第2話本文

 漫画の編集という仕事はまず初めに目に留まる作品を見つけることから始まる。その方法はいくつかあり、まずはコンテスト、次にSNS、そして最後に持ち込みだ。

 俺は、この持ち込みが妙にしっくり来たのでここ数年はもっぱらこの持ち込みを中心に働いていた。


「次は虎腔大牙、虎が好きなのか」


 今日は土曜日、持ち込みをする人は仕事持ちも少なくない。必然的にこの曜日は予約でいっぱいになる。今日も十数人との持ち込みを終えて、ようやく最後だ。


「受賞歴はなし、出版歴もなし、ふむ……」


 履歴書を確認していると、控えめにドアを叩く音がした。いつも通り入室を促す。


「失礼します……」


 入ってきたのは制服に身を包んだ女子高生だった。次に目を引くのが彼女の容姿、ペンキをぶちまけたような真っピンクの髪の毛に、毒々しい紫色のカラコンで、おおよそまともな感覚で人生を歩んできた者の風貌では無い。しかし更に引っかかったのが彼女自身がこの風貌を好きに思ってなさそうな様子だったことだ。


「ペンネーム虎腔大牙です。本日はよろしくお願いいたします」


 ふわり、花弁を散らすようにお辞儀をしてから、頼りさげに着席する。それからすぐバッグから原稿を取り出して渡してきた。


「手書きか」

「えっ、ダメでしたか!?」


 あっという間に少女は青ざめる。そんなことは無いので安心して欲しいと返せば、ほっと胸をなで下ろした。

(にしても珍しい)

 今時の若い子が手書きの原稿用紙とは。珍しいと言えば歳も格好にしてはビジネスマナーがしっかりしている。多少緊張しているようたが、なかなか堂に入っていた。そんなことを頭の片隅に置きながら原稿を読んでみて……、目を疑った。


 俺はこの作品を知っている。


 冒頭で使う言葉選び、行間や空白の使い方や物語の展開。そして何よりその作風、どれを取っても己の直感が正しいと証明する。

 軽く読むだけのはずだったが、つい小一時間ほど熟読してしまう。見事に退勤予定を過ぎていた。不味い待たせてしまった。慌てて正面を見やると幸い、少女は船をこぎつつ夢の中だ。月の光を浴び眠る彼女は先程の力強い佇まいとは真逆の瞬きすれば何処かに消えてしまいそうな雰囲気を湛えていた。


「んあっ……?」


 こちらの気配に気づいたのか目を開く。すぐ居眠りしていたことに頬を赤らめたが、涎が垂れていることに気づくと顔全体がいちごのように真っ赤になる。

 今思えば、我を失っていたのだろう。本来は読み入ってしまったことへの謝罪や、居眠りを咎めない旨を伝えるべきだった。しかしこの時は俺はそんなことすら浮かばず、訊いていたのだ。


「この作風、もしや我が友、李徴子ではないか?」


 と。


 ○


 本当に迂闊だったと思っている。

 あの問いかけの直後、目の前の少女(推定李徴)は、わなわな口を開いたかと思えば「なーーーーーっ!」と叫んで逃げてしまった。まさに脱兎の如し。


「いや兎では無いか」


 散らかってしまった面談室を放っとくわけにもいかず、いそいそと片付ける。しかしあの李徴が現代置いても創作を続けているとは嬉しい事この上ない。


「神よ、俺に第二の人生を歩ませてくれたことに感謝する」


 さらり転生の時を思い出す。不慮の一件で死んだ私は、神より「その才覚を活かしきれずに死すのはあまりにも勿体ない」と恐れ多いことを言われ、この時代に転生を果たした。正直、己自身に神が情けをかけるほどの才覚があるとは到底思えないが、これも何かの縁と伸び伸び今世を楽しませてもらっている。

 そこに盟友との再会だ。神も粋な計らいをしてくれる。


「ん?」


 あらかた片付け終え、ふと気づく。使い込まれたGペンが落ちていた。もちろん李徴のものだろう。


「漫画家の命と呼べるGペンを落としてしまっては、さぞ困るだろうな」


 李徴の履歴書を見る。ここから一時間ほどの町に住んでいるらしい。俺は帰り支度を整えるとGペンを返すために会社を出た。


 〇


 最寄り駅を降りて少し歩くと真新しい小さなマンションが見えてきた。管理人に事情を説明して名刺を渡すと二つ返事で通してくださる。そして程なく李徴の部屋についた。迷わずインターホンを押す。

 奥からパタパタと足音がして、受話器を取る音がした。


「どちら様ですか?」

「李徴か、Gペンを落としたので返しに来た」

「申し訳ありませんが私は李徴ではありません。どうかお引き取りください」


 と、言われてしまう。ここで俺は一計を案じることにした。


「ならせめてGペンは受け取って欲しい」

「分かりました。今は手を離せないので配達BOXに入れてください」

「分かった」


 BOXにGペンを入れると、インターホンに見えないようその場から離れる。しばらくすると控えめに扉が開き、李徴が顔を出す。

 失礼ながらちょろいなと思った。


「危ないところだったぁ」


 李徴はこちらに気づくことなく宅配BOXの蓋を開ける。Gペンを取り出すと大切そうに抱え込んでいた。やはり渡してよかった。だが、無理な姿勢で隠れていたのが悪かったのだろう。立ち上がろうとしたとき、痺れる足に対処出来ず見事にぶっ倒れた。


「えっ?」


 物音に気づき李徴が振り向く。目と目が合った。いかん。急いで駆けたが流石に間に合わず、李徴は家に戻ってドアを固く閉ざしてしまう。

 無理を承知で問い掛ける。


「李徴よ」


 扉の向こうから小さな息遣いが聴こえる。しかし返事は返ってない。俺はそのまま続けた。


「お前が今世も筆をとったことを嬉しく思っている。出来れば力になりたいと思っていたのだが、どうやらお前はそれを望んでいないようだ」


 奥でなにを落とす音がした。俺は構わず続けた。


「昔からお前はそうだったな。すまん、気が付かなくて悪かった。ここに名刺を置いていく、もし助けが必要なら連絡をくれ」


 そう言い、俺は立ち上がる。夜も更けている、これ以上の長居は李徴にも悪かろう。


「最後に、やはりお前の作品は素晴らしいぞ。格調は高く、オリジナリティにも優れ、ちょっと聞いただけで、やはりお前の才能が並みではないと感じさせるものばかりだった。そうだな、具体的には――」


 その時、唐突にドアが開いた。李徴だ。怒っているのか喜んでいるのか分からない顔をしてこちらを見ている。おそらく前者だろう、彼女はいつも怒るとき耳まで真っ赤になる。


「李徴?」


 正直、呟き終えたら帰るつもりだったので流石に驚く。李徴も「お前帰るつもりだったの?」と言いたげに目を見開いていた。

 しばらく互いに沈黙を貫く。だが程なく李徴の口が小さく開いた。


「あのさぁ。人の家の前……公衆の面前で高らかに作品の講評するバカがいる?」

「その嘲り、やはり我が友、李徴か」

「それはもういいから。ひとまず入って、我が友、袁傪」


 李徴の手招きに促され、俺は彼女の居に上がることになった。


 ○


 部屋に入ればその全景が一望できた。


「一人暮らしなのか」

「色々ね……、まあ適当に座って。大したもてなしも出来ないけど」

「いや構わん、それよりも久々の友との邂逅だ。俺としたことが食材を買い込んでしまってな、どうか共に食べてはくれないか?」


 俺が買い物袋を取り出すと李徴は血相を変えた。


「なんだいその袋のサイズは!? サンタクロースみたいじゃないか!?」


 指摘され、袋を見てみるとなるほど確かにサンタクロースだ。大袋いっぱいに食材を敷き詰めたレジ袋はまさにかの赤服紳士が持つ白い袋そのものだった。前世の李徴の好みは知っていたが、果たして今世も同じかは分からない、なので色々と見繕ってみたがまさかここまで大きくなるとは。

 だがそれはさておき。


「流石だぞ李徴、例えが上手い」

「そ、そうか。そう言われるとこそばゆい……って違う! 仮に私が迎え入れなかったらどうするつもりだったのだ!」

「……………………まあ、一人で食うさ」

「無策だったんだな。迎え入れて良かったよ」


 そう言いつつ、呆れつつも満更でもない顔で笑う姿を見て、来てよかったと思うのだった。


 〇


「お前いったいどれだけ買ってきて……」

「今の好みが分からなかったんで、和洋中すべてを用意したんだが」

「それでも限度というものが……、なっA5和牛……」

「黒豚もあるぞ」

「黒豚も!?」

「……? 肉は嫌いなら魚もあるぞ、鯛にヒラメにウニイクラとか」

「う、お……」

「果物がいいか?」

「いや、ちょっといいかな」

 李徴は袋の中をまじまじと見つめながらなにかを探しているようだった。時々出てくる食材にびっくりしながらも二、三分ほど中身を出したり戻したり……結局すべてを袋に戻して一言。


「……マグロはどこだ?」

「マグロは旬じゃなかったから買ってない」

「えっ」

「えっ」


 ……長い長い沈黙が辺りを漂った。

 李徴はフレーメン反応のように口をあんぐり開けてこっちを見る。その表情は冷凍マグロのこどく固まっていてずっと……、ずっとこちらを見つめ続けていた。

 それが数分ほど続いただろうか。李徴はゆっくり袋に視線を戻すと消え入るような声で言った。


「…………………………そっか」

「だ、大丈夫か?」

「大丈夫、気になどしてないさ。こんなに沢山、本当にありがとう」

「そ、そうか」

「…………………………まぐろ(小声)」

「り、李徴?」

「…………まぐろ(涙声)」

「(凄まじく気にしてる……)」


 次はマグロを必ず用意しようと思いつつ、買ってきた惣菜を念の為に買ってきた電子レンジで温めて食卓に置く。一人用の卓だったこともあり、買ってきたものが半分載る前にいっぱいいっぱいになった。


「して李徴よ、今世は偽らずに済んでいるのだな」

「あぁまぁ……、偽る必要もないから。いい世の中になったよ」


 砕けた口調で李徴は言う。

 前世の李徴は性別を偽って仕事をしていた。家元があまり裕福ではなく、女だったが年長の李徴は自身を男だと偽り、仕事する必要があったのだ。

 あの時の案じていた妻子というのも彼女の弟妹の暗喩だ。


「│弟妹みんなは元気だった?」

「うむ、しっかり定職に就かせておいた。国が倒れぬ限り安泰だろう」

「そっか……ありがとう袁傪。って、本当はこのことを先に訊かないといけないのにね」

「あまり気にすることでもないと思うぞ」


 その後軽い会話をいくつか繋げたが、だんだん目の前の李徴がさっきから何度も食べたそうに惣菜を見つめては自制するように目を逸らしているので、積もる話もあるが先に食べることにした。

 二人無言で食事に集中。

 

(ふむ……)


 食べ始めてしばらく。

 先に満腹になった俺は、なんとなく部屋を見渡す。電子レンジがないことから察していたが、必要最低限の日用品しか置いていない。虎生が長いから必然的にミニマリストとなったのか。

 空き皿を重ねてゴミ箱へ持っていく。開いてみるとモヤシの袋が沢山入っていた。


(モヤシも好きなのか。これは抜かったな)


 今度はマグロモヤシ料理を用意しよう。そう思い、食卓へ戻ると李徴も食べ終えたようで、いそいそと空になった皿を片付けていた。

 ふと座っていたから見えなかった勉強机が目に入る。


 ――――違和感。


 俺が戻ってきたことに気づいた李徴はいくからか朗らかになった笑顔を向けてくる。


「麦茶でいいか?」

「あぁ助かる」


 麦茶に口をつけほっと一息つく李徴を見て、そういえばと持ち込みの話を切り出すことにした。


「遅れてしまったが持ち込みの件についてだが」

「えっ、あ、そうだった……。うん、そうだね」


 すると李徴はまた神妙な顔に戻り、こくりと頷いた。


「友という色眼鏡は無しだよ。前説も世辞もいらない、一言……私の作品は連載に至るかだけ教えてほしい」

「それだけでいいのか」

「あぁ」


 その表情は李徴が詩人として進むか否かを悩んでいた時に似ていた。あの時の俺は詩に関しては素人でかなりいい加減なことを言ってしまったと自覚している。

 だが今は違う。しっかり経験を積み、ある程度モノを言えるように準備してきた。俺は李徴の意図を汲み取り、至極一言、李徴が求める答えのためだけに口を開いた。


「無理だ」


 李徴の眉間に皺がよる。

 俺は歯を食いしばった。

 李徴は自分のプライドに絶対の自信を持っている。それが否定されればかなり取り乱すことも知っている。

 李徴が詩人として大成できなかった理由は、そういうところも起因していた。

 だからこそ言わねばならない。一発くらい殴られた後、しっかり説明しよう。今度こそ李徴が本当の絶望に落ちていかないために。

 しかし俺の思いとは裏腹に李徴の皺はすぅと消える、まるで初めから無かったかのように。そして――。


「はっ」


 短く声を吐くと、ぎこちない笑顔を見せた。


「そっか……。いや、そうか。やっぱり届かないか。ありがとう袁傪、お前からびしっと言ってもらえると助かるよ」


 ――――違和感


「お、怒らないのか?」

「なにを怒る必要がある。お前が嘘をつくわけもない。大手出版社で編集を勤めているお前が本心で言ったんだ、そこに異議を唱える理由などないさ」


 李徴はがりがりと強めに頭をかくと、酒を飲むように麦茶を煽った。そうして時計を見て、言った。


「すまない、終電はもう間に合いそうにないね。来客用の布団を出すから今日は泊まっていけ」


 まるで別人だ。俺の知っている李徴なら、無理と言われれば激怒し、自分なりに反省点を模索する奴だった。時間どころか、周りすら一切気にせずにがむしゃらに進もうとする。

 しかし目の前の少女はまるで大人になったと言わんばかりに愛想笑いをして、こちらの時間を優先しようとしている。


(成長……したのか?)


 ひんやりとした雰囲気に押されたことと、半ば混乱していることもあり、俺は何も考えられず眠ってしまった。


 ○


 玄関のドアが開く音がして俺は起きる。目を向けると李徴が玄関先で誰かと話していた。咄嗟に壁の陰に隠れて聞き耳を立てる。

 相手は割と親しい仲のようだが、李徴は至極丁寧な言葉を使っていた。


「こちら金月大賞の結果です」

「今回も一次すら通らなかったのですね……」

「お嬢様、気を強く持ってください」

「いいえ、これで諦めがつきました。私が漫画を描くことは、もうありません」

「そうですか……。お嬢様が決めたのでしたら、僕は何も言いません。今までお疲れ様です」

「えぇ、ありがとう猫山。貴方のおかげでここまでやりきることが出来ました」

 

 しばらくしてドアが閉まり、俯く李徴と目があった。

 李徴は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐ穏やかな表情に切り替わる。


「聞かれていたか」

「すまん」

「謝ることはない。惨めすぎて笑えもしないだろ」


 意図は理解出来たから、否定したかった。しかしそうできるほどの事情を理解していなかった。


「前世の私は、詩人として世に出ることはできても大成することは出来なかった。だが今は世に出ることすら出来なかった」


 ぽつりぽつり。言葉を零しながら、李徴は引き出しから分厚い封筒を取り出した。


「百以上のコンテストに出品した。でもただの一度も一次選考すら突破できなかったよ」

 

 上から下まで様々なコンテストの選考結果。その全てが落選と書いてあった。ありえない、俺は思わずそれに読み入る。

 李徴は続けた。


「初めの頃はまだ楽しかったし、受賞する夢も見た。でも今はそんな落選する夢すら見ない。気づいたんだ、私は凡人だって。前世のころはそれが認められず虎に成り果ててしまったけれど、今はもうそんなことも起きないだろうね」


 ぽつりぽつり、音がした。

 あの時と同じだ。草むらを隔て、彼女が語るとき、密かに聞こえていた雫の音色。あの時はもしかすると涎やも知れぬと勘繰っていたが、その邪推もここまでだ。

(やはり泣いていたのだな)

 あの時も、自分に失望して……。


「さて袁傪、もう帰れ。せっかくの日曜日が台無しだ。そしてもうここには来ないでくれ。これ以上……お前に醜い姿を見せたくない」


 そう言い切り、李徴は喉を震わせながら息をついた。それが脳裏に浮かぶ草葉の別れと酷似した。


 ――ずっと悩んでいた。


 あの時の俺は彼女の意思を尊重しようとそのまま場を去った。でもその後の顛末を思い出す度に、あの選択は合っていたのかと自問自答していた。

 死の間際、俺は自分の判断を誤りだと悟った。それからずっと、どうすればよかったか考えてきた。


(神よ、感謝する……!)


 ようやくその時間が報わせる時が来たのだ。俺は真っ赤に目を潤ませる李徴に向かって言った。


「李徴よ、一つ訊きたい。お前これを何年で描いた?」

「えっ、昨日で五年目だけど……」


 読み切りの基本ページ数は五十ページ。それをたった五年で百以上作った。


「しばらくは暇か?」

「暇だよ……なんでいきなり」

「……分かった。この通知と持ち込み原稿、借りるぞ」

「はっ?」


 俺は落選通知の束と今回の持ち込みの原稿を持つとおもむろに立ち上がった。

 しかし、なにかに気づいた李徴が出口を阻むように立ち塞がる。


「待て、袁傪。お前に何をしようとしているんだ」

「……少し待っていろ。必ず戻ってくる」

「聞こえなかったのか袁傪。もう来ないでくれと言ったんだ私は」


 李徴の語気が強くなる。


「情けをかけるなよ、元々諦めていたんだ、昨日の持ち込みだって、面と向かって無理だと言われれば踏ん切りがつくから来たんだ、だからもういいんだ……っ」

「いいわけないだろう」

「いいんだと言っている!」


 李徴の叫びが部屋に響いた。

 その瞳はまるで威嚇するように、その場から立ち去れと言わんばかりに光り続ける。しかし目尻からは堪えきれなかった涙が大河のように流れていた。


「もうやめてくれ……っ……、これ以上情けをかけるのは……っ、自分が惨めになるんだッ!」


 堰を切ったように李徴は泣き出した。叫びにも似た泣声と大粒の涙がとめどなく溢れる。


「だがら……っ、それをっ、返せぇぇっ!!」


 李徴は原稿を取り返そうと俺の手を握った。たがその力はあまりにも頼りなく、むしろ涙の熱だけが伝わってくる。

 俺はゆっくり李徴の手を握り、しっかり彼女の目を見て言った。


「俺が情けをかけると思うか?」


 李徴は涙でぐちゃぐちゃの顔を縦に振り乱して答える。


「がげる゛ぅぅぅう!!!」

「……うん、そうだな。割とかけるな俺は」


 もちろんそんなつもりは毛頭ない。


「言い方を変えよう。俺は相手の意思に反してまで情けをかける男か?」

「……ぞれはな゛いぃっ」

「なら今から俺がお前を可哀想に思って情けをかける訳じゃないのも分かるな」

「……ゔんっ」

「少し気になることがあるんだ。だからこれを預からせてくれ。そして俺が戻ってくるまで待っていてくれ」

「わ゛、がった」


 俺は李徴をその場に座らせると改めて落選通知の用紙を確認した。やはりありえない、他社ならともかくウチはわざわざ一次落選を通知したりはしない。そんなことしてたら毎年数万の落選通知を送ることになる。ついでに封筒も拝借して、最後に原稿を丁寧にファイルへ保管する。

 そうしているうちに李徴も落ち着きを取り戻していた。いくらか腫れた目元を手の甲で器用に擦っている。なるほど猫の手か。


「みっともないところを見せてしまったね」

「前にもあったことだ気にするな」

「そ、そうだったね」


 李徴はまた俯いてしまった。耳が赤いところからまだ感情が収まっていないのだろう。だが急場は脱した。これであの時のようなことにはならないはず。


「それで私はどのくらい待てばいい?」

「一ヶ月……、いや一週間でいい。それでしっぽを掴む」

「しっぽ? 済まないが私にも詳しく教えてくれないか?」

「いや、それは出来ない。まだ憶測の範囲を出ていないんだ。無闇にお前を混乱させたくない」

「そうか、お前が言うならそうなんだろうな」

「済まない」

「謝ることはない。なら私は何をして待っていたらいい?」

「しっかり食事をとって……。そうだな、一番の自信作の構想でも練ってくれ」

「分かった」

「あと名刺を渡しておく。何かあったら連絡をくれ」


 そうして俺と李徴は再会を誓い、別れた。


 ○


 私は、袁傪から渡された名刺をしばらくじっと見つめていた。


「夢、じゃないんだね」


 あの後、あんなことをしてしまったのに、君はまだ私のことを「友」と呼んでくれるんだね。


 ♠♡♢♣♤♥♦♧


 僕の名前は猫山ジン。大企業、春原グループの第二秘書をしている。しかし最近はもっぱら一族の徒花と呼ばれる春原徴子の世話をさせられていた。このままでは出世ルートから外れてしまう。

 しかしこんなところで終わる僕では無い。

 彼女に無関心な両親から対応を一任されていることを利用して、事はまんまとこちらの思いどおりに進んでいる。


「もう一ヶ月はもたないだろうな」


 出世するために同期を蹴落としてきた経験が伝える。春原徴子は社会的に孤立し、唯一の拠り所であった落書きも僕の巧妙な策略によって完全に断ち切った。あとはもう一押しすればフィニッシュだ。

 いつもは憂鬱な週一の様子伺いだったが、心做しか足元が軽やか、軽やか〜。勢い余ってステップを踏んでしまいそうだ。

 いつものように陰気臭いドアベルを押して、表情を整える。


「お嬢様、猫山でございます」


 そう言ってやればすぐにおどおどした足音が――ドタドタドタドタ!!!

 

「うおっなんだ!?」


 身構えようとしたがそれよりも早くドアが開く。そこには小柄で内向的な雰囲気を漂わせた女……ではなく。


「猫山ジンさんですね、貴方に逮捕状がでています」


 ムキムキの警察官だった。


 〇


 ファンファンファン……


 耳に響くサイレンを見送り、大きく息を吐いた。


「これで一件落着だな」


 猫山ジンは李徴を自殺させようとしていた。

 敢えて通信制の高校に通わせ、社会的な繋がりを断ち、唯一生き甲斐だった創作活動は協力的な姿勢を見せながらコンテストの出品手続きを行わず自作した落選通知を李徴に渡し続けた。


「まさか猫山が…… 」

「孤立無援の地に放り込まれたんだ、見知らぬ人に助けを求めるほうが非現実的だ」

「またお前に助けられてしまったね」


 李徴は顔を持ち上げて、ゆっくり嘆息し始めた。一度、二度、三度と、瞬く間に変容した現実を受け入れるように呼吸を整えていく。

 そして李徴は引き出しを開いて、分厚い原稿を取り出した。


「――さて、お前に言われた通り自信作の構想を考えてみたよ」


 読んでみてくれ、と屈託もなく笑う。

 その姿からは紛れもなく、天才のかおりがした。


「流石は李徴だ」


 俺はその原稿を軽く読む。

 やはり格調は高く、オリジナリティにも優れ、僅かに読んだだけで、作者の才能が並みではない、と感じさせるものばかりだ。しかし、今のままでは、作品として一流になるのには、どこか……非常に微妙な点で、足りないところがある。

 だが今はそれでいい。


(だから俺は今まで磨いてきたのだ)


 李徴を今度こそ救う為に。


「李徴よ、俺を担当にしてくれ」

「……えっ?」


 俺の出版社には一年に一人、個人の権限で有望な漫画家の卵の担当になるというルールがある。今まではあまり乗り気ではなかったが、今が使い所だ。

 その旨を伝えると、李徴は今世の邂逅と同じ「なーーーーーーっ!!」という叫びの後、ひっくり返ってしまった。


 ※その後、李徴が借りていた部屋が猫山名義だったため追い出され、袁傪と同居します。


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②この作風、もしや我が友、李徴子ではないか? 繹尾ぴえん @mazemazekaresannsui

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