蝶と王家(3)
塔を降りる頃には陽が傾いていた。螺旋階段の窓から中庭を覗くと、ジェイドはまだ剣を振るっていた。さっきまでと違っていたのは、周りを衛兵が取り囲んでおり、ジェイドは真剣から模造剣に持ち替えて、その一人一人に稽古をつけている、ということだった。ひときわ大柄なジェイドに比べて小柄な衛兵たちは、果敢にも模造剣や槍を持ってジェイドにかかっていく。
「はっ!」
切り結び、弾き返し、いなし、衛兵の一人の首筋に剣先を向け──ジェイドは声を上げる。
「次!交代!かかってこい!」
暗くなりゆく庭で繰り広げられる戦いを横目に、リルジェは離宮の部屋を思い浮かべた。あの部屋のつくり──衣裳部屋のありか──その中の上掛け。ある、確かあったはずだ。こうした細々したことはよく覚えているのに、その部屋の主人のことだけを全く覚えていないなんて。
螺旋階段の手すりに腰掛け、高速で滑り降りながら、リルジェは主人のあたたかい上掛けを思い描いた。
『ここへ』
──転移魔法。
瞬間、手元へ大男のために仕立てられた服が出現する。リルジェはそれを腕に引っ掛け、手すりを滑り終えると、跳ねるように中庭に走りでた。
「次、」
何人もの衛兵を相手どって、第三王子の肌は汗に濡れていた。上気する肌を汗が伝う。中庭には誰かの魔力で明かりが灯されて明るいが、すっかり陽も落ちて、夜が空を覆っていた。
「次、」
「ジェイド殿下。もう誰もいません」
下男の声で、ジェイドははたと我に返った。くたびれた衛兵が何人も座り込み、稽古の順番を待つものは誰もいない──タイミングをはかったように、リルジェがタオルを差し出した。
「お風邪を召されますよ」
「リル、ジェ……」
「こちらをお召しになって、お部屋にお戻りください。本日のご夕食はいかがなさいます。すぐ召し上がりますか」
「あ、ああ……あの、リルジェ?」
ガウンを着せ掛けられて、一瞬リルジェの記憶が戻ったのかと期待する。
「……いや、なんでもない。お前の言う通りだ。稽古はこれまでにしよう。夕食は……まだいい」
リルジェを従えて離宮へ向かう途中、リルジェがおもむろに告げた。
「本日、オルガノ王様にお会いしました」
「父上に?」
「ええ。貴方のことを支えるようにと、仰せつかりました。“魔術師”として……」
「……」
ジェイドの表情が暗くなる。
「国王としての俺に期待していらっしゃらないのだろう」
「いいえ、そのようなことは全く」
リルジェはさらりと否定した。
「最悪の事態を想定して悲観なさるのは殿下の悪い癖です」
「……辛辣だな」
まるで本当に記憶が戻ったかのような態度。
「王様は殿下のことを心配なさっておいでです。ですから私の方からお願いをしました」
「何を?」
「これまで通りの関係でいさせて欲しいと」
離宮の木の扉をくぐり、警備の衛兵に礼をする。リルジェが部屋に魔力を灯す。
その瞬間、ジェイドは壁際に追い詰められた。低い位置から、睫毛に縁取られた美しい目が、ジェイドを見上げる。
「……だから、教えろ」
ジェイドの中で、何かが音を立てた。魔術印の跡が疼くような気がした。心臓が高鳴っただけだったかもしれない。
「なに、を?」
「お前のことを教えろ。全て。全部」
リルジェはジェイドの胸ぐらを掴んだ。
「俺は俺の欠けた部分を全て取り戻す。そしてお前を王にする。誰にも害させない。魔術師として。お前の下男として──」
ジェイドはリルジェの瞳に呑まれながら、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、理性を総動員させて、リルジェの肩を掴む。
「……本当に全て教えてもいいのか?」
「ああ」
「本当に?」
「そうだ」
「全て教えても、いいのか」
「もちろん」
「言ったからな」
リルジェのおとがいに指を添えて、顔を上げさせる。挑戦的な瞳が驚いたように見開かれ──その先を、ジェイドは見なかった。合わせた唇はすこし冷たい。
「殿下、……ジェイド、お前」
「後悔するなよ」
リルジェの柔い唇に指で触れながら、ジェイドは整えられたベッドに目を向けた。
「シャワーを浴びてくる。待っていろ」
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