よふかし

色澄そに

ひとりぼっちの青年

 ゆらり。ゆらり。



 何にもないから、何にもないのに、理由もなく久々のよふかし。

 青年はひとり、リビングのソファに沈んでいる。

 時計の針はさっき、午前二時を指した。

 電気もついていない夜の部屋を、カーテン越しの月明かりが柔らかく、青白く照らす。


 まるで水中にいるようだ、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。



 青年はひとつ溜め息。

 遠くで虫の鳴く音がする。

 高らかに、自慢げに、俺はここにいるぞ、と。

 カーテンを少しだけ開けてみたら、絵に描いたように綺麗な満月だった。

 空気が凪ぐ。

 ここからはよく見えない、けれど確かにある荒々しいクレーターが。

 夜闇に滲む、淡い黄色の仄かな月光が。

 窓の外の夜を支配していた。


 借り物の光のくせに、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。



 海中を飛翔する白鯨。

 ああ、この、今この瞬間にも。

 どこかの海の中を、大きな鯨が泳いでいるのだろう。

 ああ、この、今この瞬間にも。

 遠い遠い遥か彼方の真っ暗闇を、大きな惑星が悠然と回っているのだろう。

 そんなことに思いを馳せると、ちょっとだけ世界を掌握しているような気がしてくる。

 でも。


 僕だって生きてるんだよな、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。



 瓶詰めの心。

 生きている青年は、生きている青年の世界しか知らない。

 青年が聞いた音しか知らない。

 青年が見た景色しか知らない。

 青年が抱いた感情しか知らない。

 昼間、青年とおしゃべりをしたクラスメイトの言葉が、そのクラスメイトの全部を表しているわけではない。

 クラスメイトの彼は嘘だってつけるし、自分でも気づかないうちに隠していることがあるかもしれない。

 彼の表情が、行動が、彼の全部を表しているわけではない。

 彼は無理して笑うことだってあるかもしれないし、そもそも青年は、青年の前での彼の振る舞いしか知らないのだ。

 彼を知りたいと思っても、知ることができないのだ。


 少しだけ寂しいな、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。



 クラスメイトの彼が発した言葉を、彼の青年の前での振る舞いを、青年がそのまま受け取れているのかだって定かではない。

 青年だって今の今まで生きてきた。

 選べなかった生命で生まれて、数多の選択を繰り返して。

 そうやって積み重ねてきた『今日』がある。

 たぶん人間は、自覚的にも無自覚的にも、その経験が己の思考の判断材料として最も大きなウエイトを占めている。

 だから。

 自分の経験というフィルターを通して、クラスメイトの彼が発した情報を切り捨てたり、付け足したり、ねじ曲げたりしているかもしれない。知らぬ間に。

 経験は一人ひとり違うものだから。誰ひとりとして、青年と全く同じ経験を積んできた人間なんていないから。

 青年が聞いた音は、青年にしか聞こえていないのかもしれない。

 青年が見ている景色は、他の人には違って見えているのかもしれない。

 そうではないかもしれないけれど、そうではないと言い切ることもできない。


 庭の楓の枝についている雨粒のほうが、よっぽど素直にこの世界を映しているな、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。



 青年は少しだけ怖くなった。

 そう考えていたら、怖くなった。

 他にホンモノの世界があるような気がしてきた。

 青年が生きている世界が、ニセモノであるような気がしてきた。

 ひとりぼっち。

 青年の世界を知っている人は、青年自身ただ一人。

 ひとりぼっち。

 どれだけ多くの人に囲まれていても、青年はひとりぼっち。

 怖くなった。

 自分だけホンモノの世界から切り離されているような。


 僕がそうなら、他の人だって、一人ひとりがひとりぼっちなんだろうけれど。

 でも、他の人がどうとかじゃなくて。

 自分の世界を一生誰かと共有することができない事実に、怖くなった。



 ゆらり。ゆらり。



 そのとき。

 青年は浮いた。浮かび上がった。

 静かに。ゆっくりと。気球のように。

 身体が宙に浮く感覚は、不思議とそんなに気持ち悪くはなかった。

 天井はまるで無いものみたいに通り抜けることができてしまう。

 屋根に掴まろうとしたけれど、手は宙を切った。

 そのままぐんぐん夜闇を昇って。昇って。


 青年は、しん、と静まり返る冷たい夜の中に。

 ひとり、ぽつんと浮いていた。

 夜の冷たい風が頬を撫でた。ひんやりと、気持ちが良い。

 眼下に広がる青年が生活する街。

 上からみると、なんだかいつもと違って見える。

 頭上には、幾つかの星。

 街明かりで数はそんなに多くはないのだけれど、一つひとつは力強く光り輝く。

 それが青年には。

 僅かに涙で潤んだ青年の目には。

 万華鏡のように、煌めいて見えた。



 ゆらり。ゆらり。


 

 これは、僕の世界だ。

 ひょっとすると、僕しか知らない。

 ホンモノではないかもしれないけれど。

 でも、僕にはこれしかない。

 これしかないなら。

 これしかないから、これが『ホンモノ』だと、しばらくの間は騙されてみるのもいいのかも。

 自覚さえあればいいのかも、と青年は思った。



 ゆらり。ゆらり。


 

 ゆらり。ゆらり。



 青年は目尻に滲んだ涙を拭った。


「……あっ」


 月がゆっくりと明日に沈んでいって。

 朝日の代わりに、地平線を橙色に染めたのはみかんだった。



 ゆらり。ゆらり。



 ゆらり。ゆらり。




 

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よふかし 色澄そに @sonidori58

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