蝶と王家(2)

 王宮内は黒一色だった。使用人も誰も彼も喪服のような服を着ている。リルジェはこっそり自分の服の色を黒に変えると、紫色の蝶を見失わないように早足で進んでいく。

 喪に服す大広間を抜け、階段を登り、長い廊下を走り抜ける。何人もの使用人とすれ違ったけれど、誰もがリルジェを不審がらないところを見ると、リルジェがここにいるのは「自然」らしい。会釈すらされた。リルジェは持ち前の愛嬌でそれをさらりと受け止めると、紫色の蝶を目で追った。招かれているのはリルジェだけなのか、他のものに光る蝶は見えていないらしい。

 蝶は、さらに階段を登れと促している。リルジェはため息をついて、それに従った。

 螺旋階段が続く。蝶は真上に飛翔していく。輝く蝶の鱗粉がふわふわと落ちてくる。リルジェは律儀にそれを追いかけながら階段を駆け上っていたが、半ばまで来てからとうとう音をあげた。

「待てよ、追いつけない!」

『ならば心のまま飛ぶがいい、魔術師よ』

 蝶が言った。女の声だった。

「でも、」

 そこでリルジェは気づいた。なぜ「魔法を使えることを隠していた」のだろう? 使ってもよかったのに。無意識だった。固く「隠さなければならない」と思い込んでいた。

 なぜ?

『この塔に住まう者は皆お前を知っている。躊躇う必要はない』

「……信じても良いのか」

『国祖アウローラの名にかけて』

 そこまで言うのなら、やってやるしかない。リルジェは手すりから身を乗り出すと、そのまま飛んだ。魔力を使って、大地の法則から逃れる──のに手間取ったのは、気のせいではないだろう。

「なんか、鈍ったな……」

 ちょっと前まで余裕だったのに。「貧民街の魔術師」として飛び回っていたはずなのに、この衰えはなんだ?

『……お前は俺の先生だった。魔法の先生だ。十年間、俺のために魔術を教えようとしてくれていた』

ジェイドの言葉が蘇る。嘘だと疑ったわけではなかったが、こうして実際に自分の身体が鈍ったのをみると現実味を帯びてくる。

 塔の最上階に降り立ったリルジェの前に、扉は音もなく開かれた。蝶は中へ吸い込まれていった。


「ようこそ、若き魔術師マギ

 蝶は若い女の声で告げた。南方の香が焚きしめられた室内には、二人の人間がいた。

 片方は老いた女魔術師。そしてもう片方は。

「オルガノ王……!?」

「来たか、リルジェ。招きに応じてくれて感謝する」

 リルジェは慌てて跪いたが、王はそれを手で制した。

「魔術師の会話に上の下もない。楽にするといい」

「は、はい」

 リルジェは天蓋のベッドに横たわる王を見、その次に隣の安楽椅子に座っている老婆を見た。

「王、彼女は……?」

 姿は腰の曲がった白髪の婆だ。魔術師の正装を纏い、顔は目深まで被ったフードのためによく見えない。

「国随一の占い師。名はない」

「忘れてしまったのですよ」と老婆は鳥のような美しい声で言った。

「昔のことですから。わたくし自信、アウローラという石に生えた苔のようなものですし。名前など無くても困らぬので。占いの婆といえばわたくし。それだけわかれば宜しいのです」

「その割に、お声が、若いようですけど」

リルジェは尋ねた。

「魔法で出しているのです。喉はとうに潰れましたわ。醜いカエルのような声よりよろしいでしょう」

 魔女はおほほと笑った。リルジェは、二人を見比べた。

「お二人はなぜ私を──」

「肩の力を抜け、リルジェ。いや、“貧民街の魔術師”よ」

 リルジェは静かに、ふうと息を吐いた。

「──なぜ、俺をここへ呼んだのですか」

 王はしわがれた手を組み、それからヒゲの下で微笑った。無茶をした後の、疲れたような笑いに見てとれた。

「優秀な魔術師の予後の様子を見たくてな。お前を失うのは惜しかったのだ」

「ひょっとしてこの右手の治療は、あなた方が」

「我々が行いました。他に出来る者が居なかったので」

 魔女はさらりと言った。

「アウローラの王宮には魔術の使えるものを積極的に招き入れておりますが、あれほどの強力な呪いを破れるとなれば、我々の他に居なかったのです。“術破り”の呪いを受けて、あなたは魂の一部が欠けてしまっておりました」

「……魂の一部が欠けた?」

 リルジェは目を見開いた。

「タンザとコーネルが生きていれば」と王は言った。「彼らが率先してこの役割を引き受けてくれたろうにな」

 王は腿の辺りをさすった。リルジェはその下が石化しているのを知っていた。なぜか、わかった。

「……魔力を使うたびに進行する呪いです」

 魔女は言った。

「誰がかけたか、いつかかったか……私でも砕くことのできないほどの強大な呪いです。オルガノが完全に石になる前に、王を立てる必要があります」

「本当なら、タンザが。そうで無ければ、コーネルが立つはずだった……それなのに」

 王は悔しそうに目を細めた。リルジェはなんとなく、城内の喪の空気の理由を察した。

「ジェイドしかおらぬ、もはや……あの子しか。なんてことだ……」

 リルジェは泣き虫の第三王子の姿を思い描いた。剣を握って乱舞する、中庭の王子の姿──。

「あの子が無事だったのは、力が無かったゆえよ、オルガノ。これは幸運なことだったのだわ」

 魔女が慰めるように言った。オルガノはぎゅっと握りしめた拳を解き、青い瞳をこちらに向けた。

「……ジェイドをお前に委ねたい。リルジェ」

「委ねる……!?」

 リルジェはのけぞった。

「導いてやってほしい。魔術師として」

 つまりジェイドを。時期国王を?委ねる?導く!?

「そんな、畏れ多いことを、俺が!?」

「もはやこの国に強力な魔術師は貴方しかいないのです。お分かりいただける通り」魔女が言った。

「いや、そんなはずはないでしょう!」とリルジェは言った。脳裏にはイザックとかいう宰相がいた。

「もっと他に魔術師はいるはずです、例えば宰相の、」

「タンザとコーネルが死んだ今!国を支える“強力な”魔術師がいないのだ!」

 王は語気を強めた。「魔力こそが我々を支える礎であった。国祖アウローラ、初代アウローラ王……彼らの為した偉業。今ももたらされる恩恵。そして国祖に連なるという“事実”と国祖信仰によって我々は国政をしいてきた」

「……!」

「“それ”が無ければ。ないとわかれば。これより国は乱れる。内乱が起きるやも知れぬ。存亡がかかっているのだ。貴方に頼みたい。マギ・アウローラ。ジェイドを支えてやってほしい。あれは本当に……国祖に見放されてしまった男なのだ」

 ──マギ・アウローラ。すなわち「魔術師アウローラ」、転じて「稀代の魔術師」を意味する。リルジェにもそれくらいわかる。

「そんな!俺にそんな器はない!」

「貴方が国祖の禁術を使った時から、さだめは決まっておりましたのよ」

 かぶりを振って叫ぶリルジェに、老婆は美しい声で言った。

「……あなたはむかし、一冊の本を盗みましたね。あれは国祖の書き留めた原初の魔術。並大抵の者には使えぬものばかり載っている。その中に「魂の連結魔法」というものがありまして。失敗すると取り返しのつかないことになってしまうそれを、あなたはジェイド王子相手にやってのけたのです。赤子の手を捻るより簡単に」

 リルジェは驚愕した。

「俺はそんなことを……?」

「ええ、そんなことを。あなたはこの国いちの、大魔術師なのです」

 リルジェはとうとう言葉を失った。

「右手の傷が証明しております。その傷が深ければ深いほど、あなたの魔力が強いということ。傷は骨にまで達しておりました」

「国が危ういのだ、リルジェよ」

王が重苦しく言った。「タンザ、コーネル。そしてジェイドとリルジェお前たち。皆呪われた。命の危険もある。だからここに留まってくれ、とは強くいえない。だが……」

 岩のように固くなった手が、リルジェを招いた。

「この国を護りたい。孫娘のエリザはまだ幼い、嫁ぐにしても、女帝として立つにしても……どうしても。ジェイドに王として立ってもらわねばならぬ。だから……」

 こわばるように震える手を、リルジェは握った。

「王様。ご期待に添えるかどうかは、わかりません。ジェイドとも、今知り合ったばかりのような気がしているんです。確かに、知っているはずなのに……」

 言葉にするうち、リルジェの中の、「ちぐはぐ」の正体が、明白になっていく。ジェイドに関する記憶が、まだらに抜け落ちているのだ。

「オルガノ王、お願いがあります。俺とジェイド王子が、これまで通りに過ごすことをお許しください」

「ああ、もちろんだが、……これまで通り、とは?」

オルガノ王は尋ねたが、魔女はホホと笑った。

「お聞きでないよ、オルガノ。主従には主従の世界ってものがあるのさ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る