彼女のためのキャンパスノート

鹿島 コウヘイ

前編

 トワというのが俺の名前だった。

 トワ。男性。血液型はA型。目鼻立ちが整っているすっきりとした顔で、細身で、背が高い。何事にも動じないクールな性格。そのため周囲からは冷徹という印象を抱かれることが多いが、性根は優しい。そういった断片的な情報の集合が、俺という存在の根幹を成していた。


 俺がいったいどのようにして生まれたのか、俺は知らない。なぜなら、気がついたら生まれていたからだ。ただ、誰が俺を生み出したのかということは知っている。

 俺を生んだのはひとりの少女だった。現実に存在する、探せばどこにでもいるような、ごく普通の少女だ。

 ハル、というのが彼女の名前だった。

 

 トワ、と誰かに呼ばれた気がした。

 いや、本当に呼ばれたかどうかは分からない。その声の主も、トワという言葉の意味も俺は知らない。それなのに、なぜかその声は自分だけに向けられているように感じた。

 ゆっくりと目を開ける。

 辺りは明るいが、何もない。床も壁も天井も、すべてが白い。そもそもこの場所は部屋の中なのか、それすらも分からない。もしかするとここは室内ではなく外であり、俺が床だと思っているものは白く塗り潰された地面で、天井は白く塗り潰された空で、壁は白く塗り潰された風景なのかもしれない。

 そんな光景が目に入ったとき、ああ、俺は何もない空間に立っている、と他人事のように感じたことを覚えている。そこに動揺や混乱といったものは一切なかった。人間が直立するには二本の足が必要なことが当然であるように、俺が今ここに立っているのは当然のことであると、何の疑問もなく受け入れていた。

 そして突然、一冊のキャンパスノートが頭の中に浮かんだ。目立った特徴のないピンク色のノートの表紙には、控えめな丸文字で「キャラクターノート」と書かれていた。その瞬間、俺にはトワという名前が与えられていること、そしてこの空間はノートの中であることを理解した。

 ノートの中で、俺という存在は誕生した。

 俺は人の手によって生み出されたキャラクターだった。いわばここは作者によって物語が創られる場所で、俺はその物語の登場人物のひとりだ。

 

「トワ」とまた声がした。トワというのは俺に付けられた名前だから、誰かから呼ばれているということだ。繋がっていた上下の瞼を、ゆっくりと離していく。いつの間にか目を閉じていたようだった。

 見覚えのある白い色。ノートの中に広がっている、真っ白な空間。しかし今は、何もない空間ではなかった。

 目の前に、ひとりの少女が立っていた。

「私、ハル」

 そう彼女は名乗った。

 直感した。彼女こそが作者であることを。この真っ白な世界や、俺を生み出した張本人であることを。

 そしてハルは話し始めた。彼女自身のこと。彼女の家族のことや、同じ学校に通っている友人のこと。俺はそれを黙って聞いていた。だが、そうしていたのは自分の意思ではない。そうするべきだと感じたからだ。

 彼女が目の前に現れてから、自分の取るべき言動が、抗いようもない存在から強烈に刷り込まれているかのような、そんな感覚があった。それはいわば、脚本と言っていい。今、俺が発するべき言葉は何も与えられていない。だから沈黙しなければならない。それに従うことが俺にとっての全てであり、俺がここに居る理由だと、そう信奉させるだけに足る力のようなものが働いていた。

 その後の展開は些か不可解なものだった。脈絡なく登場する、ハルと似たような姿の登場人物たち。彼らとの噛み合わない会話。結末らしい結末を迎えることもなく、いつの間にかハルも、他の登場人物たちも消えていた。

 これがノートの中に創造された、ハルにとっての最初の物語であり、最初の世界だった。

 

 それからハルは気の向くままにいくつかの物語を創った。その度にノートには新しい世界や登場人物が書き留められていく。すると、ノートの中であるこの空間にはそれらが顕現する。まるで偶像に生命が吹き込まれていくように。

 そしてノートが開かれているときに限り、俺たちは外の世界を見ることができた。外の世界とは文字通り、この空間の外側に広がっている世界を指している。つまりはハルが生きている現実のことだ。

 ただ、外の世界を見ることができたといっても、実際に自分の目で見ているわけではない。思考の隙間に無理やり差し込まれているかのように、自然と頭に浮かんでくるのだ。ハルはあまり外にノートを持ち出すことをしなかったので、俺が見たほとんどの光景はハルの部屋と、そこにいる彼女の姿だった。

 ハルは現実で起きる出来事よりも、空想を好む少女だった。

 アニメやゲームに漫画、そして小説。ハルはそういった創作物の中にある世界に対して、ひたむきに心を躍らせることができるような、想像力に富んだ子どもだった。彼女もそのことを自覚しており、そんな自分をどこか好ましく思っているようだった。

 創作の世界に大きく影響を受けた人間が、自分も同じように世界を創りたいと考えるのは、きっとごく自然なことなのだろう。徐々にハルも自分だけの物語を空想し、それを形として表現することにのめり込んでいった。

 やがて、彼女はひとつの物語を創るためには、登場人物たちの設定や繰り広げられる会話、そしてその世界の構造や背景といった要素を組み込まなければならないことに気がついた。そのためには現実で知識を得る必要があることにも。だから彼女は多くのことを知ろうとした。

 ハルが得た知識は、ノートの中にいる俺たちにも同期される。例えば、ハルが鉛筆という物体を現実で知ったとする。彼女がその形状や用途を認識すると、俺たちも鉛筆とはどのようなものなのかを認識することができる。

 つまりハルが向こうの世界で多くのことを知れば知るほど──彼女自身の世界を広げれば広げるほど、ノートの中に創られる世界も精緻に、そして鮮明になっていく。

 

「トワ」とハルから呼ばれて目を開ける。

 目に飛び込んできたのは、不可思議で、そしてどこまでも純粋な世界だった。

 遥か上空に浮遊している大陸。陽を浴びて踊る草花。空を泳ぐ白鯨。火を纏い羽ばたく鳥。その世界には澱みや穢れがなかった。ハルが美しいと感じたもの、大切にしたいと思ったもの、本当に存在していて欲しいと願ったものがいっぱいに詰め込まれた、無垢な宝石箱のようだった。

 その世界で、俺は魔法使いだった。

 魔法の修行という目的で旅をしていた俺は偶然ハルと出会い、共に旅をすることとなった。ハルは冒険者で、どうやら「果て」と呼ばれる場所を目指しているらしい。俺と出会うまでも様々な仲間と出会いや別れを繰り返しながら、この世界を巡っているようだった。

 旅の途中、たまたま訪れた街で俺たちは困っている人々と出会う。彼らの話を聞くに、どうやら街の外れに棲息する竜に生活を脅かされているらしい。ハルと俺はその竜の討伐を依頼されたが、竜にも人を襲わざるを得ない理由があるのではないか、と彼女は考えていた。

 巨木が並んでいる広大な森林を抜け、その奥にある大きな洞窟に竜は潜んでいた。ハルは剣で、俺は魔法で竜と戦ったが、その竜は街の人々によって根城を脅かされていることを俺たちは知った。

 街の中で生きる人々と、自然の中で生きる竜。ハルがその架け橋のような役目を果たしたことにより、人間と竜は互いに理解を深め、種族の壁を越えた共存が可能となった。俺たちは困っていた街の人々を、そして竜を救った。

 やがて俺はひとり修行を続けるため、他の登場人物たちが今までそうしてきたようにハルと別れた。そして彼女はこの世界を巡る冒険を再開した。彼女はまたどこかで新しい仲間と出会い、ともにこの世界を旅する。これはそういう物語だからだ。

 俺の役割はそこで終わった。その後ハルがあの世界でどうなったのか、あの世界はどういう結末を迎えたのか、俺は知らない。

 

 目を開ける。それは夢から覚めたかのような感覚だった。

 先程まで広がっていた青空も、踏みしめていた大地も、全てが白くなっていた。どうやら何もない空間に戻ってきたようだ。

 ──いや、と思い直す。この場所を何もない空間と呼ぶのはもう正しくないのかもしれない。

 もはやここに居るのは俺だけではなく、俺と同じような姿をしている人物も居れば、犬や猫のような耳を生やした人物も居る。人間だけではない。現実には存在しない生物も、生物のように動く精密な機械も居る。

 彼らもすべてハルの生み出した登場人物たちだった。俺たちは手に取られることをじっと待っている人形のように、ただその場に佇んでいた。設定が与えられ、台詞が与えられ。ここではない別の世界に降り立つことになるその時まで、俺たちはここに居る。

 今にして思えば、俺たちはハルに期待のような感情を抱いていたのかもしれない。彼女が創る純粋な物語の数々と、それらの結末に。

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