貧民街の魔術師(2)

「みっともないところを見せてしまってすまない」

 謝り通しの王子は、鼻を赤くして涙を拭った。腫れぼったくなった瞼でリルジェを見つめる瞳は、どことなく哀しそうだった。

「……私は……俺は、ジェイド。お前の主人で、友人で……」

「主人も友人も作った覚えがない」

 自分が眠っていたベッドに腰掛けてから、リルジェは正直に告げた。この状況──突如王宮に連れてこられたことも、意味がわからない。王位継承者の友人や下僕になった覚えはない、と。

 それを聞き、なおさらジェイドは涙ぐんだ。体こそこんな大男だけれど、中身はとんでもない泣き虫なのかもしれない。リルジェはうんざりしながらジェイドの腕を引っ叩いた。

「だから、泣くなってば!俺は知りたいだけだよ!その……例えば、なんで俺はここにいるかとかから説明してくれれば嬉しいんだけど……」

 ジェイドは服の襟を緩めた。きっちりした割にはヨレヨレした服だなと思う。軍服だろうか?

「……お前は俺の先生だった。魔法の先生だ。十年間、俺のために魔術を教えようとしてくれていた」

「せんせえ!?俺が?十年も?なんで?」

「俺は……王族だが魔術を使えない。もともと魔力を持っていないんだ。……だから、」

 そこでジェイドは黙ってしまった。

「だから?」

 リルジェが覗き込むと、顔を腫らした大男は、リルジェから視線を逸らして、強く唇を噛んだ。

「だから、お前が呪われてしまったんだ。俺ではなく、お前が。すまない、リルジェ……お前が知りたいであろうことは、俺の口から説明するほか、ないんだ。……お前の記憶はもう戻らない、だろう」

 我が身を切り離すような苦しみの表情を浮かべるジェイドに、違和感を覚えなかったと言えば嘘になる。

「お前と俺が過ごしたっていう、十年分?」

「そうだ」

 いや、絶対にそれだけじゃないだろう──と言いかけて、リルジェは言葉を引っ込めた。ジェイドがまた泣き出しそうだったからだった。崩れ落ちるようにしゃがみ込み、顔を覆ってしまう。

「泣くなよお……俺、泣いてるやつ苦手なんだよ。どうしていいかわからないからさぁ」

 困り果てたリルジェは、しゃがみ込んだジェイドに歩み寄って、その肩を抱きしめた。

「……泣くなって。俺は呪われて記憶が無いけど、お前の友人で、先生で……あとなんだっけ? ま、いいや」

 震える背中は広くて筋肉質で、抱えるのが大変で。それでいて、ずっと前から知っている形をしていた。ずっと前からこの温もりを知っているような気が──。

 リルジェはジェイドから体を離した。

「……なあ、王子様よ。なんか臭くないか」

「すまない、2週間風呂に入っていない」

「にっ!?」

 リルジェは目を剥いた。貧民街じゃそう珍しくないが、彼は王族だ。王様になる予定の男だ。

「ウッソだろ!?王族がそんなんでいいのか!?」

「おまえが」

 ジェイドは立ち上がって顔を拭った。

「死んでしまうのではないかと、不安で」

「……そんなことで?」

 ジェイドはかぶりを振った。

「見ていない間に、お前の息が止まってしまうんじゃないかと、不安で。ずっとお前を見ていた。着替えもしないで……」

「……バカだな」

 リルジェはため息をついた。

「たかが孤児一人にそんな入れ込んでどうするんだよ。もっと心配するべきことがあるんじゃないのか?例えば、未来の嫁さんとか。こんな姿見せたら彼女泣いちゃうぜ?」

 呆れ返っているリルジェの前に立ち、ジェイドは腫れた目でじっとリルジェを見下ろし。

「ならば、大バカで結構」

 ──リルジェの前髪を指でそっとよけて、白い額にキスをした。

「えっ……」

「リルジェ。すまないが、着替えを手伝ってくれないか。この服、一人では脱げないんだ」

 さらりと話題を変えていく泣き虫王子は、リルジェの混乱など気にしていないようだ。

「背中にまでボタンがある。魔法でも構わないから、外して欲しい」

「あ、え、ああ、うん……」

 貧民街でだって、唇のコミュニケーションは何度もやっていた。女みたいな見てくれに引き寄せられてきた、慰められたい男どもの相手をしたこともある。身体こそ許したことはないけれど、そうした視線にはもう慣れたつもりだった。

 でも今のは。今のはなんだったんだ?

 額に触れる唇の感触──ジェイドのキスに、覚えがある。そう、身体が教えてくる。

 リルジェはカッと頬を赤らめた。じわじわ込み上げてくるこの熱はなんだ。この「期待」はなんだ。 

 体が勝手に期待している。何かを。

 何を?

 リルジェは知らず内股になって、ジェイドの方を一瞥もせずにボタンを魔法で外してやる。

「ありがとう、リルジェ」

 王子は部屋の外へ出た。微かに衣擦れの音が聞こえてくる。シャワールームか浴室があるらしかったが……リルジェは一度もそちらを見ることができなかった。見たら自分が変わってしまう気がしたからだ。

 腹の奥が、ずきんと疼いた。そこを満たすものを待つように。


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