貧民街の魔術師(3)

 しばらくしてシャワーを終えた濡れ髪のジェイドが姿を現す。やはりその姿を直視できないリルジェは、顔を背けたまま「俺もシャワーを借りる」と言い放った。早口で続ける。

「お前が2週間てことは俺も2週間だろ、借りるぞ」

「……ああ、構わないが、リルジェ、どうした?」

 涙をさっぱりと洗い落とした王子が訊ねる。

「何もない、なんでもない!」

 リルジェは真っ赤になった顔を俯け──ジェイドの衣服に包まれた下肢を目撃して、さらに耳まで染めた。王子の男性のしるしが目の前にある。およそ普通とは呼べない規格外のそれが、リルジェの思考を完璧に破壊した。

「リルジェ?」

「っ……なんでもねえよ!バカ!」

 たかが男のそれだ。自分にもついているし、弟分のなんか飽きるほど見たはずなのに、なぜ。

「リルジェ、熱でもあるのか」

「ねーわ!」

 浴室のドアを乱暴に閉めて、鍵をかけて、座り込んで……リルジェは頭を抱えた。

 なぜこんなに彼を意識してしまうんだろう?記憶を失う前の自分は一体彼のなんだったんだ?

「頭がついていかない……」

 身体ばかり先走って、反応して、意識して……まるで頭だけがそれを覚えていないかのような感覚。身体は「アレ」の良さを知っているのに、リルジェの理性はそれを否定する。

「……ないないない、ないって、ないから、王子様と……そんなこと」

 リルジェは呟きながら服を脱いだ。

「そんなこと、ありえねーから」



〜〜〜


 リルジェのつるりとした白い肌にはシミひとつなく、どこもかしこも滑らかで、それなのに抱きしめると男の骨の感触が身体のそこここに触れる。その硬さすら好きだ。……好きだった。

 ジェイドはリルジェの面影を追うようにして、シャワーの音を聞きながらベッドに横たわった。先ほどまで彼のいたそこに顔を寄せる。くるおしいくらい、リルジェのかおりがした。

 また涙が出そうになる。


『呪いによってこやつの魂が欠けた。欠けた魂は戻らないだろう。永遠に』

 瀕死のリルジェに治療を施すしわがれた手──エリザの師であるばあの言葉は、ジェイドをひどく揺さぶった。リルジェはどうなってしまうんだ。そう取り乱すジェイドを、懸命にエリザが励ます。

『リルジェは死なない。リルジェは死なない。おじさまが呼び戻すから、死なないの』

 7歳の姪に宥められる不甲斐なさ。目の前の恋人に何もしてやれない無力感。ジェイドは潰れそうになりながら泣いた。血の流れる手は父王が止血し、婆はリルジェにかけられた呪いを砕きにかかる。エリザはそんな婆の汗を拭い、時折魔力を貸していた。

 ジェイドだけだ。立ち尽くして動けない王族は。涙を流すだけ流して、リルジェの名前を呼ぶことしかできなかった。


 俺には何もできない。リルジェがいないと……何も。


 浴室で見たジェイドの心臓の上の魔術印シールは、今にも消えてしまいそうだった。見えなくともリルジェとの絆を繋いでいた彼の魔術はもう機能しない。

 魔術師マギの魔法は解けて、ただ剣を握るだけの男がひとり、残されてしまった。

 心のうちから漏れ出てきそうな弱音を噛み殺す。大丈夫だ、心配するな、俺がいるだろう……そう励ましてくれた美しい下男の言葉が欲しくて、ジェイドはまた目を伏した。涙がジェイドの目を浸していく。

 リルジェ。

 俺のせいで。

『泣くなよ、俺、泣いてるやつ苦手なんだよ。なんか悪いことしたみたいでさ』

 過去のリルジェが囁いた。幾度となく聞かされた、彼の常套句だった。

 ジェイドは立ち上がり、涙を拭って離宮の外に出た。自分にできることをするしかなかった。

 

 魔力がなくとも──王になるために。

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