蝶と王家(1)

 モヤモヤしたままのリルジェが浴室から出ると、ジェイドの姿はなかった。広すぎるベッドがやや乱れているのが気になって、リルジェはむっと唇をつきだしてベッドを整える。いったいこの部屋の主人はどこに行ってしまったんだろうか。彼が悪いわけではないのだが、なんだかジェイド王子に文句を言いたい気分だった。

 髪の毛を乾かし、身体中の水分を飛ばして、整えたばかりのベッドに腰掛け、部屋の中を見渡す。浴室前に脱ぎ捨てられた軍服がよれてぐちゃぐちゃにされているのを見て、無性に整えたくなってしまう。

「ったく2週間も着たらこうなるに決まってんだろ!」

 リルジェは魔法を駆使して軍服を洗う。

「せめて着替えろ、あの王子……せっかくの、」

 せっかくの、と言いかけて、リルジェは口籠る。せっかくの?

 豪奢な作りの軍服、金色のタッセル、いくつかある勲章──リルジェはひとつポケットの中に勲章があるのを思い出して、それを取り出して眺めた。ピンで留められていた、金色にひかるメダルの部分をじっと眺める。掘り込まれているのは誰もが知るアウローラの魔法印。国旗にも織り込まれている、国祖アウローラしか使えないと言われるものだ。

「……綺麗だ、」

 リルジェは反射的に盗んだそれを、そっともとの位置に戻した。胸で光る国祖の勲章を眺めて、頷く。

「うん。完璧」

 口にしてから、やはり違和感に襲われる。完璧?何が。

 ──衣装掛けにきっちりとセットされた軍服。2週間分の汚れを落とし、皺を伸ばし、いつ着ても大丈夫なように。

「うーん、わからん」

 リルジェは頭を掻いた。ちぐはぐだ。繋がらない。目の前の勲章をまた盗んで、訳の分からない此処王宮からとんずらして、足のつかない適当なところで換金してしまいたい衝動と、いましばらくこの完璧な軍服を眺めていたい感情とが、リルジェの中ではげしく衝突していた。

「……なんだ、これ?」

 金色に手を伸ばしては、引っ込める。伸ばしては引っ込め、伸ばして──アウローラの魔法印に指先で触れる。

 自然と、リルジェは目を閉じていた。

──リルジェ、リルジェ。お前は王の子なのよ。

 まじないのように囁かれ続けた母の言葉が蘇る。

──お前は王の子なのよ。その魔力が証拠。お前は王になれるのよ。時期さえくれば。

 なんで今ごろになって、もういない亡霊が囁くんだ?

 リルジェの母は死んだ。頭がおかしいまま死んだのだ。

──でもね、秘密なの。その時まで。彼との約束……

 何が秘密だ。何が約束だ、そんな変な男の言うことなんか信じるから……。


 ハッと目を開けると、紫色の蝶がリルジェのすぐ目の前を泳いだ。微かに花の匂いがした。魔力の気配もした。

「……お前、俺を呼びにきたのか?」

 蝶は揺れた。ふわりふわりと上下して、頷くようだった。

「魔術師に呼ばれたんなら、仕方ねえなぁ……」

 リルジェは木綿の服をそれなりに整えて、蝶が誘う方へと向かった。


 離宮と宮殿を繋いでいる渡り廊下からは、中庭が見渡せる。リルジェはあやふやな記憶と重ねてそれを見た。広々とした中庭の隅で、第三王子は、部屋着同然のまま剣を振るっていた。

 リルジェは彼の剣舞を眺めるために立ち止まった。身体の一部と化した剣は彼の肢体の延長にあり、腕であり、足であった。剣先が描く光が弧をなして、まるでそのような魔術を見せられているかのようだ。ジェイドは剣そのものとなり、剣はジェイドに従う。

 まるで命懸けで、何かと戦っているかのようだ。

 ぼうっとジェイド王子を見つめていたら、ジェイドと目があった。ジェイドは微笑もうとして失敗し、また泣きそうな顔になって俯いてしまう。

 蝶が「もういいでしょう」とばかりに目の前を横切る。リルジェは稽古を再開したジェイドに手を振った。ジェイドは自らの殻に固く閉じこもってしまったらしかった。気づかないのか、無視をしたのか、リルジェには判断がつかなかった。


 何もかもがだ。その理由を知りたい。きっとこの蝶を使役している魔術師マギならばそれを教えてくれるだろう。わざわざ、使いを寄越すくらいだ。

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