第2章

禁書の棚(1)

 欠け落ちた記憶を取り戻す方法はあるのだろうか。

 ジェイドに抱かれた夜、記憶の隙間まで埋め尽くすような快楽の中でリルジェが感じたのは、妙な欠落感だった。

 知っているはずなのに知らない。あったはずなのにない。

 ジェイドに対する「なにか」が、足りない。確かに満たされたからだとは裏腹に、心だけ置き去りになって、身体と心とが乖離してしまったようだった──。


 朝。王子と下男に戻った二人は、いつもの通りに日常を始めた。ジェイドは尖塔に住む父王の元へ。そしてリルジェは──。

 母が最低限の読み書きを教えていてくれて助かった、と今日ほど感じたことはない。王宮は禁帯出の古書庫に足を踏み入れたリルジェは、「呪いによって魂が欠けた」という前例を探し回っていた。しかし、そんなことが書かれた本はどこにもない。からだった。リルジェはさらに、書架の上に積まれている文献の束を見上げた。ここら一帯は、もはや本ですらなく、ただ無造作に綴じられた束だ。

「ここになかったらもうどこにも当てなんかないよな……」

 リルジェが脚立を使って高い場所にある文献を漁っていると、脚立ががたがたとぐらついた。重たい文献の入った箱を抱えたまま、とっさに手癖で魔法を使おうと思ったが、「妙なためらい」がリルジェの判断を鈍らせた。まただ――人前で魔法を使ってはならない!

「おっと、あぶない」

 その時ちょうど、リルジェの背を支えた手があった。糸のような魔術がリルジェの持っていた重たい箱を支える。

魔術師マギ殿、お怪我は」

「おかげさまで、ありません。あと、その呼び名はお控えください、宰相様」

宰相イザックはにっこりと笑った。

「以前も申し上げましたが、我がトビア家の家訓は――」

「いい、いいです。そういうのはいいですから。わたしは一介の下男にすぎません」

 リルジェはじっとりとイザックを見た。脚立の上からだと、目線が同じだった。

「簡素な糸の魔術式しか使えぬ宰相と、稀代の魔術師マギ・アウローラ殿では、雲泥の差がございますよ」

 リルジェは黙った。そして口調を改め、イザックを見据えた。

「お前は、どうして俺が魔術を使えることを知ってる」

「覚えていらっしゃらない。ああ。魂が欠けたというのは本当だったのですね」

 大げさに嘆いて見せたイザックは、糸の魔術式をほどき、リルジェの腕から重たい箱を取り上げると、床に置いた。それから恭しく手を伸べて、リルジェをいざなった。

「覚えていらっしゃらないでしょうが──」


〜〜〜


「殿下が15歳の時です、魔法の訓練をつけて下すった兄君たちにも見放されてしまった殿下は、フラフラと街に彷徨い出ることになりました。わたくしは命じられてその後を追いかけたのです。一体どこにいくのだろう……わたくしに殿下の考えはわかりませんでした。

 どこへ行くかと思えば貧民街。殿下は貧民街の魔術師に教えを乞うために城を飛び出したようでして。あれは冬のさなかでございましたね。……あなたは薄衣なのに寒さをものともせず立っていらした。我々は冬風で凍えそうなのにも関わらず──あの時の貴方様はまるで神か、始祖か……」

「つまり、ジェイドが、俺に魔術を教えてくれと頼みにきた、その場にお前が居合わせた?」

「ご名答です」

「ならそう言えよ」

 リルジェは半目で胡散臭い宰相を見上げた。

「余計な言葉が多すぎる。簡潔に言え」

「口が立たねば宰相など務まりませぬゆえ。時には刃を羽毛で包むような真似もしなければなりませんからね、私も苦労しているんですよ」

「お前は口が立ってるんじゃなくて無駄な言葉が多いだけだ」

 リルジェは失われた記憶について整理しようとした。王子ジェイドとの関係はそこから始まっているらしい。貧民街にいたはずのリルジェが、ジェイドに魔法の稽古をつける──そこまでの筋道がたった。

「なるほどな」

 なぜかニコニコと笑みを絶やさないイザックを見上げて、リルジェは尋ねた。

「……で。そのお忙しいはずの宰相様は、なぜこちらにいらしたのですか?」

「貴方様と同じ理由でございますよ」

「同じ?」

「少し調べ物を」

 イザックは両手に抱えた文献や史料のなかから、一枚の紙を広げてみせた。魔法のインクで記されたそれは、広げるやいなやじわじわとその本来の姿をあらわす。

「なんだこれは」

リルジェのすなおな感想に、イザックは微笑みひとつで返した。

「家系図です」




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マギ・アウローラ 〜剣の王と白皙の寵臣〜 紫陽_凛 @syw_rin

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