子玉

色葉

左傳より

 ――若以君之霊、得反晋国、晋楚治兵、遇於中原、其辟君三舎。

 その言葉は、子玉をして戦慄せしめた。

 時は春秋、晋の文公制覇の前夜である。

 驪姫の乱により祖国を逃れた後の文公、重耳は、諸侯各国を放浪する事久しく、狄、衛、斉、曹、宋、鄭を巡り、楚に及んでいた。

 冒頭の言葉が出たのは、諸侯級の礼を以て、重耳を歓待した楚の成王が、宴席に於いて、戯れに見返りを求めた際の事である。

 子玉は、楚の将であり、姓名を成得臣と言う。子玉とは字である。

 重耳御し難し、生かすに利あらず。重耳の言を聞き、子玉はそんな感情を抱いた。

 楚が、重耳を歓待するのは、重耳を楚に留めんが為である。驪姫の乱により、晋では太子が自死に追い込まれ、重耳、夷吾は他国へ奔り、他の公子は驪姫らに殺され、驪姫とその公子も、陰謀を以て立つを快しとせぬ三公子派の大夫によって、また殺された。

 その後秦の助力を得、晋に入った夷吾が恵公として立ち、混乱を極めていた晋の内政も一応の落ち着きを見せたものの、内情は未だ穏やかならぬ陰を孕んでいた。

 楚が重耳を留めんとするのは、時期を逸せぬ為である。恵公の先君、献公は、驪姫に迷うまでは名君と呼ぶに差し支えなく、その治世の元、晋は国力を大いに高めていたのであった。

 同時に、楚も英明で鳴る成王の代を迎え、徳を敷き、恵みを施し、諸侯と交わり、周王からは南方を鎮定せよとの言葉を賜って、周辺の諸国を併呑すること千里に及んでいた。

 斉の桓公が没した今、天下に覇を唱えるは晋か楚か。斯様な時勢に於いて、楚が晋の公子を抱えていることは、天下を窺うために大きな利となりえる。

 若し恵公卒し、晋の座空しくなれば、楚は、重耳に兵を与えて晋に納れ、晋公として立たせられよう。楚兵により晋公が立ったとなれば、晋公は、楚に手向かう事あたわず、かくして楚国の覇道の妨げは廃され、諸侯の盟主として天下を恣に経営出来る。

 だからこそ、楚は重耳を諸侯並みに礼遇したのだ。

 また、重耳の放浪生活についてもそうだろう。諸侯を頼り、兵を借り、祖国に立ち返り、晋君として立たんが為に、重耳は諸国を遍歴しているのだろう。

 子玉は、そう考えていた。いや、子玉だけではない。成王も、宴席に居並んだ卿大夫も、同様に違いない。

 だが、重耳の言葉に、子玉は考えを改めざるを得なかった。

 楚に手向かうつもりか。子玉は、内心で驚愕した。三舎を避けるとは、聞き様によっては道を譲るとも取れようが、その前提として、兵を執る心積もりが、重耳にあると言う事だ。重耳の目的は、晋公として立つ事ではない、晋公として天下に号令する事だ。そしてその為には、楚と中原にて対峙する事も厭わない。子玉は、彼の言葉から、大望の片鱗を垣間見たのだった。

 ――重耳言不遜、請殺之。

 宴席の後、子玉は成王に進言した。

 飼いならせぬ虎は、仇にしかならぬ。翼を持たぬ内に葬るべきだ。そう考えての事であった。

 だが、成王は聞き入れなかった。

 ――天将興之、誰能廃之。違天必有大咎。

 奇しくも成王は、子玉と同様に、重耳の大器を見抜いていたが、胸中に抱いた感想は、真逆のものであった。

 流れに逆らえば、必ず歪む。天運のある重耳を狙った所で、成功はすまい。そうして逃れた重耳が晋公に即けば、楚は大過を免れぬ。

 成王は英明であった。英明であったが、その英明さは、天を、天命を価値判断の最優先に置く、周王朝の帝王学における英明さであった。

 王は、重耳の気宇に呑まれておいでか。子玉は内心歯噛みする思いで、王命を拝した。

 そうして幾月かを経て、重耳は秦君に請われる形で楚を出で、秦に渡った。恵公が卒し、秦国に擒となっていた恵公の太子、圉が、約を破り、晋へと逃れたのである。約定を破棄した晋に激怒した秦の穆公は、重耳に兵を与え、以て恵公の子、圉、今は立って晋君となった懐公を殺さしめた。

 その十二月、重耳は遂に晋の君座に就いた。文公である。

 奇しくも同じ年、子玉は楚の令尹に任ぜられた。

 令尹とは、商の官職で、宰相に当たる。前年の会盟における宋襄の不遜に報いた功によった人事であった。

 子玉について、その人柄を表す、こんな挿話がある。

 成王が宋を攻めるにあたり、まず子玉の前任の令尹であった子文に、演習を任せた。子文は、演習を午には終わらせ、一人も罰する事がなかった。

 日を改め、成王は子玉に演習を行わせた。子玉の演習は苛烈を極め、一日がかりで十名の処罰者を出す程であったが、その分善く兵は整っていた。

 この指揮振りに卿大夫らは大いに感激し、子玉を令尹に推挙した子文に対し祝いの辞を述べようと、その屋敷に押しかけたのであるが、未だ若い薦賈だけが遅れて、しかも祝いすら述べようとしなかった。

 子文がこれを問うた所、薦賈はこう言った。

 子玉など、無骨者で徳を知らぬ。大軍を率いれば必ず負けよう。奴を推挙した貴殿を祝せと言うならば、戦に勝ってからでも遅くはあるまい。

 後に、これを伝え聞いた子玉は、その矜持を大いに傷つけられた。

 この時子玉は、令尹に就く切欠となった件、即ち会盟の場にて宋襄を捕らえ、その領内を大いに攻めた戦の他、宋が報復に、衛・許・滕と連合して楚と戦った泓水の戦いでも、大勝を治めていた。予断ではあるが、この戦いで腿に受けた傷が元で、宋の襄公は世を去っている。

 結果論としてみるのであれば、子玉は、将として十全たる成果を残している。然ればこそ、令尹に推挙されたとも言えようが、その過程から、謗る者もいる。

 一度目は会盟の席にて、半ば不意を突く形で襄公を捕らえた上での勝利であった。

 そして二度目は、泓水渡河を宋軍に見逃され、陣立てが整ってからの勝利であった。

 薦賈め、宋襄の仁に助けられたとでも抜かすつもりか。

 子玉の心中に、沸々と、激情が煮え滾る。

 子玉は、戦場を探していた。楚国に子玉あり、天下にそう言わしめ、讒慝の口を間執するに足る戦場を。

 やがて天下の情勢は、嘗て子玉の予想した通りとなった。

 成王が、幾度目か、宋を攻めた時の事である。

 文公の下で諸侯と通じ、威勢甚だ益していた晋国は、宋を援助するとの名目で、兵を執った。

 楚と晋、春秋に覇足らんとする双雄が、遂に相見えた瞬間である。

 諸侯の盟主を決めようと言うこの戦いは、しかしあまりに呆気なく終わろうとしていた。

 ――無従晋師。晋侯在外十九年矣、而果得晋国。険阻艱難、備嘗之矣。民之情偽、尽知之矣。天仮之年、而除其害。天之所置、其可廃乎。

 過酷な放浪を生き抜いて、天に守られた晋君に、どうして太刀打ち出来様か。成王の言葉を聞いて、穏やかならぬのは子玉である。

 また天か。

 この期に及んで、形而上の条理に国運を任せる成王に、子玉は辟易していた。

 なりませぬ。ここで退いては楚の意気地なしと諸侯に讒せられるは必定、我が功等は二の次で、楚は晋と雌雄を決さねばなりませぬ。

 子玉は必死に説得するも、英明な成王には届かない。

 兵書にも言うであろう。彼我、兵力互角ならば退却せよ、勝てぬと見たら退却せよ、徳在る者を敵とするな、と。

 暗君。子玉の胸に、その二文字が浮かんだ。兵書の文言等持出すのであれば、そもあの時に、文公を、重耳を殺すべきだったのだ。

 この時、既に子玉の心は決したと言えよう。臣の進言を納れずして、不倶戴天の敵を褒めそやし、その気位に呑み込まれ、天下を描けなくなった小君主に先はない。なればここで、一人の楚人として、江湖の勇を中原に示し死ぬのも善し。

 そう決めた子玉は、成王に命に背き、退かずに残った。その兵は、成王の西軍、太子付の軍、そして子玉の手勢六百と、僅かなものであったが、これは成王が子玉の独走に怒り、兵の殆どを引き上げさせたが為である。

 そうして中原最強の晋軍と対峙した、楚人、成得臣子玉の軍は、当然の如く惨敗を喫した。後に言う城濮の戦いである。

 城濮に負け、それでも死する事能わなかった子玉は、程なくして自ら命を絶った。

 その報せを聞いた文公は、大いに喜びこの様に言ったと、左伝は伝えている。

――莫余毒也已。薦呂臣実為令尹、奉己而已、不在民矣。

 曰く、子玉が死んだのならば、私を毒するものはいなくなったと言ってよい。薦賈の如き者が令尹になったとて、己一個の事に夢中で、民の事など思いもすまい、と。

 かくして、晋の文公制覇の時代が幕を開けた。

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子玉 色葉 @suzumarubase

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