二章 贄姫②

 いつの間にか、窓の外が明るくなっていた。

 うすあおく染まった空気の中で、夜間に降り積もった新雪が、夜明けの光に照りえている。

 はるか遠く、北の空にそびえるせつれいりようせんが、金の陽光にゆっくりとふちられていく──

(結局……あれからいつすいもできなかった)

 こんな風に、ひとときも目をそらすことなく夜明けのそらながめたのはいつぶりだろうと、ニーナは重いまぶたこすりながら考えた。

 一日の始まりが、こんなにもれいなものだなんて知らなかった。

 のぼり、世話役の女官達が部屋に現れた。一晩中、いてに張りついていたせいで、身体が冷え切って動かない。彼女達はそんなニーナをだんの側で温め、髪をき、柔らかな風合いの毛織のドレスを着付けていく。

 温かい朝食も運ばれてきたが、空腹なのに食べる気がしなかった。硝子ガラスの皿の上で湯気を立てる鹿しか肉から目をそらしたとき、どこかなつかしいかおりがこうをくすぐった。

 見ると、逃げれば殺すと言われたあのじゆうじんの青年が、ティーテーブルでお茶をれている。

 彼はニーナと視線が合うと小さく微笑ほほえみ、椅子をすすめた。

「おはよう。食事が食べられないなら、代わりにどうかな」

 表情は穏やかだが、青年の眼差しから憂いの色は消えていない。

 ニーナは、ふるえるくちびるをぎゅっとみしめた。

「……毒でも飲ませるつもり?」

「いいや。これはこうそう茶といって、この国で広く好まれている飲み物だよ。温かいうちに、どうぞ」

 言いながら、彼は毒味のつもりか別のカップに同じものを注いで飲み干した。

 生まれて初めて目にする、獣人の国の飲み物だ。だいじようだろうかといぶかしみながら、どこかでいだ覚えのある香りにさそわれた。

 席につき、恐るおそる口をつけてみる。

「……美味おいしい。ふんわりと甘くて、さわやかな野花の香りがする。不思議ね。はじめて飲んだのに、そんな気がしないわ」

「気に入ってもらえて、よかったよ。香草茶は、長く厳しい冬を乗りえられるように、春にんでかんそうさせた草花や果実をお茶にして楽しむ風習なんだ。このお茶に使った花の香りには、不安や悲しみをやわらげ、へいおんあたえる効果がある」

 少しでも君の心が落ち着くように、とつぶやく青年に、ニーナは名をたずねた。

「ファルーシ」と彼は答えた。

「……ファルーシ。貴方はきっとやさしい獣人だろうから、言っておくわ。私が逃げなかったのは、私がそう決めたからよ。だから、この先、私の身になにがあろうと、貴方のせいだなんて思わないで」

「……っ!」

 ニーナの言葉に、翠緑の瞳が戦慄いた。

「どうして、そんなことを……僕がかせになっていなければ、げられたかもしれないのに」

「枷にされたのが貴方じゃなくても、私は逃げなかったわ。……それに、私はまだ」

 まだ、あきらめたわけじゃない。

 そう口にする前にとびらが開き、白銀のかみの獣人が姿を現した。

 ──ヴォルガだ。相変わらず、すき一つない冷厳な態度だ。彼は部屋に入るなり、感情のいつさいうかがえない金のまなしでニーナをつらぬいた。

「逃げなかったのだな」と呟かれた、その声のあまりの冷たさに、おさえていたいかりがせきを切った。

「……逃げられるわけないじゃない!! 私は貴方とはちがうのよ! 自分のために他人の命を犠牲にする、貴方のようにはなりたくなかったの……っ!!」

 一晩中、胸の中でうずいていた気持ちを言葉にしたしゆんかん、必死で押し殺していたなみだあふれ出した。

きよう者っ!! 人間をい殺すなんて、そんなひど真似まねをしてまで、貴方はどんな力が欲しいっていうのよ……っ!?」

 一度涙を許してしまったら、なげく心を止めることはできなかった。

 ほおを伝うしずくぬぐうこともせず、泣いて、泣いて、ひたすらに涙をこぼすニーナを、ヴォルガはなにも言わずに見つめ続けている。

 まるで、自分に与えられたばつを受け入れるかのような、るぎないまなしだった。

 やがて、溢れていた涙もれ、ていこうする気力もくした頃、ニーナの手にヴォルガの手のひらが重なった。

 それでいい、と彼。

「お前は、俺をにくめばいい……いくらでも、憎めばいいんだ」

 ヴォルガは放心したニーナを連れて部屋を出た。ろうを通り、王宮のさらに奥まった場所へといざなっていく。

 彼の歩みが止まったとき、辿たどり着いたその場所で、喰い殺されてしまうのだろう。

(──こわい)

 歩くたびに、足が震えた。かなうなら、今すぐにこの場からいなくなってしまいたかった。

 しかし、ヴォルガに続いて廊下を歩むニーナの背後には、ファルーシがついて来ている。

「……ここだ」

 入れ、とうながされたのは、銀砂をまいたような雪の庭に囲まれたはくきゆう──そのさいおうしんしつだった。

 外は真冬だというのに、室内はおどろくほど暖かく、純白のをはじめとする大輪の生花でかざられている。へきめんくす、数えきれないほどの本の背表紙。見たこともない玩具おもちやや、絹のドレスを着た美しい人形達に囲まれて、部屋の中央に寝台が置かれていた。

 高いてんじようから下がるレースのてんがいに手をかけ、ヴォルガは静かにそれを開いた。

「──妹のハティシアだ。今年で十歳になる」

 絹の寝台に横たわった少女の姿に、ニーナはハッと息をのんだ。

 部屋に差す光にけてしまいそうな、骨と皮ばかりの身体だった。まくらに乗った顔はろうのようで、瞼を閉じたそうぼうも、頬も、うすが骨格に沿って落ちくぼんでいる。かいはくの髪はつやを失ってかわききり、枯れた花びらのように縮んだ獣耳は、すでに役割を果たしていない。

 ただ、しぼんだ唇からこぼれるかすかな呼吸だけが、必死に生をうつたえていた。

〝──にえひめの血肉は、獣人に大いなる力を与え、ばんのう薬になるとされている。〟

 しようからたくされた手紙の文面がよみがえった。

 ずっと、不思議だった。

 王という身分にありながら、ニーナが逃げるたびに、ヴォルガが自ららえに来たのはなのか。

 仲間の命を枷に使ってまで、ニーナを喰らわねばならない理由はなんなのか。

 心の中で、これまでのすべてがつながった。

貴方あなたは……妹を助けるために、私を」

「……そうだ。お前の養い親がこの手紙で伝えた通り、ウルズガンドには千年の昔より伝わる贄姫の伝承がある。その血肉は獣人に大いなる力を与え、万病を治す万能薬になると。俺は、そのせきの力で、ハティシアの命を救いたい」

 ヴォルガはふところからそら色の小さなぬのぶくろを取り出し、ニーナにわたした。

 ここに来る前に、師匠からおくられた御守りタリスマンだ。

「ハティシアは、生まれたときから不治の病におかされている。獣人でありながら獣気がきよくたんに少なく、きよじやくで、食事すら満足に取ることができない。長年、国中の医師が原因とりよう法を調べてきたが、獣気は回復せず、そこを尽きかけている。いずれは死に至るだろう」

「獣気、って……?」

 聞きなれない言葉に思わず問い返した。これまで散々、ニーナの言葉を無視し続けてきたヴォルガである。返答は期待できなかったが、ニーナを向いた月色の双眸はしんで、さげすむような冷たさは感じられなかった。

「……獣気とは、獣人の力の根源だ。神の聖域を守護するために獣神より与えられた、獣人のみが持つ力のことを言う。獣気を高めれば、身体能力や五感、自己力をおおはばに向上させることができるが、逆に、減少すれば能力を失い、体調をくずしてしまう。通常は、肉を食べれば回復するが、ハティシアの身体からだは肉を受け付けない。ここ数年は、意識を保つことすらあやうく、発熱とこんすいり返している有様だ。──だが、それも今日までだ」

 ヴォルガは長身をかがめ、ニーナの前にひざまずいた。

 まるで神にでもいのるがごとく、すがるようなまなしを向けてくる。

「情け深きアルカンディアのひめぎみよ。どうか、名前を教えてくれ」

「……ニーナよ」

「ニーナ。俺は、お前に感謝している。この世界に生まれて、今まで育ってくれたことに。なによりも、おのれの命よりも我がどうほうの命を尊んでくれたことに。だから、理由も知らせずにあやめるのではなく、その身で繋ぐ命の形を伝えたかった。どうか、我が妹ハティシアのために、その命をささげて欲しい。生まれてすぐに母親をくし、生きる苦しみしか知らない妹に、たくさんの世界を見せてやって欲しいんだ」

 こちらを見つめるヴォルガの顔が、ぼんやりとかすんで見えた。

 死ぬのはいやだ。

 食べられるのは嫌だ。

 でも、ニーナが贄姫として命を捧げれば、この妹姫は助かるのだろう。

 とっくに涸れたはずだと思っていた涙が、ふたたび頬を流れていく。

 この身がせいになることで、ここにいる幼い妹姫の命が救われるのならば。

 ニーナがこの世に生を受けたことに、大きな意味が生まれるのだろうか……。

 そっと、あわゆきにでもれるようなやさしさで、ヴォルガの指先がニーナのまなじりから涙を拭い取った。長くばされていたはずのつめが、短く整えられている。そんなさいな変化に、確かな優しさを感じ取ったとき。

「──……っ」

 かすかな呼吸を繰り返していたハティシアが、なにかをつぶやくようにくちびるを動かした。

「ハティシア……! 目が覚めたのか……?」

 ヴォルガの声に、ハティシアはまつふるわせ、薄いまぶたをほんの少しだけ持ち上げた。

 彼女の視線が、食い入るようにニーナに注がれる。

「──おに、い、様……ど、うか、もう……おやめ、ください……」

「なに……?」

だれしもが……望むままに生まれ、生きることなど叶わないもの……。でも、わたくしは、己の運命を、最後まで愛したい……誰も、せいになど……したく、ないのです……」

「ハティシア……だ、そんな言葉を口にするな! お前はまだほんの子どもなんだ。死など受け入れるべきじゃない……!」

 悲痛なさけびだった。

 事情を知らされたばかりのニーナの胸にも、深くさるほどに。

 誰も犠牲にはしたくない。自分が助かるために他者の命をうばいたくない。

 ハティシアが発した言葉に、昨晩、死のかげおびえ続けた自分自身の姿が重なった。

 ニーナがたった一晩でもがたかったあのきように、このわずか十歳の少女は、生まれたときから絶えずさらされてきたというのか。

 そして今、自らの命が危うい状態にあるにもかかわらず、ニーナを犠牲にするまいと訴えてくれている。

 触れれば折れてしまいそうなうでを伸ばして、苦しげな呼吸の合間から、贄姫を殺さないで欲しいとこんがんするハティシアの姿に、心が震えた。

「おに、様……お願いです……っ、──う、くぅ……っ!」

「ハティシア!?」

 骨のいた白い手が、ヴォルガに向かって力無く伸ばされる。

 しかし、指先が触れる前にせた身体が大きくけいれんした。

 たちまち、呼吸もままならないほど激しくきこみはじめる。

 ヴォルガはそくにハティシアをき起こすが、いくら背をさすっても治まる様子はない。

「ファルーシ、医師を呼べ! ──息をしろ、ハティ!!」

 ファルーシが寝室を飛び出し、それまでせいじやくに包まれていた離宮内があわただしくなる。

 ヴォルガは必死の呼びかけを続けるが、すでにハティシアの意識は失われているようだ。

 彼の腕の中からだらりと垂れ下がった、あまりにも細く、白い腕を見たとき、ニーナの心の中に、がともるように燃え立つおもいが生まれた。


(この子を──ハティシア姫を、救いたい……!)


 突き動かされるように動いた身体が、ヴォルガに抱きかかえられたハティシアにった。その手を取り、強くにぎりしめる。

 どうして、自分がそうしたのかはわからない。

 ただ、ハティシアのこわった冷たい手を両手で包み力をめたとき、ニーナは自分の手のひらから、まばゆい光があふれ出すのを見た。

 あかつきの天に差すひと筋の光条を思わせる、とうめいせいじような光だった。

(なんて、れいな光……)

 見とれるうちに、光はニーナの手のひらからハティシアの手を伝い、腕、かた、胸へと、けるように吸い込まれていく。そして、とつぜん、その身体が弓形にねた。

「──っ、は……ぁっ!」

 水面みなもから顔を出すときのように、小さな唇が勢いよく空気を吸い込んだ。

 苦しそうなえつを交えながらも、ハティシアはもとの正常な呼吸を取りもどしていく。

「よかった……」

 何が起きたのかはわからない。しかし、ともあれ一命を取り留めることができたのだと、ニーナは深いあんの息をき出した。

 ──だが、そのしゆんかん、視界が大きくかたむいた。

(あれ……?)

 足元に空いた穴へと、真っ逆さまに落ちていくようなゆうかん。全身から急激にけていく力をどうすることもできず、かたい石のゆかたおれ込むままに身を任せるしかない。

 不思議と痛みはなかった。

 意識を手放す寸前、ふわり、とやわらかなかんしよくはだに触れ、陽だまりのような優しいかおりに包まれた気がしたが、それがなんなのかはわからなかった。



   ◇  ◇  ◇


 続きは本編でお楽しみください。

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貢がれ姫と冷厳の白狼王 獣人の万能薬になるのは嫌なので全力で逃亡します 惺月いづみ/角川ビーンズ文庫 @beans

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