12月30日

- -  1978年12月30日(土)


 前置きは要らない。今日あったことを書いていこうか。


 年の瀬だ。今日の東京は快晴だった。朝起きて、父と世話役の女と共に朝食をとった。何日か前から女も同じ食卓で食事をするようになっている。そうすると何だか家族のようで良い、と数日前に父が言ったからだ。女もどこか嬉しそうに受け容れていた。会話は少ないながら、僕達の間には傍目に見れば和やかな時間が流れるようになった。

 すると食後、父が僕と女に向かって言ったのだ。「いよいよほとんど目が見えなくなってきた」と。

 やはりこの間の高熱が父の視覚機能を弱らせていたらしい。僕は彼の日常の動作の端々からその可能性を感じ取ってはいたが、今朝改めて彼の話を聞くに、もうごく狭い視野の中にぼんやりと光と影のゆるやかな形が感じ取れるかどうか、というところまで進んだのだという。色覚も完全に失われたとのことだった。

 彼は自分の病状を一通り説明し、僕と女に「ますます迷惑を掛けることになって申し訳ない」と謝った。それから、女に向かって「しばらく外してほしい」と頼んだ。予想だにしなかった展開だったが、僕と二人きりで話をすることを彼は望んだのだ。


 二人きりになって父は、もうおまえの顔を見ることができないのだよ、と泣いた。

 そんな父の顔をこそ、僕は直視できなかった。

 それでもおまえが生まれてからのすべてのことをはっきりと憶えていて、たとえ見えなくなっても、いつもいつまでもおまえを愛している、と父は泣いていた。

 僕は、わかっています、と口先の言葉を吐きながら、父を直視できなかった。

 いいや。わかっているというのは口先ではない。生まれてこのかた、父の愛情を感じずにいられた瞬間などなかった。僕はこの世に生を受けてからの21年間、全身全霊で父に愛されてきた。母がそばに居ない分まで、或いは母が居ないからこそ、父は僕に膨大な愛情を注いでくれた。いくら言葉を尽くしても足らぬほどの。この世に無償の愛は存在する。僕はとうの昔から父にそれを貰っているから、断言できる。無償の、無限の愛は確かに存在する。

    だからこそ僕は


 僕への愛情の話はごく自然に、父のお決まりの流れに沿って、母との思い出話にまで拡大された。僕は父の調子に合わせながら機を見計らって、「そういえばお母さんの名前が載った葬儀目録を見つけた」と切り出した。

 これまで父と交わした会話の中で、今日が一番緊張していたと思う。得意の演技すらままならぬほどに強張った僕の顔、父が見えていなくて本当に良かったと心から思った。不孝息子の僕はまたあなたの病に感謝した。

 葬儀目録の記述に奇妙な点があったことを父に話した。帳面に記されていた母の名前、誕生日と命日、そこまではおかしくない。大まかな死因の欄は虚弱体質による衰弱死。葬儀の責任者の欄には無論、夫であり聖域の当主たる父の名前。それもいい。しかし骨を埋めた日付。

「1964年」

 僕がその年号を口にした瞬間、それまで慈愛の涙を流していた父の表情が僅かに変わったことに、極度の緊張の中でも僕は気付いた。お父さん、どういうことか分かりますかと訊ねた。心臓が早鐘を打っていた。

「知らない」と彼は言った。不思議そうに、妙なものだねと首を傾げつつ、でも単に他の信者と取り違えたか何かで表記を誤ったのではないかと。僕の親だけあって演技が非常に巧かった。

 だから僕は昨夜暴いた骨壺を部屋から持って来た。

 何も言わずに後ろから父を抱きしめるようにして、彼の手を取って骨壺へと持っていき。あの特殊文字の上に、老いて乾いた指先を誘導して、一画ずつ、手を優しく握ってなぞらせて。

 世界で僕らしか知らない1、9、6、4、の形をなぞった頃には、父の顔は表情を失って能面になっていた。あなたも能面になれたことを初めて知った。あなたのそんな顔は見たことがなかった。

 1964年、次に「夏」の文字をたどった。僕は特殊文字の中では「夏」の字が最も好きだ。字形が美しく、書き順も流れるようで心地が良いから。幼い頃に、目の見えていた父に手を握ってもらって休日に一緒に書いて覚えた「夏」の字を、今度は僕が父に教えた。

 僕に導かれる父は能面で、父を導く僕は能面を保てなくなっていった。

 彫り付けられた二行目の言葉。「永遠に愛している」という、恐らくは父からの母に対する最大の祈り。

 全ての文字をなぞり終えた時、僕は無機物のように固まってしまった父の横顔を見て、何か莫大な恐怖と失望と、幼くてひどく懐かしい悲しみに体の中心を撃ち抜かれた。僕の知らない冷酷な老人がそこに座っていた。むかしむかしに失くしてしまったと思った本当に懐かしいあの、小さな子どもがいちばん使い慣れた毛布にくるまるような、あたたかい喪失感が僕を包んだ。

 僕が嗚咽と共に父に向かって絞り出すことができたのは、

「何で」

 の、たった一言だけだった。


 父は全てを語った。



    あぁ

    この呪われた家 には

 この呪わしき家には、「聖水」があった。

 母の没年は僕が一歳になった年、1958年。その年号は正しい。僕の母は確実に1958年の夏に死んだ。ではそこから遺骨を埋めるまでの六年間の空白に、一体何があったか。

 僕も薄々は理解しようとしていたのだ。母の埋葬の日付は、だって間違いなく。


 埋葬の日は僕の七歳の誕生日だった。僕が〝儀式〟で血液を浴びたその日に、母はようやく骨となって葬られたのだ。


    僕は

 僕は現実逃避のために、一部の記憶を今まで自分で改竄していたのだ。脳の自然な防衛機制というやつであろう。まず一つ目の改竄点だが、僕が死体の血液を浴びて赤を忌むようになったあの夜、僕は「父に連れられて儀式を見学していた」のではない。あの夜執り行われていたのは僕のための、僕を正式に聖域当主の後継として定めるための儀式である。一介の観覧客などではなかったのだ、僕こそがあの儀式の主役だった。

 そして、父の話を聞いてようやくはっきりと思い出せた二つ目の改竄点。僕は名無しの死体から偶然飛び出た血液を浴びたのではない。


 あの時僕の前に運ばれてきたのは、保存されていた母の死体だ。



 僕は眼前で落とされた母の首から、彼女の頸の断面から噴き出した六年越しの血液を浴びて、当主後継として認められたのである。



    聖水

 この家には「聖水」があった。教団の執念と奇跡が創り出した、魔法にも匹敵する秘奥の薬剤だ。即ち、世界最高の死体の保存薬。その薬液に漬けられた死体は腐ることも朽ちることもなく、まるでつい一秒前に絶命したかのような狂気的なまでの瑞々しさを、何年でも保ち続けることができる。

 時間の進行というこの世の最大の不可逆に抗うそれは、認めよう、まさに魔法であろう。

 聖水の使い途は色々とあるが、最も多いケースがまさに僕の場合である。つまり当主後継の子の母親が、その子が七歳の誕生日に儀式を迎えるまでに死んでしまった時だ。後継の子は実母の血液を浴びることで、ようやく後継として聖域を継ぐことを認められる。母親が生きていれば腕なり何なりをその場で軽く刃物で傷付け、出血したものを子にかけてやればよいのだが、母親が死んでいるとそれができない。しかも血液を単体で保存したものをかけるのでは駄目で(教義に反する)、「母親の身体からその場で出た血液」である必要がある。だから七歳の儀式より前に母親が亡き人となった場合は、その死体を聖水に漬けて保管し、儀式の日まで大切に大切に鮮度を保っておくのである。ほとんど生き血のような新鮮な血液を、子に浴びせるために。

 1958年に没した僕の母は、そうして聖水の中に沈められた。美しい彼女は薬液の水辺を揺蕩い、そして、1964年に七歳を迎えた僕にその血液を浴びせる役目を果たすと、ようやく人として正しく土に還ることを許されたのだ。

    僕のせいで母は六年も


 父は、僕が儀式で受けた精神的ショックがあまりに大きいようだったから(事実僕は、後継認定の儀式のやり方はおろか、後継認定に少しでも関連することは今日まで片っ端から忘却していた)、息子が可哀想で話すに話せなかったのだと述べた。父の顔は能面から再びいつもの父の表情へと戻っており、「最愛のおまえを辛い目に遭わせてすまなかった」とまた慈しみの涙を浮かべていたが、僕は父の「それでもおまえも母さんも愛している」という言葉を最後まで聞かずに、聞けずに母の骨壺を掴んで外へ飛び出した。

    なぜ自分が泣いているのかわからなかった

    あの絶対的な無感動がどこへ行ったのかわからなかった


 母の遺骨を壺から出し、父の字が刻まれた壺を砕き、葬儀目録と一緒にしてぜんぶ燃やした。母の粗末な墓標も、燃やしてしまった。青空に昇っていく煙をずっと眺めていた。合掌の動作の意味がほんの少しだけ理解できたような気がした。祈りでもしなければやっていられないんだ。


    僕は、

    冷たさに苛まれる僕は

    母の赤に包まれたことを思い出す時だけ

   本当はいつもあたたかかった。

  あの赤だけが、

 まるで幼い子どもの、いちばん使い慣れた毛布のように。


悪魔は、僕だ。





 さっき、寝ている父の首を絞めようとした。


 できなかった。




 最後に、本心を書いてもいいだろうか。これだけは誰にも知られたくないから、今や僕と父しか知らぬ、そして父がその目でもう読めなくなった我が家の文字で。僕だけのものになったあの文字で。

 一度だけ書かせてくれ。こんなことは一度しか言わないから。







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