3.神のお告げ

 チガヤが生贄候補になったのは、六年前のことだった。


 母親は体が弱く、チガヤが十歳になったその日に亡くなった。

 息を引き取る間際、母はチガヤの頬に触れ、弱々しく懺悔した。

「あなたに背負わせてしまって、ごめんね」

 その時は意味がわからなかった。が、母が亡くなってすぐ後、村の中で一番大きな家に引き取られ、その一室に閉じ込められてから、少しずつその意味を理解していった。母はもともと生贄候補だったが、病気で早くに亡くなってしまったがために、その役割がチガヤに引き継がれたのだと。

 最初は怖がって泣いていたが、それも一年、二年と経つにつれ、泣いても仕方ないのだと諦めてしまった。

 そうなると今度は少しでも心残りを作らないようにと考えるようになり、自分の心を整理するためにも、十四歳の頃から自分用の花嫁衣装を縫い始めた。少しずつ作り上げ、二年経って衣装が完成した時、自分の中でやっと覚悟がついたような気がした。

 だからなのか、生贄になる時期が早まったと村長から聞いた時は、落ち着いて受け入れることができた。完成したばかりの花嫁衣装に袖を通して、村人全員に見守られながら、崖際にある祭壇に向かった。

 そうだ。

 そういえば、道中で村長に、話しかけられたのだった。

「きっと、水神様がお前を導いてくれる。力の無い我々をどうか許しておくれ。そしてどうか、この先々で、自分自身を責めないでやってくれ。決してお前のせいでは、ないのだから」

 どういうことなのだろう。

 聞き返したかったが、村の人とは口を聞いてはいけないと言いつけられていた為に、問いかけることはできなかった。見渡すと村人全員が村長と似たような表情をしていて、少し戸惑った。

 まるで自分に、まだ先があるかのような、言い方だったのだ。

 これから崖を飛び降り、命を捧げる覚悟を、チガヤはもう終えているというのに。



「――生きたい、です」

 故に、自分からそんな言葉が出るなんて、とチガヤは自分自身に驚いた。

 狂信者たちの言い分に、あまりもの理不尽さを感じてしまったというのもある。チガヤが生贄として崖上から身を投じたのは、母の役割を代わりに全うするためであって、狂信者たちの信仰に添うためではない。

 それに、このタイミングで水神の生贄になるというのも、違う。仮にここでチガヤが命を捧げてしまえば、狂信者たちに好き勝手な解釈を与えてしまう気がするのだ。自分の覚悟を、そんな風に解釈されて欲しくない。

 そういったチガヤの意図を、ロキは汲んでくれたようだ。狂信者たちへ向けていた呆れた声ではなく、心底嬉しそうに声を上げて笑った。

「それが聞けて安心した。エリック、アルテ、彼女をつれて崖へ向かって走れ」

 驚いたのはチガヤだけでなく、エリックとアルテもだった。先に村の見回りをして大体の地形を把握していた二人はギョッとした顔をする。

「ちょっと所長! 崖って、行き止まりですよ?!」

「いいから走れ――来るぞ」

 ロキがそう言うと同時に、前方でリーダー格の男が「逃がすな!」と叫ぶ。弾かれたように狂信者が数名飛び出し、各々が持っている鉈や棍棒を振り上げた。

 しかし、それらがこちらに届くことはなかった。突然、狂信者たちが後方へと吹き飛び、続いて飛びだそうとした者たちを巻き込んで地面に倒れ込んだのだ。

 一瞬のことでチガヤには何が起きたのかわからなかったが、ロキが何かをしたことだけはわかった。一歩を踏み出したロキが、持っていた棒を真横に振り切っただけで、向かってきていた者たちが後方へと吹き飛んだのである。

 まるで、突如として突風が吹き荒れ、狂信者たちを吹き飛ばしたかのようだった。そうして狂信者たちがもんどり打っている間に、ロキがこちらを振り返ったかと思えば、駆けだしてチガヤの手を取って走り出した。

 もつれそうになる足を慌てて動かし、手を引かれるままにチガヤも走り出す。

「ろ、ロキさんっ、あのっ」

「さすがに多勢に無勢すぎる。足止めしている内にここから脱出するぞ」

「で、でも、どうやって」

「川に飛び込む」

 え、とチガヤの口から声が漏れた。

 一歩遅れて後をついてきているアルテも同様の反応だった。

「所長?! 何言ってるんですか!」

「チガヤはあそこから飛び降りて泉に流れ着いたんだろう? いい機会だ、ついでに検証する」

「無茶言わないでくださいよ! 無事に流れ着く確証はあるんですか?!」

 後ろから声を張り上げるアルテだったが、彼女の言葉は更に後ろを走るエリックによって遮られた。

「アルテ、諦めた方が良い。所長は止まる人ではないし、後ろも追って来ている」

「っ、あーもぅ! 何かあったら責任取って下さいよ所長!」

 チガヤが後ろを振り向けば、確かに体勢を立て直した狂信者たちが迫ってきていた。

 完全に囲まれてしまっていて逃げ場はない。血走った目でこちらを追いかけてくる集団に、背筋がゾッとする。

 そんなチガヤの視界に、ふと、何かがよぎった。

 場違いに色鮮やかな蝶だった。光の反射なのかキラキラと輝いて見えるその蝶は、全力で走って息が切れかけているチガヤと並走し、更には追い越し、前方をひらひらと舞う。

 崖は目前に迫っている。思わず失速しそうになるチガヤだが、腕を強く引かれたかと思えば、いつの間にかロキに抱え上げられていた。

「アルテ、エリック! 俺に掴まれ!」


 ロキが声を張り上げた瞬間、四人の背を押すような突風が吹き荒れた。

 ふわりとした、嫌な浮遊感。

 チガヤはロキの肩越しに後ろを見ていた。アルテとエリックが手を伸ばし、ロキの服を掴んでいる。

 そして、更にその後ろ。

 落ちていく自分たちを見下ろすように、崖上から色鮮やかな蝶と、真っ黒な鳥が、こちらを覗き込んでいた。


 ×××


「ねぇ」

 声が聞こえる。

 川に落ちる衝撃を今か今かと待ち構えていたチガヤだったが、体を打ち付ける痛みは一向に来なかった。

 しかし、手足に水の感触はある。水の中にいるのだろうか、けれど、激流に揉みくちゃにされているわけでもない。流れの無い水の中にいるかのような感覚だ。

「ねぇってば」

 再び声がする。

 ぎゅっと瞑っていた瞼を、おそるおそる持ち上げる。

 目の前には、白い何かがいた。

 驚いて口から息を吐き出してしまったが、不思議と息苦しくはない。口からこぽこぽと泡が零れるものの、何故か呼吸ができるようだった。チガヤは混乱しながら、なんとか白い何かへと目を向ける。

 それは大きな白い魚、のようだった。

 いや、魚と言って良いのだろうか、姿形は魚のようではあるが、全身が白く輝いており、どこに目があるのかわからない。長く豪華な尾と、同じく豪華な胸びれが、水の中で優雅に揺れている。

「あー、やっぱりあなた、わたしが見えるのね」

 声がした。

 その声は、どうやらこの魚が発しているようだった。

 再度驚くが、チガヤの口からは泡が零れるだけで声は出せない。水の中では動くことも大変で、身を引くこともできなかった。

 魚は一方的に話しかけてくる。

「この前あなたが落ちてきた時、目が合ったような気がして、もしかしてと思っていたのよ。あの子が再生した世界だと、わたしたちの姿を見る人間がいないんじゃないかと思っていたけれど……あなたは違うみたいね」

 何を言われているのかよくわからない。

 が、なんとなく、もしかして、とチガヤは必死に考える。

 ひょっとして、この喋る大きな魚は――水神、なのだろうか?

「ねぇ、あなた」

 水の中でくるりと宙返りをした水神らしき魚は、まるで無邪気な女児のような声で、勢いよくチガヤへと声をかけた。

「あなた、あの子のお嫁さんになってあげてくれない?」

 返事はできなかった。

 否、返事をする前に、唐突に右腕を引っ張られたのだ。

 ぐいっと腕が上へと引っ張られ、耳元でばしゃりと水飛沫の音が聞こえ――


 気付けば、目の前には白髪の青年がいた。


「……ふぇ?」

 チガヤの腕を引っ張っていたのは、その白髪の青年だったようだ。

 辺りを見渡せば、チガヤがいるのは泉の中だった。決死の思いで飛び込んだ故郷の崖上でもなければ、先程まで居た水の中の不思議な空間でもない。辺りは静けさで満ちており、ついさっきまでの激動が嘘だったかのように長閑な空気が広がっている。

 と、くい、と腕を引かれた。

 視線を青年へと戻せば、青年はなんだか呆れたような顔をしてる。

 その時になってようやく、腕を引かれたまま青年に支えられている体勢になっている自分に気が付いた。

「わっ、ご、ごめんなさ、ひゃっ」

 思わず後ろに仰け反れば、そのまま泉の中で尻餅をついてしまった。その反動で跳ね上がった泉の水を頭から被ってしまい、けほけほと咳き込んでしまう。心なしか青年がますます呆れたような顔をしているような気がする。

 その時、今度は少し遠くから声がした。

「チガヤ、君も無事か」

 ロキの声だ。はっとして視線を巡らせれば、青年の後ろ側、泉の淵にロキが立っていることに気が付いた。

「君だけ泉から上がってこないからヒヤリとしたぞ。寄り道でもしていたのか?」

「けほ……えっと……寄り道と言いますか、何と言いますか……」

 口篭もりながらよくよく辺りを見れば、ロキの背後にはアルテとエリックもいた。二人ともぐったりした様子で座り込んでいるが、怪我をしたわけでもないようで、ともかく全員無事ではあったようだ。

 その証拠に、地面に手をついて項垂れているアルテが呻くように声を出す。

「所長……休暇申請を出していいですか、一週間ぐらい」

「いいぞ。ご苦労だったな、ゆっくり休め」

「ついでに特別支給金も要請します! ヤケ食いでもしないと生きた心地がしませんから! はぁ……」

 一通り喚いて少し落ち着けたのか、アルテは立ち上がると先に観測所に戻ると言い、一礼してから駆け足で泉を後にする。少し遅れてエリックもそれに続き、残ったのはロキとチガヤと、青年だけになった。

 青年はじっと、ロキを見る。ロキは少し罰が悪そうに視線を逸らした。

「なんだよ、その顔。ちゃんと無事に流れ着けたんだから良かっただろ…………あー、わかったよ、お前をアテにして悪かった。もうしない」

 チガヤがいる位置からは青年の顔は見えないが、なんとなく怒っているのだろうということは窺えた。青年としても、泉に流れ着けるという確証がないのに崖から飛び降り川に身を投げる選択をしたロキには、いろいろと思うことがあるようだ。呆れたように肩を落とし、溜め息を吐いている。


 と、ふいに青年が、チガヤへと手を差し出した。

 泉の中で尻餅をついた格好のままだったチガヤはハッとして、青年の手を取る。意図は当たっていた様で、青年にぐいっと引っ張ってもらって立ち上がり、手を繋いだまま泉から陸へと足をかける。

 瞬間、ふわりと温かい風が吹いた、気がした。

 実際には風は吹いてなかったが、水を含んで重くなった服が軽くなり、濡れて服にはりついていた髪が揺れた。

 つまり、ずぶ濡れだった体が一瞬の内に乾いたのだった。

 驚いて自分を見下ろしていると、様子に気付いたロキが青年を指差しながら説明をしてくれた。

「こいつが乾かしてくれたんだよ。こんなでも一応は神だからな。これぐらいの奇跡は簡単にできるらしい」

「そ、そうなのですか……奇跡……」

 そういえば最初に出会った時も、ずぶ濡れだったドレスがいつの間にか乾いていた。あれは青年のおかげだったのか。と、そんなことを考えている間に、青年がするりと手を離して背を向ける。

 もう用は無いとばかりにそのまま小屋の方へと歩き出してしまった為、咄嗟にチガヤは声をかけた。

「あ、あの」


 しかし、すぐにしまった、と思う。

 青年のことを何と呼べばいいのだろう。名を知らない。否、神だから、名がないのかもしれないし、名があったとしてもそう易々と呼んではいけないのかもしれない。

 けれど『邪神』と呼ぶのは抵抗があった。あの狂信者たちと一緒だなんて思われたくない。

 悩んでいる間に青年は行ってしまう。深く考えている時間はなく、思い付いた言葉を、そのまま口にした。


「あ、あのっ、火神ひかみ様」

 

 青年が足を止めた。

 振り返った彼は、僅かに目を見開き、驚いたような表情をしていた。

 そう呼ばれることを、まるで想定していなかった、とでも言いたげに。

 青年のそんな反応にチガヤも戸惑うが、すぐに気を取り直して頭を下げる。

「ありがとうございます。泉から引っ張り上げてくださったのと、服を乾かして頂いたのと、えっと、それから――」

 他にもいろいろ言いたいことがあったのだが、最後まで言えなかった。

 下げた頭に、ぽん、と何かが乗る。

 それが青年の手のひらだとわかるまで、少し時間がかかった。

 いつの間にか青年がすぐそこに移動している。頭から離れた手を追いかけるように頭を上げれば、青年の顔が間近で見れた。


 瞳の中に、ゆらゆらと不規則に揺れる炎が見える。決して荒々しくはなく、静かに揺れる炎は、穏やかなのにどこか寂しげな印象を受けた。


 その両の目の炎が、一度だけ、大きく揺らぐ。

 チガヤはハッと我に返って、もう一度頭を下げた。次に頭を上げた時には青年は背を向けていて、もう振り向くこと無く小屋の中へと入っていく。

 ホッと息を吐く。後ろを振り向けば、ロキが何かを思案するような顔でこちらを見ていた。

「ロキさん?」

「ああ、いや……君もあいつに声をかけられるんだな、と」

「? どういうことですか?」

 意味がわからず、首を傾げる。

 ロキも何故か首を傾げつつ、その問いに応えた。

「俺も感覚がわからないんだが、エリックたちによると、あいつを前にすると声が出なくなったり身動きが取れなくなったりするらしい」

「え、そうなのですか?」

 先に帰ると言ってここを離れたアルテとエリックを思い出す。そういえば二人とも、どこか様子がおかしいような気がしたが、あれは青年がいたからなのだろうか。

 ロキはふむ、と腕を組む。

「俺の前任だった先代所長もあいつを前にすると何もできなかったと報告書に残しているし、もしかすると、泉に流れ着いた者は何かしらの耐性があるのかもしれないな……そうなると一人目の漂着者であるグレイス氏はどうだったのか……流石に資料には載っていなかったと思うが……」

「あの、でも、ロキさんも普通に声をかけてますよね? 流れ着いた人というのでしたら、どうしてロキさんは大丈夫なんですか?」

「ん?」

「え?」

 きょとんとした様子でロキは瞬きをする。

 そして、ああ、と納得したように口を開けた。

「……そういえば、君にはちゃんと言っていなかったな。漂着した二人目なんだよ。俺は」

「二人目? えっと……泉に流れ着いた二人目というと、赤子で……」

「赤子だったのは二十五年前の話だな。漂着して孤児院に預けられた後、二代目所長のラルフ・エルドランに養子として引き取られてな。その養父が亡くなった後、エルドラン家とここの所長を引き継いで……うん、まぁ、二十五年も経てば、こうもなるだろ」

 自身を指差すロキに、チガヤの思考はすぐには追いつかなかった。

 二十五年前に泉に流れ着いた二人目は赤子で、その赤子が成長して、二十五年が経って、ロキがその二人目だと言うことは――

「……お、大きくなられて……?」

「盛大に戸惑っているのはわかるが、第一声がそれか? ありがとう」

「えっ、それじゃぁ、ロキさんが火神様に対してあんな不躾な態度をしているのは?」

「あいつが俺の拾い親だからだな。まぁ、他にも理由はあるが」

「崖から飛び降りる時に、私がまた泉に流れ着くか検証するって言っていたのは?」

「俺自身の検証も兼ねていたな。すまん、それは言いそびれていた」

「…………は、はぁ……」


 驚きすぎて受け止めきれない。

 一気に疲れを感じて、チガヤは曖昧な返事しかできず、脱力した。


 ×××


 観測所の出入り口からではなく泉方面から帰ってきたチガヤたちを、観測所で留守を任されていた者たちが盛大に驚き、経緯と結果を報告し合っている間に、日はとっぷりと暮れていた。

 チガヤはまたエルドラン邸に居候することになった。故郷は無くなり、狂信者の集団に顔を知られていることを考えると故郷付近に戻るのも危険であるため、暫くは観測所の管轄で保護するという方針になったようだ。今後の身の振り方は追って相談しようということで、チガヤは先にエルドラン邸へと送り返された。

 屋敷の中ではプリシアに温かく出迎えられ、そしてチガヤが疲労困憊でぐったりしている様子に、こちらでも盛大に驚かれた。


「チガヤさん、また顔色が悪いわよ? ――え、泉の中にいたから体が冷えている? まぁ大変! 今すぐお風呂に入ってらっしゃいな」

「は、はぁ……」


 ということで、チガヤは屋敷に到着して早々に身ぐるみを剥がされ、温かい湯船の中に放り込まれたのだった。

 浴槽は見たことがないぐらいに大きくて広く、思わず縮こまっていたチガヤだったが、湯の温かさにだんだんと緊張が解れていった。おそるおそる体から力を抜いて浴槽の淵にもたれかかり、ホッと息を吐く。

「ふぁ……あったかい……」

 今日は本当にいろいろとあった。

 最初に泉に流れ着いたあの日以上の激動であったと思う。緊張しっぱなしだった体は疲れ切っていて、湯船の温かさが身に染みる。

 そうして一日を振り返りながらぼんやりとしていると、ふいに広い浴槽の端の方で、ぱしゃん、と音が鳴る。

 続いて聞こえてきたのは、声だ。

「あー、いたいた。こんなところにいたの」

「ふぇっ」

 油断しきっていたところに声をかけられ、チガヤは硬直する。

 しかも聞き覚えのある声だ。今日、水の中で聞いた、あの声に違いない。

 折角解れていた体が驚きで固まり、水音が鳴った浴槽の端に顔を向ける。

 そこには想像通り――いや、想像よりは小さく、手のひらほどの大きさになっていたが――真っ白に輝く魚がいた。

 どこから入ったのか、突然現れたその魚はすいすいと浴槽を泳いでくると、水面から顔を出してチガヤを見上げる。

「あら、どうしたの? 口なんて抑えちゃって」

「……っ」

 叫びそうになって、咄嗟に手で口を塞いだのである。ただでさえ音が反響する浴室で叫び声をあげてしまえば、プリシアや使用人夫妻が飛んできてしまう。

 声を飲み込み、ふるふると首を横に振って、なんとか深呼吸する。心臓の音がどくどく高鳴っているのが少し落ち着くのを待ってから、チガヤは改めて白い魚を見た。

「……えーと……水神様、でいいのでしょうか……?」

「そうよぉ。もしかして知らずにわたしの中に飛び込んできたの? あそこにわたしがいなかったら溺れちゃっていたというのに、最近の人間は命知らずねぇ」

 水面から顔を出した魚――水神が、小首を傾げるような動きをする。

 村の崖から川へ飛び込んだことを言っているのであれば、水神がいるとわかって飛び込んだわけではないので、確かに命知らずだと見られても仕方ないだろう。反論のしようが無く、うぅ、と唸ることしかできない。

 代わりに、チガヤは頭を下げた。

「あの、川に落ちた時に水神様が助けてくださった、ということですよね? ……お礼が遅くなりましたが、ありがとうございます」

「あらあら、良い子ねぇ。神にちゃんと感謝を言える子は好きよ。でも、それよりもあなたにお願いしたいことがあって来たのよ。あなた、あの子のお嫁さんになってくれない?」

 心なしか、水神の顔部分がキラキラと輝いているように見える。

 この問いは、水の中でも聞いていた。チガヤは体をきゅっと縮こませて肩まで湯に浸かり、目線をできるだけ水神と合わせた。

「あの子、というのは誰のことですか?」

「泉で貴女を引っ張り上げた子よ」

「ということは……火神様、で合っていますか?」

 湯船の中で水神はゆらゆらと揺れる。少し間を置き、尾で水面をぱしゃぱしゃと叩く。

「……あの子のことを、わたしたちはそう呼べないの。半分はそうだけれど、半分は違うのよ。だから、わたしたちはあの子のことを神とは呼べない」

「え、あの、私、あの方のことを火神様と呼んでは駄目だったのでしょうか?」

「いいえ、あなたは別。せめてあなただけでも、あの子のことをそう呼んであげて。今のあの子は、邪な信仰で歪んでしまっているの。このままだと更に歪んで手遅れになってしまうのよ。だからその前に、あの子のお嫁さんになってあげてくれない?」

「……えーと……」

 質問内容が一巡して戻ってきてしまった。

 チガヤは頭を悩ます。この問いは、言葉通りに受け取ってしまっていいのだろうか。

「お、お嫁さん……ですか……?」

「あなた、最初はわたしの花嫁になるために飛び込んできたのでしょう? でもわたしにお嫁さんは必要ないから、代わりにあの子のお嫁さんになってあげてよ」

「いえ、あの、私が川に飛び込んだのは、生贄になるためでして……」

「もー、同じ事じゃない! これはわたし、水神からのありがたぁいお告げよ? じゃぁ、頼んだわねぇ!」

「え? まっ、待ってください水神様?! そんな、頼まれましても、私――っ!」


 チガヤの静止は叶わず、一方的に喋り倒した水神は、水面で飛び跳ねてぽちゃんと湯船の中に入った後、溶けるように消えてしまった。

 何度か呼びかけても出てきてくれる気配はない。現れ方も突然だったが、消え去り方も突然だった。まだちゃんと、やれると返事をしたわけでもないのに。

 チガヤは呆気にとられて肩を落とし、よろよろと浴槽の淵にもたれかかった。

「……ど……どうしよう……」


 生贄をやめて、生きることになったら、今度は嫁入りを強制されてしまった。

 痛くなる頭ではどうすればいいのかわからず、チガヤは湯に口元まで沈んでぶくぶくと盛大な溜め息を吐いたのだった。


  第一章 生贄少女 完

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死にたがり邪神と嫁入りした生贄少女 第一章 生贄少女 光闇 游 @kouyami_50

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