貧民街の魔術師(1)
リルジェの母は美しい女だった。栗色の髪に緑の瞳──その美貌で高級娼婦をやっていて、その末にリルジェを身籠ったのだという。
妊娠とそのタイミングに、運命的ななにかを感じ取った母は、娼婦から足を洗って一人でリルジェを産んだ。
面倒見が良くて、勉強も教えてくれて、いい母親だったと思う。ただ……。
「あなたのお父さんは王様なのよ。だからあなた、魔法が使えるの。でも、秘密なの。これはあの人と私だけの秘密」
……少し、イカれていた。息子ながら、そう思う。
あなたの父親は王様。あの人との秘密……最期の言葉すら、それだった。
「なあ、王様が娼館なんかに来ると思うか?」
リルジェは仲間によく尋ねたものだった。仲間たちは「王様」を思い思いに想像しては、「来るかも」「来ないかも」とめいめいに答えを返した。
リルジェにとってそれは不毛だった。しかし、誰かに尋ねずには気が済まなかった。魔法のことが、気にかかって仕方なかった。魔法を扱えるのは王族だけだからだ。
でも。
使えるものは使えばいいだけの話だ。どこから来たかなんてどうでもいい。
そう悟るまで、かなりの時間がかかった。
そうしてリルジェは、父親のことも母のことも忘れた。どこからかやってきた
リルジェの関心は、その日の寝床と仲間たちの食いぶちの確保にしかなかった。魔法を操って商人から食物を盗り、貴族から金を巻き上げた。時には旅人を脅した。
全ては生きるためだった。
「貧民街の魔術師」。
リルジェはいつしかそう呼ばれるようになっていた。うつくしい、白皙の、それでいて残酷な孤児がいて、魔法を使って人々から物や金を巻き上げると。
みなリルジェをそうやって恐れた。中にはリルジェを殺さんと刃を向ける自警団も現れたが、軒並み返り討ちにしてやった。
そんな「変わり映えない毎日」の中で。
彼はやってきたのだ。リルジェの噂を聞きつけて──
誰かが。
夢から覚めると、見知らぬ天井がリルジェの視界をいっぱいに覆っていた。見るからに贅を尽くしたシャンデリア、隅から隅まで綺麗に貼られた天井の壁紙、蜘蛛の巣ひとつない部屋の隅、ピカピカの姿見、そして広いベッドと……リルジェのすぐ隣で、力尽きたようにうつ伏せて眠っている一人の男。くすんだ金髪がぐしゃぐしゃに乱れている。
「……誰だこいつ?」
リルジェは男を起こさないようにベッドを抜け出すと、まず銀の燭台を掴んだ。埃が積もっていない。大事にされているのだろう、高価そうだ。できれば頭上のシャンデリアももらいたかったが、下手に力を込めたら壊してしまいそうなのでやめた。
他に金になりそうなものはないかとあたりを見回す。男の身につけている服……もっと言えば、勲章が目に入る。金色だ。しかし眠っている男の服から、この勲章だけを外せるだろうか?
リルジェは普段通り魔法を練った。勲章の留め金が外れる。そのまま、布から針を抜き取り──指先で魔法を繰ろうとし、痛みを感じた。手の内に勲章を納めてから、ようやく、リルジェは自分の右手の甲に大怪我をしていることに気づく。
「なんのヘマしたらこんなことに……」
ぐるぐる巻きの包帯の下を見たかったけれど、それは許さんとばかりに誰かの魔法がきつめに施されていた。……魔法。
自分以外の魔法の気配を、リルジェは初めて感じ取った。そこに他人がいることをようやく把握したように、あたりを見回す。
「ここはどこだ?……なんだ?」
そこへ、低い声が掛かる。
「お目覚めですか、
振り返ると、音もなく扉を閉めた背の高い男が、にこにことリルジェを見下ろしていた。
「……動くな」
リルジェは利き腕を突き出して男を牽制した。
「動いたらお前を痛めつける」
「おお怖い。……本当に覚えていらっしゃらないようだ」
「なんだと?」
長身の男はリルジェの緊張みなぎる表情にも臆せず、痩躯を曲げて礼をした。
「私はあなたの敵ではございません。王宮へようこそ、魔術師殿。私の名はイザック。この国の宰をしております」
「王宮……、城か?」
リルジェの眉が寄った。王宮──王の住まう処。
「とは言え、離宮で──侘しいところではございますが」
「なぜ俺をここへ連れてきた!」
リルジェは指先に炎を漲らせた。
「この怪我はなんだ。なぜ俺の名前を知っている!答えろ!」
「おっと」
放たれた火球を男は手のひらで受け止める。リルジェはギョッとした。見掛け倒しの火球を見破られるなんて。
「丸腰の人間相手に魔法を撃つとは。まさにあの頃の『貧民街の魔術師』ですねえ。ただひとつ、問題は」
痩躯が音もなく動いた。リルジェの腰を抱き、利き腕を絡め取り、上から覗き込む──まるで口説くような格好に「固定」されてしまい、リルジェは息を呑む。──魔法だ。糸のような微弱な魔法が、リルジェの関節を固定してしまった。
イザックもまた、魔術師なのだ。
「ここは王宮。強きも弱きも、魔術師のつどう城。なにもあなた一人ではないのです。こうして裏をかかれれば、単純な魔術式に引っかかる……ほら、何もできない」
イザックの笑みが近い。リルジェは思わず顔を背けた。
「っ!」
しかし男はその背けた顔をぐっと引き寄せて、ごく近くで囁いた。
「こうして見ると美しい御顔だ。あの殿下が惚れ込むのも頷ける。輪郭も鼻筋も唇も、その銀のまつ毛も、女のようじゃないですか」
その時だ。
「イザック」
殺気が、部屋中を覆った。
「リルジェを放せ」
眠っていたはずの大男が、イザックの腕を掴んだ。ミシ、と音がして、眼鏡の下の顔が歪む。
「殿下。殿下。ほんの戯れです」
「ほんの戯れで済んで良かったな」
青い瞳。精悍な顔立ち。何より、堂々たる体躯。腰には鞘付きの剣を穿いたままだ。
「……殿下?」
リルジェは思わず呟いた。
「ラウル=ジェイド・アウローラ殿下。第三王子にして、王位継承権を持つお方です」
イザックが折れたらしい腕を庇いながら、そう答えた。
リルジェはそのジェイドとやらの顔をまじまじと見つめた。なんだか覚えがあるような、ないような。変な感じだった。リルジェは一度見た顔は忘れない。食べ終えたパンのことは忘れるけれど……。
「どこかで、会ったことがあるか?」
怒りに満ちた表情が、すっと無表情になったかと思えば、──青く澄んだ彼の目から、つうと涙が溢れて落ちた。
「リルジェ」
「え?」
「──分かってはいたんだ。何度も何度もイメージしたさ。だから、覚悟しては、いたんだが」
「なんで、なんで王子様が泣くんだよ?意味が……」
「ごめん、すまない。許してくれ。許してくれ、リルジェ」
笑いながら、泣きながら、ジェイドは何度も涙を拭った。しかし止まらない。止まるはずがない。
そんなこと、リルジェは知る由もないが。
「二十五にもなってはずかしい、泣くなんて、はは、……ははは」
「……私は、このあたりで失礼致します。魔術師殿。盗んだものはお返しくださいね」
イザックが銀の燭台を見ながら言った。リルジェはしぶしぶ、それを元の位置に戻し──勲章をポケットの中に突っ込んだ。
大男──王になるはずの男は未だ涙を流し続けていた。リルジェはその腕を掴んで、ゆすった。
「……泣くなよ。男だろ!……あれ?」
ジェイドが目を見開き──リルジェは首を傾げた。
「さっきから変だな。なんか、前もこんなことあったような」
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