蠱毒姫番外編 がんばれアウゲちゃん

有馬 礼

かえるさんコースへの道

 身分の高い者は往々にして我儘である。そして大抵の場合、己の我儘に対して無自覚である。

 蜥蜴型魔族の執事頭メーアメーアは古今東西変わらぬその真理を噛み締めつつぺろりと眼球を舐めた。


「今なんと?」


「や、だからさ」


 魔王ヴォルフは立派な執務椅子の肘掛けに肘をついて脚を組み替える。


「南の島のリゾートに行きたいんだよ。そのために、泳ぎの練習をしたいんだよね」


 メーアメーアは気持ちを鎮めるために反対側の眼球を舐めた。


「……練習などせずとも泳げるのでは? 先代陛下に毎日のように城の裏の池に投げ込まれていたではありませんか」


「うん、おれはね。姫さまだよ、姫さま。わかってるくせに話を逸らすなよ」


「本気ですか」


「冗談言っているように見える?」


「そうとしか見えませんが?」


「ねーお願いだよー。おれ、その時間作るためなら真面目に頑張るからさぁ」


 ヴォルフはメーアメーアを拝む。


「その言葉を信じるためには『実績』がありすぎますが?」


「今度こそ真面目になるからさあ〜」


 ヴォルフは現在過去未来の全世界の酒飲みと博打うちの口癖を口にする。


「はー……」メーアメーアは壮大なため息をついた。「わたくしは本当に愚か者ですよ」


「いいの!? やったぁぁぁ」


 ヴォルフは両腕を天高く突き上げる。


「それで、誰に指導をお願いしたらいいと思う?」


「……市民プールにでも行っていればよろしいのでは?」


 メーアメーアは捨て鉢になっていい加減に答える。

 後ほど、メーアメーアは己のこの迂闊な発言を死ぬほど後悔することになるのだった。



 たまたまその日その時に勤務していた気の毒な市民プールの職員は、滅茶苦茶なことを言い始める美男美女を前に戸惑いをあらわにした。


「ではまず、こちらの申込書に……。市内にお住まいの方、でよろしかった……ですよね……?」


 コーチも兼ねているらしいジャージ姿の女性はプールカード発行申請書をヴォルフとアウゲのそれぞれに差し出す。


「あと、ええと……それから……奥様……は、まったく水泳の方はなさったことがないということでしたが」


 2人とも市民プールにふさわしいラフな格好をしているが、この2人に着られるとスーパーで売っているジャージすらもハイブランド製に見える。眩しい。節電の目的で間引かれていた蛍光灯が久しぶりに全て点灯したようにフロア中が明るい。この美しすぎる2人は何者なのだろう。こんな2人がこの辺を歩いていたら気づかないはずがないのだが。そしてどう上に見積もっても20代の前半といったこのカップルは、夫婦なのだという。


「そうなんだよ。だから、水に慣れるところからお願いしたいんだよね」


 綺羅綺羅しい微笑みを浮かべ、僅かに首を傾げて夫が答える。子どもの頃は輝くような金髪だったのだろうと思わせる暗めの金髪がさらりと揺れる。


「姫さまって、水に潜れます?」


 そしてあだ名(?)が「姫さま」……。職員の女性は目眩を覚える。


「やってみたことがないからわからないわ」


 人形が動いているのではと思わせるような、長い銀の髪に水色の目のお姫さまが答える。猫目気味の水色の目はいかにも意思が強そうなのに、かといってギラついたところはない。あくまでも上品だった。


「それですと、大人の方向けのクラスはなくて、お子さんたちと一緒に受けていただくことになってしまうんですが……」


 この場違いな2人が彼らにふさわしい場所へ去ってくれないかと女性は心底願うが、残念ながらそうはならなかった。


「ええ、いいわ」


 いいのか。


「では、こちらの講座申込書にもご署名を……。あとこの『あひるコース』は基本的に未就学のお子さまを対象にしておりまして、通常保護者の方のプール内での付き添いが必要ですが、さすがにそれは……」


「やるよ、もちろん」


 夫が白い歯を見せて笑う。やるのか。眩しい。


「コースは随時受付ですので、次回のあひるさんコースの日からご参加いただけます。月に1度の進級テストに合格すると、次はかえるさんコースに進級し、という風に進んでいきます」


 記入された申込書と引き換えに「市民プール水泳教室のご案内」を妻に手渡す。


「わかったわ」


 お姫さまは優雅な手つきでそれを受け取った。この格安コピー用紙に印刷された素人作の案内は、いつからお城のパーティの招待状になったのだろう。



 その日の市民プールは異様な緊張感に包まれていた。「あひるさんコース」にこの世ならぬ美男美女カップルがやって来る。その噂は、コースのちびっこたちの保護者であるママ達に光速を超える速さで伝わった。


「ね、来たよ、あれじゃない?」


「絶対そうだ。眩しい。眩しすぎる」


「あたし、既に寿命が3年延びた……」


 ちびっこたちのママは、市民プールにはどう見ても場違いな2人がやってきたのをみて囁きあう。ママたちの背後の壁を灰色のトカゲがちょろりと走った。


「やあ皆さん、待たせちゃったかな。今日からよろしくね」


 スポーツ選手もかくやというような惚れ惚れする肉体美を惜しげもなくさらした夫が一同に言う。2人ともなんの変哲もないフィットネス用の水着を着てきちんとスイムキャップを被っているのに、今にもシャンデリアの下で踊り出しそうに見えるのはなぜなのだろう。


「素材がいい……」


 ママのひとりが思わず漏らす。

 スイムキャップに髪を全てたくしこんでいて化粧もしていないというのに、内側から光を放っているようなこの眩しさはいったいどうしたことなのだろう。


「おねーさん、大人なのにあひるさんコースなの?」


 ピンクの水着を着た女の子が言う。一瞬空気が凍りかけるが、当の本人は全く気にかけていないかのように優雅に笑う。


「ええそうよ。よろしくね」


「あたし、ひなちゃん。おねーさんは?」


「アウゲよ」


「アウゲちゃん。いいお名前だね」


 ひなちゃんがにかっと笑うと、前歯が一本抜けている。


「ありがとう」


 異様な雰囲気に怯えながらコーチの男性が声をかける。


「あ、えーと、あひるさんコースのおともだち……じゃなくて、みなさん……?」


「やあ、初めまして。きみが『コーチ』だね」


「あ、はい……ワタナベと申します。ギーゼンさん……ですね?」


「そう。よろしくね。妻のアウゲがお世話になるよ」


「よろしくお願いしますね」


 フィットネス用のセパレートタイプの水着を着たお姫さまが微笑む。あれ、これってちょっとしたパーティにも行ける格好なんだっけ……。


「えと、ギーゼンさんは大人なので、プール内の付き添いは特に……」


 やる気満々の夫に向けてなんとか言葉を発する。


「ああ、気にしなくていいよ。みなさんと同じで構わない」


「そう……ですか……?」


 彼の美しい妻も笑顔で頷いている。まあ……本人たちがそう言うなら……何も言うまい……。ワタナベコーチは自分の背景に宇宙が出現するのを感じた。集中、集中だ。自分の仕事に集中するんだ。

 プールサイドでの準備体操、シャワー、水慣らし……とレッスンはつつがなく進む。そう、相手は大人なのだ。水に怯えて泣き喚く初参加のちびっこのことを思えば。泣き喚いたり逃げ出したりしないだけいいじゃないか。そう、その調子だぞワタナベ、とコーチは自分を鼓舞する。


「じゃあみんな、後ろ向きに、足からゆっくり水に入るよー! おうちの人も一緒に!」


 自分のペースを取り戻したコーチは元気よく言う。異色の受講生ギーゼンさんの「おうちの人」も先に水に入ってエスコートしている。エスコート?


「じゃあ、まずはお顔を水につけて、鼻から息をだすよ! 怖いおともだちは、おうちの人に手を握ってもらってね! いくよ! せーの、ぶくぶくぶくー!」


 ワタナベコーチは今日が初受講のギーゼンさんの様子を見る。夫妻は両手を繋いで、ゴーグルをつけた妻の方はどうにか浅く顔を水につけて、夫は微笑みながらそれを見守っている。映画でこういうシーンあったような……いや、ない。あるわけがない。頑張れ、ワタナベ、気をしっかり持て。


 ……怒涛の初日が終わった。何事もなかった。なかったが、この消耗の仕方は大会後に匹敵する。コーチはげっそりしながらあひるさんコースのみんなを見送った。


「じゃ、姫さま、ロビーのところで待ってます」


 更衣室の入り口で「ご主人」が手を振って別れる。


「ええ、あとでね」


 「奥さん」も微笑んで手を振りかえした。


「アウゲちゃんもお姫さまになりたいの? ひなちゃんも!」


 ひなちゃんが一本欠けている前歯を見せて笑う。


「そうなのね」ギーゼンさんの奥さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、それについて何か言及することはなかった。「そういえば、ひなちゃんは水に浮けるのね! 驚いたわ」


「簡単だよ! アウゲちゃんも早くできるようになるといいね! ビート板でプールの端まで行けたら、かえるさんコースになれるんだよ! ひなちゃん、次のテストで合格目指してるんだ!」


「すごいわ」


「えへへー」


 ひなちゃんは得意げに笑う。その隙を突いてひなちゃんのママが子どもをダシに、代表して話しかける。


「あの、ギーゼンさんはこちらは長いんですか……? 日本語がずいぶんお上手だから……」


「こちらには、ちょっとした休暇で」


「あ、ああ……ちょっとした休暇……」


 王妃から返答を受けた隣国の王妃ことひなちゃんのママは気圧されながら頷いた。


「あの、一緒にいたのは……?」


 ひなちゃんのママを押しのけるようにして別のママがアウゲの前に進み出る。


「ヴォルフですか? 彼は私の伴侶ですわ」


「あ、は、伴侶……。そうですか……伴侶」


 その隣の国の王妃ことなっちゃんのママもカクカクと頷いた。



 周囲をざわつかせながらも、ギーゼンさん夫妻はそんなことは全く気にせずあひるさんコースを真面目に受講した。どこかの国の王妃ことアウゲちゃんもみるみる上達し、進級テストを受けられるまでになった。


「アウゲちゃん、がんばれー!!」


 既に合格を決めているひなちゃんが立ちあがって、両手をメガホンにして叫ぶ。


「がんばって!!」


「アウゲちゃん!!」


 同じくなっちゃんとたっくんも立ちあがる。

 アウゲはあひるさんコースのおともだちに向けて手を振った。額に上げていたゴーグルを下ろし、ビート板を構える。


「じゃ、いきますよ!」


 最近ようやくギーゼンさんのオーラに慣れてきたワタナベコーチが笛を口に咥える。


 ピッ!


 短く笛が吹かれ、アウゲはプールの底を蹴って泳ぎ出した。


「アウゲちゃん!」

「がんばって!」


 おともだちの声援が起こる。


「姫さまーーーー!」


 その声をかき消す大声でヴォルフが叫んでいる。アウゲは声援を背中に受けて前に進んだ。やっとプールの半分。必死に脚を動かす。もう少しでロープの色が変わる。あと少し。負けてたまるものか。必ず合格する。そしてひなちゃんとなっちゃんとたっくんと一緒にかえるさんコースになる。アウゲは自分を鼓舞する。初めは水に顔をつけるのも怖かった。お風呂に入るのは好きだが、水に潜るなど考えたこともなかった。頭のてっぺんまで水に潜れとワタナベ卿が言い出した時は彼は蛮族の王なのかと思ったが、それも乗り切った。そして人間が水に浮くなど到底信じられなかったが、今では漂う板切れもかくやという具合で浮かぶことができる。自分を誇るべきだ。

 とん、とビート板に軽い衝撃がある。泳ぎ切った。合格だ。

 アウゲは足を底につくとゴーグルを上げて、あひるさんコースのおともだちに手を振った。


「ねえねえヴォルフくん」


 なっちゃんが座っているヴォルフの肩をとんとんと叩く。


「うん?」


 ヴォルフはなっちゃんの方に顔を向ける。


「ヴォルフくんて、なんでアウゲちゃんのこと『姫さま』って呼んでるの? アウゲちゃんって、プリンセスなの?」


「んー? アウゲちゃんはね、おれのお姫さまだからだよ」


「ふーん、そうなんだー」


 なっちゃんは意味がよくわからずとりあえずそう返事をしたが、その後ろで意味がわかるママたちは将棋倒しになっていたのだった。

 


 魔界の王妃のサロンで、メーアメーアは心を鎮めるためぺろりと眼球を舐めた。


「嫌よ。だって、ひなちゃんとなっちゃんとたっくんと約束したのよ。一緒にかえるさんコースになるって。プールは辞めないわ」


 アウゲはソファから身を乗り出して言う。


「左様でございますか……」


 普段は抜け目ない執事頭の、珍しい仕事上の失敗だった。

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