6.青い季節のあとで

 子どもたちがみんな帰ったあとのグラウンドを、ベンチに並んで座った由木とぼんやり見つめていた。ちょうど昼時のせいか、時おり後ろの土手を走る人がいる程度だった。整備し終えた野球場には誰もおらず、まぶしい太陽が地面を照らすばかりである。


 由木から渡されたスポーツドリンクのペットボトルを見つめ、弥生はため息をつく。

「もう」

「えっ?」

 少し苛立ちが混じったような声に、帽子を取ってタオルで汗を拭っていた由木は手を止めた。タオルを頭から被るような格好で、弥生の方を見る。

「怒ってる?」

「怒ってないけど」

 勿論、弥生の頭にあるのはさっきの出来事だ。頬を膨らませて、隣の由木を見上げる。由木は弥生より頭一つ分高い位置に顔があった。

「みんなの前で話しかけたら、あんな風になるでしょ」

 由木は黒目がちの目を大きく見開いて、ゆっくりと二度まばたきして見せた。そうだ、抜け出して話すならともかく、敢えてみんなが集まっているところで声をかけなくても。


「あのさ」

 由木はなにか言いかけたまま、視線を弥生から青い空へと移した。弥生も釣られるように、空を見上げる。見事な五月晴れの空には、初夏の太陽がキラキラと輝き、真っ白な綿雲がたなびいていた。

「ネズミの解剖。あれ、すごかったよね」

 なんの脈絡もない会話に、弥生は振り返って隣の由木を見る。それに気づいた由木も弥生を見た。さっきまでの笑顔が消えていた。

「まあ、あれは……」

 突然の話だったが、弥生はなんのことを指しているのかすぐに分かった。それほど衝撃的な出来事だったのだ。


 中二の時のことだ。他の学校は魚やカエルの解剖をするが、うちはネズミで解剖をしますと理科の先生は言った。そして八人の一班に一匹づつ、薬で眠らされたハツカネズミが配られたのだった。


 生徒代々話には聞いていたが、実際にネズミを目の前にするとみんな大騒ぎとなった。


「オレ、その時自習だったんだ。そしたら誰かが、ネズミの解剖やってるクラスがあるぞって教えてくれて、興味本位で何人かと理科室を覗きに行ったんだよ」

 並んで座り、近い距離で見つめ合うことが恥ずかしかった。自分は今、どんな顔をしているだろう。メイクは崩れていないだろうか。ほうれい線は、小さな目は……由木の話を聞きながらあれこれ思うのだが、真剣な表情で言葉を続ける由木から、目が離せなかった。

 

「もう女子の悲鳴が聞こえてさ、覗いたら泣いてる子とか壁に貼り付いて怯えてる子とかいてさ。男子だって、椅子には座っているものの、全然近づけないやつも結構いたしさ」

 弥生は小さく頷いた。ピンで四肢を止められ、白いお腹を見せるネズミに、女子の多くは悲鳴を上げたのだった。そしてそれを注意する先生の声、顔を歪めた男子のうめき声。

 よく、覚えている。


「そんななか、真剣な表情で淡々とハサミを動かしてたのが南さんだった」

 由木の、弥生を見つめる目に力がこもる。すぐそばでじっとまっすぐに見つめられ、弥生のペットボトルを持つ手が、戸惑いで震えた。

「あっ」

 アンクルパンツを履いた膝の上から、ペットボトルが落ちそうになる。慌てて手を動かしてつかみ直した弥生の手に、とっさに伸ばした由木の手が重なる。

 驚いて引っ込めようとする弥生の手を、由木はペットボトルごと強く握りしめた。


 突然の出来事に、弥生はどんな顔をしていいか分からない。うつむき、ペットボトルと二人の手をじっと見つめる。耳の後ろに激しく音を立てる自らの脈を感じた。


「可哀想だと思ったのよ」

 からからに乾いた口のなかから、ようやく絞り出すように声を出す。

「解剖されるためにそこにいるのなら、一気にきちんと解剖して、そして仕組みを理解してあげないと可哀想だと思ったの」

 本当は自分だって怖かったし、逃げたかった。だけど逃げても、嫌がっても、ネズミは白い腹を見せてもうそこにいるのだ。

「おかげで、怖いとか冷血とか暫くみんなに言われ──」


「オレは、かっこいいと思ったんだ」


 弥生の言葉を、由木が遮った。手に更に力がこもる。由木の熱い節くれだった大きな手のひらを右手に感じ、弥生の心臓は早鐘のように、強く、激しく鼓動した。

「オレはカッコいいと思った。実際オレは、怖くて全然向き合えなかったし。時々裏庭のお墓に手を合わせてたことも含めて、カッコいいと思ったんだ。自分も含めて、他の誰もそんなことしてないのに」

 由木の言葉に、弥生は顔を上げる。さっきよりも真剣な瞳でじっと弥生を見つめる由木の顔が、そこにあった。

「……見てたの」

 由木は黙ってうなずいた。


 解剖が終わったあと、近くを通るたびに裏庭にある"実験動物の墓"に弥生はそっと手を合わせていた。

「昨日、ヤモリをさっとつかんで逃がした南さんを見て、南さんはあの頃のままだって嬉しくなったんだ」

 弥生はそっと目を閉じた。

 身体中を震わせるほど大きく音を響かせる心臓を落ち着かせるように、そっと息を吐いた。


「……Y、M……」


 小さく呟かれた弥生のその言葉に、由木は目を大きく開いた。

「南さんだったの」

 頬が熱を帯びていくのを感じながら、弥生はそっとうなずいた。21年越しの告白だった。


 中学に入学して、弥生は恋をした。野球部のエースで、クラスでも人気者だった由木にいつしか惹かれていた。

 だけどそれは、学校の他の多くの女子もそうだった。かわいい子、美人な子が由木に告白したとうわさが流れ、そのうちの何人かが彼女となった。特に可愛くもない、可愛げもない自分など由木と付き合えるはずなんかない──そっと遠くから眺めることが精いっぱいだった。

 それでも別々の高校に進路を決め、別れの時が近づくと弥生の中でその想いが抱えきれなくなり、たった一言を書いて由木の机の引き出しに入れた。


 ずっと好きです、と。たった一言。

 名乗ることすらできなかった。イニシャルが精いっぱいだった。


「気づいてた?」

 頬を赤らめたまま、弥生は恐る恐る尋ねた。怯え切ったようなその表情に、ふと由木の表情が緩んだ。

「三年の女子で同じイニシャルなのは、そんなにいなかったし。でもまさか違うだろうなって。そんな素振り、全く見せなかったから」

「だって……」

 想いを必死で隠していた中学時代。気づいてほしい、分かってほしい。その一方で答えてもらえないのなら気づかないで欲しい──矛盾な想いを抱えていたあの頃。

「由木くんだって、私かもって思ってるようには見えなかったよ」

「だって南さん、恋愛に全く興味なさそうだったんだもん。だからオレを好きとかありえないよなって思ったよ」

 気持ちを気づかれないように振る舞っていたのだから、当然なのだが──複雑な気持ちだった。


 初夏の、若葉の匂いを含んだ風がさらりと吹いて、弥生の黒髪を肩上で揺らす。遠くの方から子どもの誰かを呼ぶ声が聞こえた。


「ちゃんと、自分の名前を書いてたら……どうなったかな?」

 弥生の問いに、由木は緊張が解けたかのようにくしゃりと顔をほころばせた。赤く上気した頬を隠すかのように、弥生の手をそっと離し、首にかけたスポーツタオルでこめかみを拭った。


「えっと……ごめんなさいしてた」

「ええーっ!?」

 当時の自分はそうだろうと思って、イニシャルで簡潔に想いを伝えたのだから、当然なのだが。今のこの流れで、と弥生は思わず声を上げた。


「分からなかったんだよ」

 由木は首のタオルをベンチに置くと立ち上がって、右手にボールを持ってるかのように左手を添えた。そして左脚を上げて前に出し、後ろ手に回した右手をぐんと前に伸ばす。見えないボールをグラウンドの向こうへ投げた。

 ああ、あの時の由木だ。中学のグラウンドの片隅で、何度も何度も見た、由木のフォームだ。


「あの頃は可愛いなと思う子に、好きだって言われたら"なんかいいな"って付き合ってた。勿論きちんと好きなつもりでいたけど、だんだんとあれ? 何か違うぞ? ってなって」

 もう一球、振りかぶって見えないボールを投げる。こめかみから光る汗が流れ、筋を作った。

「別にその子は何にも悪くないのに、オレが勝手に嫌になって。そんな時に別の可愛い子が好きですって言ってきたら、もうそっちが良くなっちゃって」

「ひどい」

 弥生は思わずつぶやき、苦笑いをする。由木はその声に振り返り、薄く笑うとまた見えないボールを右手に握った。

「女の子も似たような感じじゃないかな。不器用で機械の分からないオレに呆れたり、虫を怖がるのを見て、なんか違うって嫌がられたりしたから。『野球のできるきっと男らしい由木』が良かったんだろう。だから野球をしてないときのオレのことは……」

「それを言ったら、私だって」


 野球以外の由木を、どれほど見てたかと思う。もし由木が野球をしていなかったら? エースじゃなかったら? どうしようもなく弱かったら? かっこよくなかったら?


「別れた妻もそうだった。みんなの言うとおり、すっごい美人で……勿論ちゃんと好きだった。彼女だってきっと。だけど野球から離れて違う姿になっていくオレを、彼女は"こんなはずじゃなかった"って言った。輝いていた頃のオレに戻ってほしいって気持ちだったと思うけど……責める彼女に、オレは冷たく当たるしかできなくなった」


 由木は見えないボールを投げた腕をゆっくりと下ろし、ベンチに座る弥生に背をむけたまま、グラウンドの向こう、緑の背の高い草が生い茂る辺りをじっと見た。


「別れて一人になって、やっぱり野球が好きなことに気がついて……一から始めたこの八年、色々考えたんだよ」

 由木は振り返り、ゆっくりと二歩歩いて弥生の前に立った。真剣なまなざしで、座っている弥生をじっと見つめる。


「あの頃は南さんのことをかっこいいと思っても、それが何なのか分かっていなかった。可愛くて女の子っぽい、好きだって言ってくれる子が好きだったんだ」

 由木は目をそっと閉じ、呼吸を整えるかのように小さく息をした。そしてゆっくり目を開けると、再びじっと弥生を見つめた。あの頃と同じ、少しつり上がった意思の強そうな黒目がちの目で、じっと。


「オレは今、南さんのその強さと真っ直ぐなところ、そして後ろに隠れた優しさに、改めて惹かれています。オレと付き合ってください」


 弥生の顔に微笑みが浮かんだ。頬を赤らめ、そっと頭を下げる。

「もちろん、喜んで」

 顔を上げると、ほっとしたかのように笑顔を見せる由木がいた。後ろの空は真っ青に輝き、辺りの青葉はそれを受けて眩しく光っていた。


 21年の時を経て、自分たちは随分と大人になった。

 あの頃と変わらないところも、あの頃とは変わったところも、これからはきっと二人で大切に想っていく──


 由木がそっと差し出した手を弥生がにぎると、体が優しく引っ張られる。弥生が立ち上がり、二人はすぐそばで見つめあう。

 お互いの笑顔が懐かしく、どこかくすぐったくなり、由木と弥生は声を出して笑った。

 

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青い季節が過ぎても 塩野ぱん @SHIOPAN_XQ3664G

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