生きる力

めへ

生きる力

ようやく終業時間になり、健也は帰宅準備を始めた。

他の職員は皆、まだ終わらない仕事をしばらくやってから帰るだろう。

彼らはどんなに忙しくとも、健也に仕事を振る事は無い。

理由は彼がΩだからだ。


大学を卒業後、健也はΩ雇用制度によって、この会社に就職した。

仕事内容はメモ用紙用の紙を切る等の、やってもやらなくても良いような雑用で、大抵がすぐやることも無くなり、じっと席に座っているだけになる。


部署の多くの職員はβだった。

彼らが健也にまともに仕事をさせないのは、気遣っての事ではない。

無能なΩに任せては、逆に仕事が遅くなる、トラブルが起きるからという危惧と偏見からだった。


酷く疲れていた。何もしていないからこその、嫌な疲れだ。


以前は朝から疲れていた。おそらく精神的な理由であろう。

そしてようやく終業しても、明日からまた地獄が待っていると思うと気が晴れなかった。


そう、気晴らしを見つけるまでは。


独自の気晴らし方法を見つけてから、健也の人生は変わった。


以前は劣等感と被害者意識で凝り固まっていたのが、今は周囲を、Ωへの残酷な社会のあり方を、かなり寛容な目で見ることができるようになった。





今日はこいつにしよう


健也はある男の後方数メートルを歩いている。


暗く、そして人通りも無い。


この辺りは痴漢がよく出るとされ、それだけに見通し悪く、人気も無かった。

住宅も無い。周囲は手入れのされていない竹林だ。


男の事は事前に調べておいた。βの会社員だ。

健也にはそれだけでじゅうぶんだった。


素早く走り寄り、隠し持っていたカナヅチで頭部を思い切りぶん殴る。


前のめりに倒れたところを、またしつこくぶん殴った。何度も、何度も。

暗くてよく見えなかったが、ひょっとしたらぐちゃぐちゃになった脳ミソがむき出しになっていたのかもしれない。


死体を放置し、カナヅチを忘れずに仕舞って帰宅した。

心は晴れやかで、世界が美しかった。

鼻唄を歌いながら風呂に入り、明日の楽しみを思いながらぐっすり眠った。





ある晴れた日、鬱々とした気分を引摺りながら、健也は会社の屋上に来た。


この時間帯、屋上にいるものはまずいない。

来るとすれば、閑職以下の暇人である自分くらいだった。

精神的疲労から、人気の無い場所で日の光を浴びたくなった。


ところが思いがけず先客がいた、絶体絶命の状態で。


何かあったのか、ふざけてみたとしか考えられない。

彼は屋上のへりに両手でやっとしがみついている状態で、その手が離れれば真っ逆さまに落ちてしまう、そういう状態だった。


健也は彼に、ゆっくりと近寄った。

健也の存在にホッとした表情を見せた彼は、社内で知らぬ者はいない、有望株、まさにエースとされる社員。もちろんαだった。


健也は、残酷な喜びで胸がいっぱいになるのを感じた。

口角が上がり、目が細まる。

きっと今の自分は満面の笑みをたたえているに違いない。笑顔になれたのは何年ぶりだろうか。


しかし目の前のこの男は、自分が笑顔を失っている間もずっと、きっと物心つく頃から笑顔でいられたに違いないのだ。

何もかもが思い通りに上手く運び、これからもそんな人生がずっと続く、そう信じて疑わなかった。


自分の様な人間を踏みにじりながら。


健也はまず、片方の手を足で振り払った。


男は信じられない、という顔をし、片方の手では体重に耐えられず落ちていった。


急に心配になり周囲を見回した。誰もいないのを確認すると、強い達成感や優越感を感じ、体に力が漲った。


α、社内のエース、思い通りにならない事は何も無かった、あの男の命を掌中にしたという優越感。


今までの絶望や劣等感、社会への憎悪が一気に晴れ、世界が美しくなり、健也は初めて神に感謝した。



その日から、健也の人生が変わった。


毎日帰宅途中、目を付けておいたβないしαを殺害する。

日々の精神的疲労は軽減され、周囲に対して寛容になれた。



そして今日もまた、今度はαを殺す予定になっている。

αはβよりも引っかけ易い。

健也はΩなので、出会い系アプリを使えば容易に獲物は見つかった。




獲物を始末し、晴々とした気分で車に乗った。


考える事は、明日の獲物をどう殺すかだ。


今の自分はさぞ殺気だった目をしている事だろうと思い、バックミラーを見ると、意外にも澄んだ、そして泣きそうな、悲しそうな目をしていた。寂しそうにも見えた。


自分は悲しいのだろうか、寂しいのだろうか。


しかし寂しさや悲しさでは生きていけない。


喜楽を奪われた自分には、怒り憎しみに縋って生きるしか無いのだ。


健也はサイドブレーキを下げ、車を走らせた。


車は深い闇の中へ消えていった。


















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