5."she"
翌日曜の朝九時過ぎ。弥生は荒川の河川敷にいた。
昨日話しているうちに、弥生はいっそう不思議になったのだ。由木が婚活パーティに参加することが。
「婚活パーティで出会う女性には、騙されないかって心配じゃないの?」
勿論それもあるし、彼は『由木』なのだ。婚活なんてしなくたって女性が放っておかないだろうに。
「離婚して、このままじゃいけないって思って整体師の学校に通い始めたんだ。そこから独立まで無我夢中だったよ。でも最近、店がようやく軌道に乗ってきて、寂しさを感じるようになって」
「離婚してからって……八年も?!」
八年も女っ気のなかったことに驚く弥生に、由木は目を細めて、オレのことなんだと思ってるのと頬を膨らませた。それでも由木くんなら沢山女の人が寄ってくるでしょうと引き下がらない弥生に、由木はため息混じりに言った。
「野球ができる、足が早い、そんなんでモテるのは二十歳くらいまでだって。それ以降は自分から口説いたり、誘ったりしない限り、そんなに女の人と縁は持てないって」
そんなものかなあと、弥生はぼんやりとうなずいた。
「出会うのはお客さんか、子ども達の母親だし。婚活パーティにでも参加しないと、出会いはないなって」
アプリはまだ怖いし、結婚相談所はまだ勇気がなくて……と続ける由木の言葉を、弥生は遮った。
「子ども達の母親?」
その答えが、この荒川の河川敷である。
昨日の眩しい夕焼けが予報したように、今日も見事な五月晴れだった。真っ青な空に、河川敷に広がる運動場に、繁る草の緑がよく映えた。
物陰からそっと見ていようと思ったのに、ただの広場でしかない野球場にはなんの設備もなく、弥生はすぐに子どもの母親とおぼしき女性に声をかけられてしまった。
「今日からですか? それとも見学?」
「えっ、ええ」
曖昧に頷く。嘘は言っていない、見学は見学だ。弥生のことを同じ母親だと思った女性は、話を続けた。
「ここはあまり厳しくないんですよ、取り敢えず野球を楽しもうっていう」
「はあ」
親切なのか話し好きなのか、恐らく40才は超えているであろう大きなつばのついたサンバイザーを被ったその女性は、目尻に皺を寄せて微笑みながら話を続けた。
「中には厳しくて、子どもが泣きながら野球する強豪チームもあるんですけど、ここはとにかく野球が好きになって欲しいっていうことでね。でも楽しくやるうえで──」
女性の話に耳を傾けながら、弥生はグラウンドの子ども達を目で追った。
子どもたちはキャッチボールを終えて、バットを持っていた。構えからするとバント練習らしい。二、三十人の子どもが三人一組になり、一人が投げて一人がバントで打ち、もう一人が打ったボールをキャッチしている。
当たりがイマイチの子に、赤のユニフォーム姿の由木が駆け寄った。腰を落とし、子どもに何か話している。今度は後ろに回り、腕を持ってフォームの指導をしているようだ。
由木は整体院の唯一の休みである日曜の午前中に、近所の少年野球のコーチをしているという。
「また野球やってるの!?」
身を乗り出した弥生に、由木は照れ笑いを浮かべた顔の前で手を振った。
「野球やってるのは子どもだからね。オレは教えてるだけよ」
仕事の知り合いに誘われたのだそうだ。
休みの日に一人で家にいたくないという理由で五年前に始め、やっぱりオレは野球が好きなんだって分かったねと話す由木の表情は、キラキラと輝いていた。中学のグラウンドで部活動をしていた、あの頃のように。
思わずその表情をじっと見入ってしまった弥生に、由木は言ったのだ。
「明日も朝からやってるから来る? 家、近いよね」
思わずうんとうなずいてしまったが、婚活パーティで出会った男女が、立て続けに会うというこの状況はなんなのだろう。いや、単なる同級生の再会の延長か。
昨日の夜から弥生はあれこれと考えたが、答えは出なかった。妙な期待を抱きそうになると、首を大きく振ってそれを振り払った。その繰り返しである。
バントの練習が終わると、二チームに分かれて試合が始まった。周りにいた親たちは時折子どもたちに声をかけたり、手を叩いたりしている。由木はそれよりももっと、三人ほどいるコーチよりもずっと大きな声をあげ、誰よりも手を叩き、笑顔を見せていた。
低学年の子だろうか。バッターボックスに立ち、精一杯バットを振ったがかすりもせずに三振だった。それでも由木は笑顔で拍手をし、頭を撫でた。下を向き半べそをかいていた子の顔が、ぱっと輝くように笑顔になる。
中学時代も、由木はベンチからチームメイトに一生懸命声をかけていた。高校でも、例えベンチにも入れず応援席にいても、誰よりも精一杯叫び、手を叩き、チームメイトを応援していた。
投げてなくても、打ってなくても、応援席にいても、野球に一生懸命な由木は輝いて見えたのだ。
こっそりと見に行った甲子園の予選会の光景を思い出し、弥生の目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
「ありがとうございました!」
子ども達の元気な声ではっと我に返る。試合は終わり、子どもたちはホームベースをはさんで向かい合って、挨拶をしていた。わっと応援席の親に駆け寄る子どもがいる一方で、由木に駆け寄る子ども達もいた。
由木の大きな背中に飛びついたり、腕にしがみついたり。なにやらしきりに話している子もいる。他のコーチもそれぞれ子どもの相手をしているのだが、由木の人気は圧倒的だった。
「南さーん! 来てくれたの!?」
子どもが由木とはしゃいでる姿を微笑ましく見ていたのに、由木が突然声をかけてくるから、弥生は目をむいた。
「ありがとうね!」
「えっ、えっ!?」
言いながらこちらに向かってくる。周りの親たちは一斉に振り返り、由木の腕にしがみついたり、背中によじ登っていた子どもたちは、ぽかんとした顔で由木を見上げた。
突然みんなの前で話しかけられたことに、弥生はどう反応していいのか分からず慌てるばかりである。てっきり解散したあとに話すものだと思っていた。何故、今、敢えて自分に話しかけてくるのだ。
さっき弥生に話しかけてきた母親が、ちらちらと弥生と由木を交互に見る。それに合わせるかのように、今度は由木の顔をぽかんと見ていた子どもたちが弥生の方を振り返り始めた。
どんな顔をしたらいいのか。
微笑んで会釈したらいいのか。しかし由木との関係を考えたら、それも正しいのか分からない。弥生はただただ戸惑い、ぎこちない笑みを浮かべた。
「コーチのカノジョ?」
子どものなかから、とんでもない言葉が聞こえてきた。
ほら、そんな風に言われてしまうではないかと、弥生が更に体を固くした瞬間。子どもたちはわっと騒ぎ始めた。
「やったー! コーチにコイビトー!」
「びじんーびじんー」
「ねーチューしたー?!」
勝手なことを一斉に口々に叫びだした子どもたちは、嬉しそうに笑いながら由木の腕や背中をぽんぽんと叩き、なかには抱きつく子までいて──子どもなりに由木を祝福しているようだった。
一方親たちは慌てて子どもを静めようと、唇に指を当てたり子どもの口を手で塞いだりしていた。
「静かにしろ、彼女困ってるじゃないか」
由木は笑いながら子ども達をなだめる。この"彼女"は当然"she"の意味だが、"恋人"の意だと捉えた子どもたちは更に沸き立った。それをさらりと流し、由木は話を続ける。
「南さんはオレの過去の活躍をよーく知ってるんだぞ。中学の時、剛腕ピッチャーだったオレを。ねえ?」
「えっ、ええ」
由木が急に笑顔で話しかけてきて、弥生は慌ててうなずいた。
「コーチ、ホントにすごかったのー!?」
「コーチ、たくさん優勝したってホントー!?」
親たちは、なんだ同級生かと弥生への興味を失ったかのように視線を弥生から外した。しかし子どもたちは、今度は次々と弥生の方に寄ってきた。よく日に焼けた顔を輝かせて、みんな由木のことを聞きたがった。
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