12月31日

- -  1978年12月31日(日)


 僕は今日、遺書としてこの日記をしたためる。

 今日を以て、僕は僕という存在を終わりにする。


 元はと言えば、単調な日々の変化を忘れぬように一日一日を記録してみようと、そんな思いつきから綴り始めた日記であった。今、僕は当初の目的を無事に果たせている。記録のお蔭で日々の過ぎ行く感覚は希薄ではなくなり、昨日と三日前と五日前の区別をきちんとつけられるようになった。しかしその代償に僕に訪れたものは、記録行為に対する重篤な依存であった。

 書かずにはいられない、という、強迫観念にも似たある種の快感だった。この日記をつけ始めてから様々なことが立て続けに起こったが、僕はそれらを書き留めながら、隠していたはずの本来の自己を抑制できなくなっていった。例えば創作物に対して感動を覚えることができないこと、相手に合わせてうわべを変えては常に最適に魅力的な演技をし続けていること、そして内心では世界の全てを見下し切って、嫌悪感にばかり囚われていること。どれも実生活の中では決して口にできない僕の本性だった。


 抑圧された本性を紙の上に撒き散らすことが、気持ちが良くて仕方がなかった。


 今まで僕を勝手に理想化し好意を寄せてきた、全ての「外」の人間達へ。数多くの教師達。数多くの同輩達、後輩達。自称恋人と世話役を含めた幾人かの女性達。

 あなた達が好きになり、時に崇敬の目で見上げた〝僕〟は、たまたま人間の形で生まれ落ちただけの悪魔だった。

 あなた達の隣に立つ時、あなた達と言葉を交わす時、あなた達の手を取り抱き締める時。僕はあなた達と共に在るように見えながら、本当は一瞬たりとも、あなた達と同じ景色を視てはいなかった。あなた達と同じ感情を味わえたことなど、一度たりともなかった。

 あなた達は最後まで僕の操り人形だった。僕よりも下位の存在で、ひとたび僕が支配に乗り出せばもう僕の掌の中から抜け出せない、実に憐れで弱い生命体だった。あなた達の一挙手一投足が僕にとっては耐え難い醜悪だった。

 己の無能を恥じるがいい。

 僕という名の領域で飼われるだけの愚者ども。それがあなた達の正体だ。

 僕はあなた達を憐れみ、心の底から憎んでいる。


 あぁ、そして。

 お父さんへ。

 僕がどれだけあなたを殺したかったと思う? どれだけあなたの愛情が重く、疎ましく、煩わしかったか。またあなたの病があなた当人だけでなく、いかに僕をも固く縛り付ける鎖となっていたか。優しいあなたは迷惑を掛けてすまないと今までもこの先も何度でも謝ってくれるだろうな、しかし僕が欲しいのはそんなものじゃないんだ。僕が何よりも嫌いなのは、他者への思いやりの心をもって涙を流しているあなたの顔だ! 僕はあなたのその表情から逃げたくて、逃げたくて、だからあなたを支配しようと努力したんだ。

 あなたが僕の思い通りになってくれさえすれば。他の奴らなんかもうどうでもいい、あなたさえ手に入れば。あなたさえ飼い殺しに出来れば!

 出来なかった僕を笑うがいいさ。

 おまえは心優しい息子だからと、いつまでもいつまでもいつまでも在りもしない僕の虚像を視えない眼で視たような気になって。在りもしない幸福を繰り返し再確認するのは、そんなものは自慰行為と同じだ。あなたは僕を、母の血を浴びた僕を自慰の種にして、家族愛とか名の付くまやかしの酩酊を自分一人だけ味わっていたんだ。

 愛した女の血液がかかった賢い少年を使うのは、そんなに気持ちが良かったか?

 良かったのだろうな。僕の顔などまるで見えなくなるほどに。


 お父さん、僕はあなたを殺せない。だから代わりに僕という存在そのものを利用して、間接的にあなたを地獄へと引き摺り落とす。


 今日、僕はゲヘナの大穴へ身を投げる。


 父よ、嘆け。他ならぬおまえが引き金となって、おまえの最愛の子が自死するという最上の悲劇をくれてやる。喉が張り裂けるまで泣き叫ぶがいい。慈愛ではなく、後悔の涙を流すがいい。地に倒れ伏し濁った眼を剥き、この世のすべてを呪うがいい。

 僕を喪失した時あなたは初めて、僕と同じ冷たさを知るだろう。

 いと深きゲヘナに落ちれば、僕の死体は二度と引き上げること叶うまい。死ぬ時は母の隣に骨となってうずまりたいと思っていたが、その必要はもうないことが解った。僕は七歳のあの夜に母の血液を浴びていたから。僕は、とっくに母と一つになっていたのだ。彼女は今でもそばに居る、僕の中に。だからもう、いい。父よ、僕はあなたが聖なる大穴と呼んだあの場所に自ら落ちて、あなたを置いて行ってやる。僕に宿った母をも連れて、僕は必ずあなたの前から消えてみせる。


 決行時刻は午後四時。僕の七歳の誕生日、あの儀式が開始されたのと同じ時刻に。



 二十一年か、思ったよりも短い人生だった。

 だが僕に「ありふれた人生」「ありふれた幸福」を手にできる可能性が僅かでもあったかといえば否である。僕は始まりの瞬間から既に手遅れの人間だった。この聖域に生を受けてしまった時点で、遅かれ早かれこうなることは決まっていたのだと思う。

 やり残したことといえば父殺し、それだけだ。だがそれも僕の死後間もなく、自動的に果たされることと確信している。後を追って死んでくれてもいいし、僕の遺す言葉に精神を極限まで痛めつけられて生ける屍と化すのもいい。どちらであれ楽しみだ。僕はやっと、やっとあなたに名前を呼ばれるあの瞬間から解放される。あなたのくれた下の名前が本当に嫌いだ。僕という存在が実に、聖域を継ぐためだけに生まれてきたことを思い知らされる名だから。


 この日記はいつもの鍵付きの引き出しではなく、本棚の目につく所に置いておく。いつか遺品整理の折に気づく者(恐らくはあの世話役の女になる可能性が高いと思うが)が現れ、この遺書が発見されることだろう。そうだ、遺書のページに栞を挟んでおこう。いつか父のくれた美しい栞を。


 よし、書き忘れたことはないかな。こんなところか。

 何のための人生だったのかと問うことはしない。

 この日記の初めに言っただろう、意味など存在しないと。

 無為に生まれ、無為に死ぬ。それだけだ。





    ああ、それでも

    願わくば西の街へ

    聖獣が居るのなら、見てみたかった。

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