き込んでくる真冬の寒さは、息が凍るほどだ。

「実に酷い。この日記を残した判断こそ、一番の醜悪だろうに」

 男は独りごち、目線の高さまで日記帳を持ち上げた。そのページに毎夜書き込んでいた頃には無かった皺が、肌に薄く刻まれている。しかし端正で眼光鋭い横顔は当時と変わらない。彼の発する言葉は廃屋の空気に白く溶ける。

「若さというものはどうしようもないな……全く」

 冷えた唇には薄笑いすら浮かばなかった。



 男の自殺は果たされず、そしてまた父殺しも果たされなかった。盲目の父親は瞼を閉ざしたままに永らえ、生き通して死んだ。その最期に息子の手は関与しなかった。

 人として十分に、よく生きたと言える享年であったろう。

 父の死後、男が帰郷するのはこれが初めてであった。父が存命のうちは聖域に留まり続けていた世話役の女とも、今では連絡が取れなくなった。聖域の街は今度こそ人を喪って傾き、完全なる静寂のうちに閉ざされていたのである。今日、男が錆びた鉄の門を引き開けるまでは、廃された街にはただの一つの音もなかった。この二十数年を外の世界の住人として生きていた男は、隣に誰を伴うこともなく、たった独りで戻ってきた。

 悲劇と狂信に塗れた聖域の管理者の血脈は、最後の末裔である男を以て途絶えようとしている。


 男は薄闇の中で溜め息を吐くと、日記帳を机の上に置いた。

 ここは男の自室であった。彼はかつてこの空間で、この机で、この椅子で、筆を執っては夜ごと生活を書き記したのだ。日記帳は机の鍵付きの引き出しの奥に安置されており、引き出しの鍵の隠し場所も男がこの家を出た時と寸分違わなかった。廃屋の部屋はまるで、男の帰りを待ち続けていたかのようであった。彼の秘密はついに誰にも暴かれなかったのだ。

 男は長い沈黙ののち、静かに机上の日記帳へと向き直った。そして彼は嵌めていた黒手袋を外し、懐から万年筆を取り出した。

 古い表紙を、再び開く。年季の入った紙のページをぱらぱらと捲り、最後にほんの数見開き残っていた空白のページを広げる。万年筆のキャップを外し、そのペン先を紙面へと下ろす。

 ここに、最後の記録が始まった。



[1978年の12月を生きた君へ


 初めまして。私はこの閉鎖域へ戻ってきた、未来の君だ。

 日記を全て読み返した。その上で言う。この記録の残存は許されない。

 君はこの記録の前文でこう述べた。もし後年の自分、即ち私がこれを読み返した時点において、この記録の存在が私の不利となる場合は、迷わずこれを破棄せよと。なかなか的確な読みだったと言っておこう。君の懸念通り、これは今現在の私にとって邪魔な物でしかない。

 君は同じく前文にてこうも述べていた。記録の消却をためらう理由など存在しない、何故なら知っての通り、意味はどこにもないのだから、と。この日記帳の全文を通して、この箇所にだけは手放しで賛同しよう。記述の中の君は終始未熟で無力で見るに堪えぬ存在だったが、世界の全てが無意味であるという真理を解していた点だけは褒めるに値する。

 そう、あらゆる物事は無意味で無為だ。故に私がこの記録を破棄しようとしなかろうと、どちらであっても意味はないのだ。しかしどのみち同じ無意味に行き着くならば、私はこの記録を破棄する方の無意味を選ぼう。

 だが君の痕跡をこの世から完全に消却する前に、少しだけ君の未来の話をしてあげよう。

 これは私が君を憐れんで贈る、ささやかなはなむけである。


 君は自殺に失敗する。身を投げたゲヘナの底で、君は夜更けに目を醒ます。君は奇跡的にほとんど無傷で助かってしまった。せいぜいが肩や脚を少し痛めた程度で、ゲヘナの底に降り積もった遺灰と落ち葉のクッションが君を守った。

 酷い臭いだった。闇に目が慣れれば、幾らでも白骨と腐った屍肉をそこに見ることができた。幾らでも。年々積み重なった儀式の道具の残骸や、薬剤の瓶が投棄されているのも判った。そこはまさに、死のみが満たす本物の地獄であった。腐蝕と何らかの化学反応が作り出す悪臭に、君は何度も嘔吐した。

 そのまま地獄の黒き底に横たわって、死ぬのを待っても善かった。待てばきっと死ねたろう。しかし吐く物が何もなくなったところで、君は何故か穴の壁を登り始めた。


 そうだ、そればかりは君に訊きたかったな。何故あの時地上を目指したんだ? 私にもさっぱりわからないんだ。


 かくして君は生き延びた。そして私が生きている。

 あの日、地獄の底から見上げた冬の夜空。私と君の嫌いな赤色の、まるで対極にあるかのような、淡青色のシリウスが頭上で強く輝いていた。


 君は自分を殺し損ねるばかりでなく、あれほど憎んだ父のことも結局殺すことはできない。ゲヘナから生還すると、君は本棚の目立つ所に置いていたこの日記帳を、しまいには引き出しの奥へとまた隠した。そして聖域を離れる道を選ぶ。

 僅かな光と影の認識すらとうに失い全盲となった父の死を、私はこの閉鎖域から遠く離れた街で、彼の絶命から何日も経った後にようやく知った。

 言っておこう。君がわざわざ足掻かずとも、この聖域は勝手に潰れた。

 庭園の植物が繁茂したところで問題はなかった。鼠がいくら繁殖しようと支障はなかった。だから君が調合した庭園殺しの薬剤も殺鼠剤も、みな無為だったのだ。母の墓を暴く必要もなかった。君はこの世界の無意味の中で、みずから更に徒労を重ねる方の無意味を選んでいたのだ。

 可哀想に。

 君が足掻いても、何も変わりはしなかった。運命は必ずひとところへと収束する。

 私は今でも他者の上に居る。君が苦しみ抜いた身体の冷たさは、今この瞬間も私の身の内に貼り付いている。私は今でもたった一人で、酷寒の舞台を管理している。しかし最早君のような、瑞々しい苦しみを覚えることはない。

 ゲヘナから這い上がった君は、いずれこの冷たさをすら喰らい尽くし、己が物とするのだから。


 よくぞ閉塞の中を空回った。

 君の歩んだ道のりに、心からの祝福と呪詛を。]



 男は最後の記録を書き加えた日記帳を携え、家の外へ出た。

 二度と息を吹き返すことのない、朽ちゆくばかりの冬の廃街を独り歩く。男の足音のみが止まった街の空気を小さく乱し、しかしすぐに圧倒的なまでの静寂が、辺りを均一に覆い返した。男は生前の父が毎日通っていた拝殿の前を通った。小高い丘の上の簡素な鐘楼では、父が大切に手入れしていた小ぶりな鐘がすっかり錆び付いていた。殺鼠剤を撒いた納屋がちらりと見えた。元から建てつけの悪かった納屋は、今や木造の壁のほとんどが腐っていた。かつて潰した庭園の前を通った。数十年の月日が流れてもそこは見事に黒い死で満ち、生命の気配は欠片も存在していなかった。小さな街を端まで歩き切ると、不意にひときわ背の高い鉄格子の門が現れた。男は門を開けた。蝶番が軋んだ。鼠の死骸は挟まっていなかった。

 その先に、ゲヘナの大穴が広がっている。

 直径約四十メートル、深さは推定で二十メートル以上の異様な大穴が、果てぬ闇を湛えて巨大な口をいっぱいに開けていた。男が身を投げたあの日から、大穴の様相だけが少しも変わっていなかった。

 男はゲヘナの縁へと歩み寄り、手袋を外した左手で日記帳を穴の上へと差し出すように持った。そして右手はコートの懐から、薬液の小瓶を取り出す。小瓶の口の留め金を片手で器用に外し、男は中身の透き通る薬液を日記帳へと振りかけた。革の表紙が濡れた。小口からページも濡らした。やがて空になった瓶から男は右手を放した。瓶は重力に従い、音もなくゲヘナの底へと吸い込まれていった。

 薬液が滴り落ちる日記帳を見つめ、男はふと思い出したように、この閉鎖域に踏み入ってから初めて淡い微笑みを浮かべた。

「……そうだ。これは書くのを忘れていたな」

 男は穴の上に差し出していた左手を引き戻し、日記帳のまだ薬液に濡れていない部分にそっと唇を寄せた。

「聖獣はこの世に降りたよ。──おやすみ、良い夢を」

 そして男は右手に握ったライターの炎を、日記帳の端に翳した。

 革表紙を、ページを、鮮やかな赤色の炎がゆっくりと包み込んだ。舐め取るように赤く、赤く燃え出す炎を男は眺め、数秒ののち、手を放した。


 意味などあるはずもない日々の上に立ち続ける。繰り返し繰り返し、逃れ得ぬ赤色の記憶をその眼に映しながら。

 燃える日記は穴の底へと遠ざかり、暗闇の中で一瞬だけぽうっと星のように瞬いてから、やがて完全に見えなくなった。

 若き記録者が今度こそ死の淵へと落ちていったのを見届けて、男は立ち去った。






    『閉鎖街;残存記録』


     了

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閉鎖街;残存記録 早山カコ @KakoSayama

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