鶺鴒(せきれい)荒野を行く
オボロツキーヨ
武蔵野グリーンカレー
紺色ジャージの少年の
武蔵野市のとある公園のベンチに座っている。
リフティングの自主練習に疲れてひと休み。
ぼんやりと細い
雲一つ無い。
怖いくらい青い秋晴れの下で深呼吸をすると、空に吸い込まれていく。
青空を舞台に赤や黄色の葉が、木漏れ日と風を
閑静な住宅街の中の小さな公園に、滑り台と砂場とブランコが設置されていた。
周囲は桜やコナラやクヌギなどの木々に囲まれている。
東側にある入り口から、少しいびつな形をした園内が見渡せた。
「ここが一番落ち着くな」
枯れ枝のような色の、ささくれだった木のベンチの背もたれに、手足を投げ出し、ぐったりと寄りかかる。
四人がけの木のベンチは全部で六基。
正面入り口から入ってすぐ左手に二基、南側の奥にある丸い砂場の近くに四基。
少年はいつも砂場の近くのベンチに座る。
日曜日の午前中だが、幼子を連れた家族の姿も無い。
「あっ、くーちゃん、だめ、こっちおいでー」
静かな公園に女性の声が響く。
その直後に「キャー」という悲鳴を聞いた気がして、少年は
「えっ、誰かいる?」
首をかしげながら右横を向く。
自分が座っている木のベンチの端に小学生ぐらいの少女が、ちょこんと座っていた。
グレーのジャージを着て、ベンチの上で膝を抱えて、怯えた様子で背を丸めている。
背に細長いポニーテールが垂れ下がり、震えていた。
「いつの間に誰?」
だが、そんなことは、おかまいなしで黒いシュートボールと化した犬がゴールネットを揺らすように、少年の胸に勢いよくに飛び込んで来た。
ゴールキーパーとなって落とさないように、弾む犬の熱い筋肉を薄い胸で受け止める。
犬はズンと膝に乗り、上機嫌でじゃれついてくる。
「おお、くろすけ。いつも元気だな」
顔をベロベロ舐められながら、はしゃぐ犬を落ち着かせようと抱きかかえて、背や顎下を撫でた。
黒いふさふさとした長い毛と
三角の顔。
三角の耳がピシッと立っている。
まるで、黒い小狐のようなミックス犬。
「僕は犬に好かれる」
犬も人を見るんだなと思い、笑みがこぼれた。
「おはよう。ごめんね。リードから手を放しちゃった。普段は大人しいんだけど、公園にいるリュウくんに気づいてたみたいで、急に走り出して公園に飛び込んで行ったのよ。びっくりしたでしょう」
「ぜんぜん。久しぶりに、くろすけに会えて嬉しいです」
「リュウくんのことが、大好きなのよね」
飼い主の近所のおばさんは、笑いながらリュウという名の少年の膝から、くろすけを引き離すと、軽く頭を下げてゆっくりと立ち去って行った。
くろすけが去り、リュウは我に返る。
それにしても、わざわざ同じベンチに座わるなんて。
他のべンチが空いているのに。
この子も僕のことが好きなのか?
くろすけのおばさんは何も言わなかったけれど、デートしていると勘違いされたかもしれない。
リュウと少女は同じベンチの端と端に無言で離れて座っていた。
少女はまだベンチの上で、膝を抱えて丸まっている。
「キミ、犬が怖いんだね。でも、もう行ったよ」
リュウは緊張しながら、その背に声をかけた。
「犬嫌い。それから黒い生き物が大嫌い」
透き通るような甲高い声だった。
膝を抱えてリュウに背を向けていた少女は、黒いスニーカーを履いた小さな足をストンと地面に下ろして、座り直す。
「リュウくんっていう名なのね。時々公園で見かけるわ。いつも一人でサッカーの練習しているよね」
少女は妙に親しげだった。
「え、キミ見たことないけど、家はこの近所? でも、同じ中学じゃないよな」
少女は顔も体も小さかったが、どうやら小学生ではないようだ。
色白で丸顔、つぶらな瞳。
こんな可愛い子は、今まで見たことがないぞ。
少なくとも、うちの中学にはいない。
年下に見えたけど、もしかして高校生か?
「あたしのことはレイって呼んでいいよ」
「うん、わかった。レイはどこの学校?」
「学校は行ってない」
「えっ、そうなんだ」
リュウは言葉に詰まる。
「ねえ、ところで、リュウくんは武蔵野グリーンビルのカレー屋へ食べに行ったことある?」
「えっ、あるよ。ビルの名がそのまま店の名だよな。緑色の細い四階建てのビルで、皆<ムサグリ>って言ってた。ムサグリのカレーは家族でよく食べに行ってたよ。駅から少し歩くよね。種類はビーフとポークと野菜しかなくてさ、ビルの一階のカウンターだけの狭い店だけど、
リュウは鼻の奥がツーンとしてきたが、泣くもんかと思う。
「あの店主のおじさんは、鳥好きだったのよ」
レイも悲しそうに目を伏せた。
「そりゃ、焼き鳥は旨いからな」
「そうじゃなくて、野川公園とか武蔵野公園とか、あちらこちらで野鳥の観察していたってこと」
「ああ、そうか。でも、武蔵野グリーンビルの屋上から飛び降り自殺するなんて驚いたよ。五十歳だったって」
初対面なのに、
親しみやすい、いい子なのだと思う。
「ムサグリは<東京カレーオリンピック>になんてエントリーしなければよかったんだ。
「そういえば、おじさんは最初の頃は不正はしていないと言いきっていたわね」
「そう、店の入り口に張り紙があった」
「そんなの覚えてない」
「僕ははっきりと、覚えているよ<
「もし優勝したら、世界的な有名店になれるのよ。新しくビルを建て替えることができるくらい、たくさんの賞金がもらえる。だから、おじさんはどうしても優勝したくなって、組織委員会に三百万円の賄賂を渡した。あの一階にお店のある四階建ての武蔵野グリーンビルは、もう古くて傾きかけていたし。数十年前におじさんのおじいちゃんが建てたビルよ」
「うちの母さんは、関さんは自殺じゃないと言っているよ。東京カレーオリンピックには、大手広告代理店や悪い政治家たちが群がってドロドロしていた。関さんはその悪い奴らの秘密を知ってしまったから、そいつらに自殺に見せかけて武蔵野グリーンビルの屋上から突き落とされた。消されたって」
「えっ、リュウくんのお母さん鋭いね。そうだよ。おじさんは自殺するタイプじゃない」
「母さんも常連客だから、性格がわかっていたのかも」
リュウはため息をついた。
「ねえ、真相を教えてあげようか」
「えっ、何」
「おじさんはね、ビルから突き落とされて殺されたのよ」
「ネットに噂が載ってた?」
「違うわ。あたしが目の前で見ていたの」
「嘘だろ。明け方、早朝の事件だぞ」
秋風に吹かれて、レイのポニーテールが揺れた。
リフティング練習で汗を吸ったTシャツが冷えて、リュウの体が凍りつく。
「そうだったわね。でも、辺りはもう明るかった。
おじさんはね、東京カレーオリンピックの黒幕じゃなくて、身内に殺されたのよ。自分のカレー店の店員に突き落とされたの。カレー修行中の弟子で、若い体の大きなヒカルという名の店員が一人だけいたでしょう。武蔵野グリーンビルに住み込みで働いていた奴よ。
あの日、珍しく、明け方までおじさんと店内で飲んでいた。朝日を拝もうということで、ビルの屋上へ二人で上がった。
ヒカルは、おじさんのことをカレーの神様のように思っていて、心から尊敬していた。だから、おじさんが審査員に賄賂を渡したことが、どうしても許せなかった。人としての誇りはどこへ行ったとか、料理人として恥ずかしくないのかと、
レイは自分が見たという惨劇を無表情で淡々と語る。
「レイは一体何者だ。関さんの娘か?」
「違うけど、そんなようなものかな。おじさんには、ヒカル以外に家族と呼べるような人はいないけど、あたしも、おじさんに可愛がってもらった。美味しいパンを食べさせてくれた」
リュウは無言で、レイの愛くるしい横顔を見つめる。
そういえば、笑顔を見せてくれない。
白い頬と黒髪に触れたいと思ったが、そうすることによってレイが消えてしまいそうな気がして、がまんした。
「でも、人って不思議ね。信頼や命は無くしてしまったら、もう二度と元には戻らないとわかっているくせに、大切なものをすぐに壊してしまう」
レイの言葉にリュウは心の中で「そうだね」と言い、青空を見上げて深呼吸をする。
いつの間にかベンチから離れて、レイが公園を散歩していた。
重力を感じさせない軽い足取りで、左右の足をちょこちょこと前に運ぶ。
か細い後ろ姿だが、決して頼りないわけではなく、しっかりと土を踏んで行く。
それは、尾の長いほっそりとした小鳥の姿だった。
淡いグレーの体に白い顔。
頭と胸と尾と足は黒い。
楽しげに誘うように、黒く細長い尾を上下に揺らす。
軽快で愛嬌たっぷりの後ろ姿。
人を怖がらずに近寄ってくる小鳥。
「なんだ、レイは
リュウは、か細い小鳥の後ろ姿を目で追う。
「僕は鳥にも好かれる」とつぶやいてみた。
この公園の小石が、鶺鴒には岩に見えるのだろう。
危険な冒険者。
小さな鶺鴒にとっては、武蔵野の公園すら荒野。
数羽のカラスが騒々しく鳴いている。
空からレイを狙っているに違いない。
守らなければ。
「カラスたち、絶対にレイの荒野に降りてくるなよ」
リュウは、ジャージを脱いで頭上で振り回す。
了
鶺鴒(せきれい)荒野を行く オボロツキーヨ @riwa
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