言い換えれば、君に婿入りすると言う事。

たひにたひ

言い換えれば、君に婿入りするという事。

「斎藤さん!お、おおれは、君が好きだ!」

弾けんばかりの赤面に、震える手足、今にも崩れてしまいそうだ。

「名前、私の名前で呼んで」

「翠さん」

彼女の唇に手が触れる。ゆっくりと丁寧に、但し、その動作には何の汚い思想性も無いのだ。

彼の、純粋に彼女を好く思いがそうさせるのだ。これまで長い紆余曲折があった。さんざっぱら間違えて仲違いも、横恋慕もあったけれど、結局はそうなのだ。ありきたりな恋愛小説のように、彼は心に何の偽りもなく彼女に思いを告げた。

彼女は笑った。偏見に満ちた嘲笑でもない、何より嫌いな自分への諧謔的な取り繕いでもない、きっとそれは彼女自身が最も待ち侘びていたものだ。

「ありがとう」

二人は立ち止まる。二つに分かれた道で、手を繋ぐ。そしてそれはきっと幸せな事だ。


               ─end─


なんて、このやり取りを僕はどれ程読んだ事か。

これはライトノベル『星間飛行で春を望む』通称『セカハル』、の最終巻、その最後の描写である。この作品程僕にとって思い出深いものはないだろう。

ヒロイン、斎藤翠は『俺の嫁』だ。それは絶対に揺らぐことのない事実だ。林檎が逆さに飛んだって、明日地球が爆発したって僕は大手を振ってこいつのことが好きだとどんな奴の前だって叫ぶことができる。自信をもってそう言える。

この作品に出会ったのは僕が小学三年生の頃だ。

父も母もいない夜だった。正方形の眩く光る三原色のモニタ越しに彼女はいた。


彼女は僕が知った時には高校二年にもなっていた。当時高校生の生活というのはよく分からなかったけれど、彼女が可愛かった事だけは覚えている。昼時の教室で弁当を開き、食事をしている制服を着た男女、彼女の前には何やら男が立ちはだかって言い争いを始めた。

「あんたなんか!あんたなんか!…」

そんな大声が飛び出す。彼女は泣いたり、怒ったり、そう思えば何故か頬を赤らめて、笑っていたり忙しい人だった。でもそうじゃなかったんだ。泣いたり怒ったりしているのは感情の裏返しで、時々見せる笑みこそが彼女の心模様が表出した瞬間だった。同時に僕が彼女を、ひいてはこの「星間飛行で春を望む」を、深夜アニメという世界を好きになる瞬間であった。


放課後になけなしの小遣いを使って初めてのライトノベルを買った。初めて自分のお金で本を買った。角砂糖三つにミルクを入れて夜長く起きるために僕は初めてコーヒーを飲んだ。

日替わりに三十分間、恋愛、冒険、日常、SF、色恋に疎かった僕が恥ずかしくて思わず顔を手で覆ってしまうものまで手前のモニタには色とりどりの世界が広がった。決してこれが三原色の光から編み作られているとは思えなかった。寝坊が多くなって授業で寝る事も増えた。でもきっと朝に見るニュースや、学校の計算問題とか、校庭でする鬼ごっこなんかよりずっと高尚な事だと思えた。そう思ってしまうくらいその世界は僕を魅了したんだ。

それでも『セカハル』は特別だった。

原作は何度も繰り返し読んだし、アニメもリアタイで視聴した。

アニメ一期が2010年、二期が2013年、僕は中学生になった。三期が2016年、僕は高校生になった。四期が2018年、今年だ。僕は高校3年生、とうとう彼女の年を越してしまった相変わらず彼女は高校2年生のままで、相変わらず男と感情豊かに口喧嘩ばかりしている。


オタ活をするという事。それにはお金が必要だという事。それはあくまで純粋な愛だという事。

僕が彼女に費やしたお金はもう数万じゃ効かないだろう。身を削り買い揃えた小説。スピンオフからファンブックまで。君の事が好きで、わざわざ県外へ足を運んだのは中学になってから。僕の部屋に勲章のように飾ってある缶バッチ、ポスター、フィギュア、勿論君がこんなありきたりな笑顔簡単に見せる訳ないのは知っている。それでも嬉しかった。高校になってからバイトで稼いだお金を握りしめ始発の電車に乗り込み、人混みを裂いて買い漁った同人誌がある。


***


どうしてこんな話を急にしたいと思ったのか、僕にも実際分かってない。

2018年の冬、受験も大詰めに入った今、僕の部屋に娯楽なんかない。小説や漫画、壁にポスターなんか貼っていたら受験勉強に身が入らなくなってしまう。だから全部売っぱらってしまった。正直な所少しやり過ぎた感はあったが、おかげで今の所受験は順風満帆であった。


彼女のイラストを描きたいと思わなかったのか?彼女の同人誌を描きたくなかったのか?ありきたりな日常の延長線上を、隠された彼女の一面を君は一度も夢想することは無かったのか?ご生憎様そんな情熱は無かった。というかもう満足していた。そんな事が書かれているものは探せば幾らでも転がっているし、何より、もううんざりしていた。

帰宅して、自分の部屋に入ると目に飛び込んでくるのはカラフルな彼女のイラスト、笑顔だったり、恥ずかしがっていたり、下着があったり無かったり、取っ替えても取っ替えてももう何の新鮮さも無くなっていた。彼女は動かない。当たり前だ。絵なんだから。

彼女は、決まった台詞しか吐かない。決まった時の流れで、決まった反応をして決まった出来事に巻き込まれていく。

僕はそれを年がな噛み締めながら読んでいる。一体、二進法で織りなされる電脳世界のコミュ二ケーションと何が変わろうというのだ。

要するにもう飽きたのだ。

何に関したって絶対に物事には飽きがくる。人間なんだ、そりゃそうだろう。彼女、斎藤翠に、『セカハル』に飽きたとしてもこの世界には面白い作品が一杯ある。それは日本のアニメや漫画に留まらない、それは或いは地球の反対側にあるかも知れない、それは或いは千年前にあるかも知れない、これから先の未来にも沢山ある事だろう。

そんな世界を切り開く橋掛けとなった彼女や『セカハル』には感謝している。だがもうそれ以上の感情は薄れてしまった。


「よ。もう冬休みだってよ。受験、大詰めだな」と僕に声を掛ける奴がいる。僕の友人、村田だ。

この時期の教室といえば人間は大きく二種類に分類されるだろう。一般入試を控えて必死こいて勉強してる奴、推薦でさっさと済ませて暇を持て余している奴。どっちにしろ健康な状態じゃない。村田は後者だ。

僕は入試を受けるつもりだからもうこんな時期になってくると授業中、内職をしないで口に鉛筆を咥えて呆けているような連中を見ているとぶっちゃけ苛々してくる。まあ兎も角、この教室にいる奴の大半が試験に向けて勉強に励んでいる中、村田はさぞかし退屈なんだろう。

村田は今まで教室にいる知り合いという知り合いに遊びの誘いをして断られ続けていた。

それで断れる様が可哀想に思えたくらいの時にこの僕に声をかけて来たという訳だ。

僕も当然断るつもりだが。

村田はどうにか誘いを断られないように思案してから口を開いた。

「おまえはどうせ勉強で忙しいだろうから見てないと思うかも知れないけどさ、『セカハル』、来週で最終回なんだぜ」

見ている、見てしまっている。

幾ら熱が冷めたからって俺のもう十年近くになる付き合いの作品の最後を見届け無いわけにはいかないだろう。

年が明けて、バレンタインだの何だので男女が色めき立つ中、ませたふりをした二人の高校生が夕暮れの下校路を歩く。

そんな場面で先週は終わった筈だ。

来週で告白して「セカハル」は最終回を迎える。

でもなんだかな、受験勉強をしているとやたら効率を求められる。効率のいい勉強法を。効率のいい生活習慣を。じゃあ少ない休憩時間を削ってまで何回も追った物語を改めて辿る事は僕の効率に貢献しているのか。

その間勉強でもしていたらいいじゃないか。毎週手に取るリモコンはなんだか重く感じた。

「『セカハル』なあ、懐かしい名前を出したもんだ。まあ僕も見てるけど」

「おお!お前も見てるのか!」

なんだ?お誘いの成功率がぐんと上がったなんて思っちゃいないだろうな。それはぬか喜びだ。

「それでな!聖地巡礼しようと思うんだよ!『セカハル』のさ!」

聖地巡礼。僕がオタ活の中でメジャーな物なのに唯一手を出せていないものだ。

特に『セカハル』の聖地は遠すぎる。ここは静岡県、『セカハル』の聖地は山形県、天童市長谷町だ。幾ら何でも遠すぎるだろう。コミケに行くのだって散々苦労したのに。

ただ、惜しむらくは作中でここが山形の長谷町だと明言している事だ。小説でも街の描写は細かく、何なら彼女らの下校路をそのまま辿る事が出来る。だが、強いて今行く意味もない。お金もないし。大学生になってからゆっくりやるもんだろ、そんなの。

僕が芳しくない反応をすると村田は焦って口走る。

「なあ!頼むよ!分かった!移動費出す!どうだ?お前気張りすぎなんだよ。冬は休め!そんでもって家で炬燵に入ってないで行こうぜ!長谷町」


結局僕は行くことにした。恐らく一万円以上する移動費を出してくれるというのなら僕もその提案を無碍にする事は出来ない。それに、ちょっとした受験勉強の箸休めとして行くのなら問題ないだろう。予備校の講師なんかはそれが命取りだというが、単に鞭を打ち続けたら馬が速く走り続けるのかと言ったらそんな都合のいい事はない。

休む時に休んだら良い。きっと親も許可してくれるだろう。

「そしたらさ、旅館で一緒に最終回見ようぜ!セカハルの最後を見届けようや!」

なんだかな。

「僕は最終回を見るつもりはない、何となく。面倒臭いから」

面倒臭いなんて言葉じゃ当然言い表せないんだが、なんとなく見るのが嫌なんだ。

それに、何回も読んだシーンだし彼女らに同じ言葉を反復させても退屈だ。

でも、僕はこれから聖地巡礼に行くんじゃないのか。静岡の三島から遥々山形まで。

なのになんで最終回を見るのが面倒で嫌なんだろう。


***


聖地巡礼当日、僕はとんでもない早朝に起こされた。

駅に着くなり村田は何かのチケットを駅員に見せた。

「何それ」

「青春18きっぷ、旅行者御用達のツールさ」

それはどうやら五回きり、一日一人あたりの乗車料が只になる代物だった。

一万円二千円、それでもだいぶ値が張るが、これでこの旅行、往復で一人当たりの移動費は六千円になる。

僕は一つ欠伸をして改札を抜ける。時計は六時十四分を指していた。寒々しい朝の空気を吸い込む、空はまだ暗い、ちょっとした非現実に胸が高鳴っている所だ。


***


揺れ動く座席、車輪の軋む騒々しい音、窓から目を焼く日光、それを雪が乱反射して思わず僕は目を臥しぎみにしなければならなかった。最早全てに苛立つようになっていた。

詰まる所、僕らは終日電車に揺られる事になるだろう。そう考えているうちにも時々、電車は空になったり、混雑したりした。

「なあ、僕らが電車に乗ったのは何時だ?」

「六時」

「いま何時だ?」

「二時」

「計何時間だ?」

「八時間だな」

ぜんっぜん着かない。まだ、まだ新潟だぞ。いつになったら天童に着くんだよ。

「ホラ、『あ』だぞ」

僕達は退屈した旅行者らしくしりとりをしている。しりとりなんか何時ぶりだろう。そもそもしりとりってなんだよ。語の末尾をとってそれを頭につけた語をまた返す。単純過ぎないか。本当に只の退屈しのぎだ。何の面白みもない。

「アザトース」

「だからー、創作物の固有名詞は駄目だって。キリがないだろ」

「黙れ」

座席にもたれ掛かるように座っている村田は溜息をついて言う。

「まあ、もうそれでいいや。スメルグレイビー」

「何だよそれ。聞いた事ないぞ」

「回復アイテムだよ。メガテンの」

メガテン知らねえから何ともいえねえ。創作物の固有名詞有りにするのはやっぱり駄目だったかね。

「『び』だな。ビル・ゲイツ」「燕返し」「シルバニアファミリー」「リーマンショック」「九龍要塞」「イビルジョー」「揚子江」「ウーマンラッシュアワー村本」「帳」「言ったぞ」「違う、呪術廻戦の方」「なんだそりゃ」「そうか。君勉強しててジャンプ読んで無かったのか」「もういいや、リーバルトルネード」「ドグラ・マグラ」「ラスコー」「木っ端微塵斬り」「リーリエ」「エビル天然水」「イルカルラ」「ラミエル」

何でもありじゃねえか。

「もうやめにしよう。こんなことやったって一つも楽しくない」

村田は座席にもたれ掛かったままだ。上向いまま気怠げに口を開く。

「じゃあなんだ。なにか面白い話でもしてくれるのか。

ああ全く、こんな辛いとは思わなかった。こんな事だったら最初から行かなきゃよかった」

しりとりというのは人の仲を引き裂く為に存在するのかも知れない。いや、やっぱりしりとりは悪くない。退屈で溜まっていた苦痛がしりとりをきっかけに表出しただけだ。


「なあ、斎藤翠はさ、『俺の嫁』だったんだ」

村田は吹き出した。

そりゃそうなるよな。正しく意味をとっても、僕の伝えたい意味をとってもこの文は可笑し過ぎる。

「何だよ、いきなり。そんなに面白い話があるんだったらもっと早く言ってくれよ」

真剣に聞くつもりねーなコイツ。

まあ良いんだ。こんなの正気でする話じゃない。退屈で死にそうだから出てきたんだ。

「翠ちゃんに僕は数万円使った。ポスターだの、フィギュアだの、彼女のイラストがパッケージになっているだけで僕は何でも買った。

それだけ彼女は可愛かったし、彼女が喜んでくれているなんて愚かな考えも根底にはあったんじゃないかと思う。

思えばな、『俺の嫁』だなんて傲岸不遜な言葉が、一体どうしてこの世界にスラングとして蔓延っていると思う?

この世界に斎藤翠を『俺の嫁』と言い張って憚らない奴がどれほどいると思う?中には他作品に一つづつ『俺の嫁』がいるなんてとんでもない浮気性な奴もいる。分霊箱みたいに体の一部を切り取って婿入りさせるのか?馬鹿みたいだよそんな事をする奴らは」

村田は未だに上向いたままだ。

「そんな事全部わかって言ってると思うけど。

あいつらにとっては一種の愛情表現的な物に過ぎないんだろ。そんな言葉真面目に受け取った奴こそやばい奴だろ」

「だったら。その言葉は全くの嘘だっていうのか。あいつらはしっかり『俺の嫁』に金をかけている。彼女と長く触れ合いたいが為に必死だ。過去の僕含めてな」

「じゃあ嘘じゃないっていうのか?本当に婿入りしたいと思ってるのか?大体、掲示板如きからから生まれたネットスラングにそんなに深い意味がある訳無いだろ」

「俯瞰したらそうなのかも知れない。しかしな、その言葉はあまりにもすんなりと僕の心情を言い表したんだ。斎藤翠は『俺の嫁』だと。

過去の僕は『斎藤翠は俺の嫁』と言っても嘘をついている気分には全くならなかった。むしろ誇らしかった」

座席が揺れる、車輪が軋む、車窓から光が差す。

「だが、今僕は俯瞰してこう思う。彼女にクローズアップして見る物語は物語の本当の面白さを引き出しているのか、それに満足するのは、甘んじるのは愚かな事じゃ無いのか。

斎藤翠は半分人間であり、半分は舞台装置だ。彼女が彼と結ばれて物語が終わる。そうでなくてはならない。彼は彼女と絶対に結ばれるという幸せな役割を神から仰せつかっている訳だ。そこに少なからず嫉妬を覚えたのは何だかすごく残念な事じゃないか?」

僕は俯いて、眉間に皺が寄っている事に気付いた。

「詰まる所僕は冷めちまったんだよ。

原作小説を初めて読み終えた時、ふざけて『俺の嫁を返せ!』なんてはしゃぎ立てたのは殆どが冗談だったけれど少しは彼に本当に嫉妬していたんだ。

だって彼は僕そっくりだった。大人しくて、教室の隅で呆けているのが好きな冴えない少年だった。そんな奴が高嶺の花である彼女と結ばれる訳が無いだろ」

彼女と結ばれるそんな彼の名前を古寺圭人と言う。

「作中の登場人物に嫉妬か。それこそ無体な話だな。娯楽である筈の物語が苦しい物に変わっちまうなんて」

「良いんだよ。大体あいつはなあ!あんな冴えないなりをして、君と同じさ、なんて語りをする癖に!やる時はしっかりやる奴なんだよ。しかも悔しいがそれが少しだけ、恰好良かったりするんだよ」

「やっぱお前、全然冷めてる様には見えねえよ」

「昔の話を思い出しただけだよ」

少し疲れた。僕と村田は人のいない電車の中で、二人して立って伸びをした。

外の景色は相変わらず木と海だし、何時になったら山形に着くのやら。


***


天童駅に着く頃には日は完全に落ちていた。

西口を出ると、駅前広場があって、ど真ん中には訳の分からんモニュメントがあり、隅のロータリーにはバスを待つ人がちらほら、正面の大通りにはその道幅に対して不相応なくらい車通りが少ない。ここは、長谷町だ。あのアニメで見た長谷町とそっくりそのままの光景だった。

雲の隙間から差す橙色の斜陽がその町を照らす、もう下校時刻だ。冬休みだから勿論制服姿で帰路についている奴なんていないが。

いる訳ない。

『セカハル』にはとっくに冷めている。同じ話を何度も追っていたら当然そうなるだろう。それでもそんな事を考えてしまうのは何故だろう、僕は懐かしんでいるのか?横日の当たる彼と彼女の下校する姿に未だに僕は胸を高鳴らせる事ができるのか?

見回してみりゃ大した事ない町だ。小説に書いてあった通り。ああ全く、苦労してきた割には肩透かしだったな。


と、制服姿の二人が見える。僕は目を疑った。

初めて来た町に来て、その二人の姿は随分と見慣れた姿をしていた。見慣れた背丈で、見慣れた髪色、見慣れた距離感で歩いている。

もしも君が文字だけが刻まれた紙から、三原色しか映さないモニタの壁を超えてこの世界に現れたらどんな風なのか。そんな事をずっと昔に夢想していたんだ。

思いっ切り走っている、悴んで動かない体なんか置き去りにして僕は走っている。二人の背中を目掛けて、正面の大通りを突っ走り、三番目の角で曲がる、赤、白、緑、混交した色んな壁の住宅街、窓から暖かい光が漏れ出している。

僕はやがて別れ道に差し掛かった。

そこで彼と彼女は立ち止まっていた。

僕にはありありと見える。全部見える。君の高鳴る心臓、震える手足、赤に染まった頬に、君がこれから何を言うのか。君が何を思うのか。君が何を望んでいるか。

全部覚えている。

翠ちゃん。やっぱり君が好きだ。『俺の嫁』なんて大言壮語は恥ずかしくて言えないけれど、でもさ、もはやそんな単純な感情じゃない。好きって言葉じゃあ言い表せない。君を見守っていたい。君の熾烈で熱烈な物語が終わるのを見届けたい。


古寺圭人。僕は君が嫌いだった。君は僕を追い越していってしまったから。君の歳を越しても僕には彼女は出来ないよ。君のように悪を悪だと阿る事なく言い切ることが出来ない。

全くお前はどうして半年もの間彼女の恋心に気付くことが出来なかったんだ?どうしてお前はそう鈍感なんだ?

怒りに震えた喉元が、勝手に纏まりのない言葉を吐き出す。

「いけ!やれ!告白しろ!お前がやんなきゃ誰がやるんだよ!!言えよ!お前の事が好きなんだと只それだけを言えば良い!

古寺圭人!!言わなきゃ僕は一生お前の事を恨んでやるからな!!」

ようやっと彼は震える口を開いた。

────斎藤さん!お、おおれは、君が好きだ!

弾けんばかりの赤面に、震える手足、彼の態度は全てが君のため。

────名前、私の名前で呼んで

────翠さん

彼女の唇に彼の手が触れる。ゆっくりと丁寧に、但し、その動作には何の汚い思想性も無い。

彼の、純粋に彼女を好く思いがそうさせるのだ。これまで長い紆余曲折があった。こいつはいろんな間違いを犯して君を気付付けただろう。でも結局は君の恋心に気付いて彼もまた君の事が好きだった。

君は笑う。偏見に満ちた嘲笑でもない、何より嫌いな自分への諧謔的な取り繕いでもない、君の幸せな笑い方で。

────ありがとう

二人は立ち止まる。二つに分かれた道で、手を繋ぐ。そしてそれはきっと幸せな事だ。


何だか胸がすっとしたな。

ああ寒い。そういえばここは東北で、静岡と比べて大分寒さが違う事に思い当たった。今まで気付かなかったが道路脇に雪がかき集められている。泥を被り茶色くなった雪は、地元静岡ではもう数年見れていない代物だった。

「雪か」

そう言えば車窓から見える景色は途中からずっと銀世界だった。

雪の手触りはざらざらしていて、触っていればそのうち手の感覚が無くなる。手が濡れて痛みが走る。

「おーい」

向こうから手を振る奴が駆けてくる。口には山形県名物玉こんにゃくを頬張っていた。村田は僕にも串付きの玉こんにゃくを渡した。

「なんだよ、急に走り出して。感極まっちゃったか。」

玉こんにゃくは程よい弾力でタレはなんだか甘い様な、しょっぱいような、まあ丁度良い塩梅だ。齧った跡から湯気があがっている。

「少し歩こうか。今日の最終回を楽しみに」


それは絶対に出来はしない事なんだ。だって、君は彼とじゃなきゃ幸せになんてなれない。これはそういうお話なんだ。僕は何回も読んできた。

最早彼は君を幸せにするための単純な装置で、そんな彼のいる作品は君が彼の元で幸せになるだけを描く、ただのゲームの様に見えた。

月に行って火星や木星の春を拝むのは、隣にいるのは僕じゃない。彼だ。だから婿入りする気なんてもうない。

でも、今は彼有りきの君が一番好きだから。

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言い換えれば、君に婿入りすると言う事。 たひにたひ @kiitomosu

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