後編

 ハルは次々と美しい世界を生み出していった。俺はその度に世界に降り立ち、時にはハルの兄弟になることもあれば、対立する敵となることもあった。物語によって俺に与えられる設定は違えど、彼女が創る世界は常に澄んでいて、輝いていた。

 しかし、時間とともに成長するにつれて、ハルは美しい世界を創らなくなる。いや、創ることができなくなる。

 彼女は現実における学校での人間関係に、そして両親との関係に苦しむようになった。

 昔からハルは他者と接することが苦手だった。彼女は自身と他者を明確に区別していて、他人の領域へ踏み込むことを恐れ、また自分の領域に踏み込まれることも嫌っていた。だからハルはノートを誰にも見せなかったのだろう。それは頭の中の全てを曝け出すことと同義で、彼女にとってそんな行為は恥でしかなかった。

 だが、ハルは他者との関わりを全く望んでいなかったわけではない。多くの登場人物や世界が記されたノートを誰かに見せることで、自分の創った物語を褒められる。認められる。感情を共有する。そんな体験を心のどこかでは夢見ていた。

 しかし、彼女はその気持ちに嘘をついた。自らが創った物語に誇りと、自信と、後ろめたさと、羞恥心を持っていたからこそ、他人に歩み寄ることをせず、他人から貶められることを恐れた。

 人と距離を置き、その一方で誰かが干渉してくることを嫌う。そんなハルの態度は、周囲の目から否定的に映っていた。性格が暗い。身勝手。協調性が無い。ハルと同じ学校の生徒たちにとって、それらの要素は彼女を排他するのに充分な理由だった。

 そしてハルの両親も、そんな内向的な娘のことを疎ましく思うようになっていった。家族で会話をする機会は徐々に少なくなり、その代わりに文脈の乱れた怒号と、痛々しい沈黙が繰り返されるようになった。

 

 やがてハルは学校に通うことをやめ、両親と関わることも避けるようになった。朝も昼も、そして夜も、残酷なまでに淡々と経過していく時間から目を背けるように彼女は自分の部屋へ閉じこもり、自分が創り出した世界に依存するようになった。途方もなく長い空白の時間を紛らわせるかのように、多くの登場人物や物語が、そして世界が、ハルによって創られた。

 それらの世界のほとんどはハルの居る現実に近いものだった。例えば、学校を舞台として繰り広げられる物語。騒がしくも平穏な日々を過ごしていた生徒たちは、ある日謎の組織によって主導された計画に巻き込まれ、最後のひとりになるまで生徒同士の殺し合いが行われる。そんな凄惨な世界だった。

 その世界における生徒や教師などの登場人物は、実際にハルの周囲にいる人間が多くを占めていた。彼女は物語の中で彼らを殺し、鬱憤を晴らすことで、理性と殺意の均衡を保っていた。

 ただ殺されるためだけに生み出された人物たちも存在していた。簡単な名前と、どちらでもいい性別。そういった最低限の情報だけが彼ら、もしくは彼女らには与えられ、役目を果たすとすぐに物語から消えていった。

 俺はハルの同級生のひとりでもあり、恋人でもあった。俺はハルを守るために、何人もの人間をナイフや拳銃で殺した。そして最後には彼女を銃弾から庇って死んだ。

 その後ハルがあの世界でどうなったのか、あの世界はどういう結末を迎えたのか、俺は知らない。


 実際に存在している人物をモデルとして物語に登場させ、物語の中で殺す。現実の問題に対しては何の解決にもならないであろうその行為が、ハルにとって本当に意味のあるものだったのかは分からない。ただの戯れだったのかもしれないし、精神を安定させるために、物語を通して救いのようなものを求めていたのかもしれない。

 しかし、例え救いを求められたとしても俺たちにできることは何もない。そんな役割は与えられていないからだ。だから何もしないし、何もできない。役者が与えられた台本に沿って舞台上で役割を演じるように、俺たちは与えられた設定に従って動くだけだ。

 その後もノートの中では思いついたかのように多くの世界が創られ、思い出したかのように多くの世界が消されていった。

 

 そんなハルの日々は突如として終わりを告げた。

 ハルは中学校にほとんど通うことなく高校生となった。すると、まるで幸福と不幸の帳尻が合わせられたかのように、彼女の人生は好転した。それこそ最後には全員が幸せな結末を迎える、予定調和な物語のようだった。

 高校に進学したのはハルの意思ではなく、彼女の両親によってほぼ強制的に放り込まれた形だったらしい。精神的に自立してほしいという名目での厄介払いで、それを察することができないほど彼女はもう幼くなかった。両親から見放されたことにハルはひどく傷つき、絶望したが、そんな状況を独りで覆すことができるほど彼女は大人でもなかった。

 その学校にはハルと同じような境遇の生徒たちが集まっていた。そこは事情があって学校に通うことができなかった生徒たちを主に受け入れていたようで、ハルは学校寮で暮らすこととなった。

 縁もゆかりもない街。慣れない共同生活。それでもハルにとってその環境は以前まで身を置いていた学校よりも、そして生まれ育った家よりも幾分過ごしやすいものだった。学校に通えなかった生徒、つまり自分と似た者が周囲に多いということは、お互いにとって適切な距離感を保つことが出来る。教師にも同級生にも恵まれ、歪んだ感情で雁字搦めとなっていたハルの心は、少しずつ絆されていった。

 それに比例するように、ハルによって新しい人物や世界が創られる頻度は徐々に減っていった。

 ハルはノートの中ではなく、現実を見るようになった。

 

 ──やがて、この世界は停滞した。


 今、ここには何もない。いや、何も見えない。

 昼から夕暮れ。夕暮れから夜を迎えるのが当たり前であるように、燦々としていたこの空間はゆっくりと暗くなっていった。開かれなくなったノートに、光が差し込むことはない。この世界の光量は、ハルによってノートが開かれるかどうかに影響されるということに俺は今更ながら気がついた。もちろんそれに気がついたところで何もできないし、何もしない。

 明けない夜は、永遠とも感じるほどに続いた。

 今、目の前には暗闇だけが広がっている。しかし、この暗闇が本当に自分の目の前に存在しているものなのかどうか、確信が持てなかった。俺は目を閉じていて、ただ瞼の裏を見つめているのかもしれない。暗闇が辺りを包むようになってから、自分が目を開けているのか閉じているのか分からなくなるほどに長い時間が経っていた。周囲の様子は分からないが、俺だけではなくきっと他の登場人物たちも同じような状態となっているはずだ。

 

 何を見ることもなく、何を感じることもなく、ただ時が過ぎるのを、いつか終わりが訪れることを待つ。そうすることしかできない。そしてそれを受容するしかない。

 死を受け入れるというのは、こういう状態を指すのかもしれない。しかしそれ以前に、俺たちに死という概念はあるのだろうか。

 そんなことを考え始めた、その時だった。


 名前を呼ばれていないのに、勝手に目が開く。どうやらそれは俺だけではないようで、他の登場人物たちも同じように目を覚ましていた。

 ふいに眩しい光が瞳に流れ込み、瞳孔の奥がちかちかと瞬く。

 見上げると、大きな光が遠くに浮かんでいた。

 その光はこちらを覗き込んでいるかのように、この空間の真上に佇んでいる。まるで誘蛾灯に集まる虫のように、俺たちは無意識にその光の先へと視線を引き込まれていた。

 そして自然と、頭の中にハルの姿が浮かぶ。

 ハルは俺たちのことをただ見つめていた。その顔からはあどけなさというものが消えていて、俺が最後に見たときよりも彼女は随分と大人びていて──そして、ひどくつまらなさそうな表情をしていた。

 

 光が、赤く輝き始める。

 

 ハルがノートに火を付けた。そのことに気がついたとき初めに思ったのは、自分の名前がいかに皮肉であるかということだった。トワ。永遠と書いてトワだ。

 彼女が火を付けるために用いたのは、安っぽいライターだった。どこにでも売っていて、誰にでも手に入るような道具で彼女はノートを燃やしたようだった。

 細かくページを破り、ゴミ箱にでも捨ててしまえば、最後には燃えて灰になる。いや、ページを破らずにそのまま捨てたとしても同じことだ。どちらにせよ俺たちは焼かれ、灰となって消える。

 それにも関わらず。彼女は俺のことを──いや、俺たちのことを。そして自分が創り出した数々の世界を。自らの手で燃やすという手段を選んだのだ。


 まるで太陽が粉々に砕けてしまったかのように、その光から一斉に火が放たれた。

 静かに、そして無慈悲に。炎は空気を燃やし、辺りを包む。

 俺たちは恐怖や苦痛に悲鳴を上げることも、炎から逃れるようにのたうち回ることもしない。どうしてかは分かり切っている。そんな脚本を、台詞を、与えられていないからだ。皆、ただ虚ろな表情のまま何もない一点を見つめ、灰となるのを待っていた。俺も今は、何も見ていない。そして何も見たくなかった。


 自分の身体が燃えている感覚は、実に不愉快なものだった。

 単に温度としての熱さが不愉快というわけではなかった。俺の身体を覆っている炎は、過去の消却という信念を燃料として燃え上がっていた。羞恥と後悔の感情で身体の隅々まで炙られているかのような、執念深い熱さ。自分の身体の外側も内側も、その冷徹な熱で容赦なく蹂躙されていく。それがただひたすらに不愉快だった。

 目の前が徐々に赤くなっていく。これは火の色なのだろうか。それとも血の色なのだろうか。

 俺たちはいったい何のために生み出されたのだろう。結局のところその真意は彼女にしか分からないのだが、彼女に尋ねることは不可能だ。だから正しい答えが得られないと知っていても、自分で答えを出すしかなかった。

 ハルの手によって生み出された俺たちや世界が、彼女自身の救いになっていたとしてもそうでなかったとしても、どちらでもよかった。少なくとも俺にとってそんなことは重要ではなかった。

 ──きっと俺たちは、作り手の人格が形成されていく過程の産物なのではないだろうか。

 例えば、彫刻家が精巧な作品を創り上げるかのように。余分な部分を削ぎ落とし、欠落している部分を埋めていく。人間も同じだ。求められない、要らない部分を捨てる。求められる、必要な部分を手に入れようとする。そうすることで、現実を生きる人々は望ましい形象となっていく。

 それはきっと、現実では「成長」という言葉で呼ばれるのだろう。 

 そして俺たちを必要としなくなるということは、作者の人格が成熟したことを証明しているのかもしれない。

 勝手に生み出しておいて、用が済んだら切り捨てる。その行為を悪だとは思わない。善でもなければ悪でもない。きっとそれは、俺たちにとっての摂理だ。

 何かを創りたい、あるいはそこに逃げ込んでしまいたいという衝動や欲求によって俺たちのような登場人物や世界が、そして物語が生み出される。逆に言えば、何かを創りたいという欲求も、現実から逃げたいという衝動も不要になったときに俺たちもまた不要になり、それまでに生み出されたすべては塵となって消える。もしくは忘却され、初めから無かったことにされる。そこに俺たちの意思は介在しないし、そもそも俺たちに意思なんてものは存在しない。ノートの中の登場人物や世界は、作者の考えた通りにしか動かない。

 しかし、意思はなくとも感情はある。性格を与えられてしまった俺たちには、感情が。心というものがある。

 だからこそ無念なのだ。

 このようなつまらない結末を迎えてしまったことが。こんなにも呆気なくすべてを無かったことにされるのが。どうしようもないくらい、心に穴を開けている。

 

 視界が完全に、赤く染まった。

 

 俺たちはどこにでも存在している。


 誰かの頭の片隅に。引き出しの奥にしまわれたノートに。いつ作成されたのか分からないテキストファイルの中に。誰の目にも届くことなく沈んだ、インターネットという電子の海の底に。気まぐれに生み出された物語の中に。完結した物語の中に。始まることも、そして終わることも無くなってしまった物語の中に。


 俺たちはどこにでも存在している。


 不要だと切り捨てられた創造の中に。

 不毛だと切り捨てられた想像の中に。

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彼女のためのキャンパスノート 鹿島 コウヘイ @kou220

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