神在月
尾八原ジュージ
神在月
「こんにちは、神様です」
そう言いながら神様はやってきた。薄汚れたピンクのキャリーケースを引きずり、同系色のひらひらしたブラウスにスカート姿、痩せた指で艶のないピンクの髪をくりくりいじりながら、施錠したはずの玄関の内側に、所在なさげに立っていた。
わたしは壁のカレンダーに目をやった。そういえば今は
「おじゃまします」
神様はぺこっと頭を下げると、ぺったんこのローファーを脱いで、わたしのこじんまりしたワンルームにおいで遊ばした。
わたしは神様を小さなテーブルの前に座らせ、とりあえずコップに水を汲んでお供えしてみた。神様はコップを取り上げてゴクゴクと勢いよく飲んだ。おお飲んだぞと思った次の瞬間、ギュルルルルぐぅーという異音が聞こえた。
「お腹すいた……」
神様が真っ赤になってうつむいた。
わたしは急いで冷蔵庫を開けた。かろうじて食材になりそうなものはあった。豚こま肉と茄子を取り出し、適当に炒めて味噌やみりんで味をつけ、ついでに常備しているレトルトの白米をレンジで温めた。
他愛無い急ごしらえのお供えものをテーブルに並べると、神様はいただきますと手を合わせ、割り箸をパキンと小気味よく割って猛然と食べ始めた。わたしは神様が喉に食べ物を詰まらせたりしないかハラハラしながら、麦茶とインスタントの味噌汁を追加でお供えした。
神様は炒め物を平らげ、レトルトのご飯をお代わりし、味噌汁をふうふう言いながら飲み干した。最後に麦茶を飲むと、ほーっとため息をつき、それから目に見えてうとうとし始めた。よほど遠いところからやってきたのだろうな、と思った。
「神様、どうぞお休みください」
「でも、お布団がひとつしか」
「いいからいいから」
わたしが促すと、神様は素直にうなずいてベッドに入り、すぐに寝息を立て始めた。
この間にわたしは近所のスーパーに走った。やがて目を覚ました神様の前に、きれいなパッケージのチョコレート菓子や色鮮やかな外国のグミの盛り合わせをお供えすると、神様は顔中に桜色の笑みを浮かべて「ほわぁ」と声をあげた。
こんなふうにして今年の神在月は始まった。神様はわたしがお供えしたピンクの座布団に座り、サブスクで映画やドラマを見たり、窓の外を眺めたりして日々を過ごしているようだった。
わたしは普段どおり仕事に向かい、帰りは毎日のように近所のスーパーに立ち寄って食品を買った。食材だけでなく、お菓子の類もよく購入した。わたしの部屋の小さな冷蔵庫はすぐにいっぱいになってしまったが、神様がよく食べるので回転は早く、さほど問題は感じられなかった。
一週間が経ったころ、神様が突然「食費をお支払いします」と言った。
「いや、いいです。あれお供えだし」
「ではあの、せめてお米でも……」
神様はそう言うとキャリーケースを開けた。中には米袋がみっちりと詰まっていた。そこまで言うなら、とわたしはそのお米を受け取り、食卓に出すことにした。なんのブランドかはわからないが、神様がくれたお米はとても美味しかった。
毎日が楽しくなった。神様はわたしがお供えしたものは何でもよく食べてくれた。和食でも洋食でも、あっさり系でもこってり系でも嬉しそうに頬張った。
半月もすると、神様のピンクの髪は艶々になり、痩せて生気に乏しかった頬も丸みを帯びてきた。カサカサだった肌は陶器のようにすべすべになり、大きな瞳はきらきらと輝いている。普通の手料理しか食べさせていないのにとんでもない美少女になってしまったなぁ、とわたしは畏れ入った。汚れていたはずのキャリーケースやよれよれの衣類すらいつの間にか新品同様になり、わたしは改めて神様の力を思い知った。
明らかに運がよくなった。買ってうっかり忘れていた宝くじ何枚かが発見されて十万円前後の現金に変わったり、急な人事異動で職場の居心地がよくなったりと、御利益としては地味なのかもしれないが、それにしても神様というのは大したものだ。商談がとびきり上手く行った夜、わたしはスーパーで小さな鯛の尾頭付きを購入した。神様は頭の骨についている身まできれいに食べた。お酒もお供えした。甘いカクテルも辛口の日本酒も、神様はちびちびと美味しそうに、楽しそうに飲んだ。
米櫃の中身や醤油などの調味料が減ってくると、神様はキャリーケースの中から足りなくなったものをどんどん取り出して補充してくれた。調味料のたぐいは元々使っていたメーカーのものをくれるので、躊躇うことなくどんどん使った。
調味料をふんだんに使えるようになったので、普段はやらない卵黄の味噌漬けなどを作ってみた。神様は「美味しい味しかしない」と言いながら、オレンジ色になった卵黄を箸で少しずつ割って食べた。もっとパクパク食べてもいいのに、と思ったけれど、卵黄をちびちび崩す神様がとても幸せそうだったので、わたしは何も言わずにおいた。
いよいよ月末になった。神在月は終わろうとしている。神様が我が家を去る日も近い。
わたしは色々考えて土鍋を買った。最後の夜はすき焼きにしようと思った。スーパーで一番いい牛肉を買おう。それから長ねぎと白滝と春菊と――すき焼きのことを考えながら寝袋で眠る夜は楽しかった。
ところが真夜中、神様がわたしを突然揺り起こした。
「まだ夜ですよ……」
目を擦りながらぼやいていると、神様は「もう行かなければなりません」と言って、わたしに深くお辞儀をした。
「えぇ? あと二日くらいありますけど……」
「とある場所で大きな災害が起こりかけています。このままだと大勢の人が死んで、畑も枯れてしまいます。それをみんなで止めに行きます」
「でも、あの、あと二日も」
「急に発つことになってごめんなさい。ご飯、全部美味しかった。豚肉と茄子の味噌炒めも、お味噌汁も」
神様はわたしが作った料理を早口で挙げていった。わたし自身忘れていたようなものさえも数え上げ、全部終わると息を切らして「――おいしかったです」と付け加えた。
「そんな、明後日はすき焼きなのに」
わたしは寂しくなって駄々をこねた。「お鍋買ったのに。明後日はいいお肉を買うのに」
そう言って鼻水をすすった。涙がとめどなく流れた。
神様も小さい子供みたいにべそべそ泣いていた。せっかくの美少女が台無しだった。神様は泣きながら、例のピンクのキャリーケースからお米や味噌や醤油を取り出し、「よかったら使ってください」と言いながら床の上にどんどん並べた。それから華奢な腕を伸ばして、わたしをぎゅっと抱きしめた。ピンクの髪から、たとえようもないほどいい匂いがした。
「――ありがとう。またいつか、神在月に」
そう言うと神様は立ち上がった。もう泣いてはおらず、神々しい力がその表情に満ちていた。片手にキャリーケースを、もう片手にローファーを持って窓を開け、神様は夜空に向かって飛び出した。見る間に少女の姿は一筋の光へと変わり、星のまたたく彼方へと飛んで行った。
わたしは開きっぱなしの窓に駆け寄って空を見上げた。あちこちから同じような光の筋が飛んできて夜空を駆け、今しがた神様が去っていった方角へと揃って消えていった。
神在月 尾八原ジュージ @zi-yon
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