第3話 助けたかった。

 風景は、闇のように黒く、血のように赤い。

 僕の名前はトーカといった。一郎がそう僕を呼んだのだ。

 彼は、汚れという汚れを見知り切った少女、堕ちた天使とでも形容すればいいのだろうか。そんな感じがする。その一郎と黒く赤く爛れた部屋に堕とし込まれている。


「ねぇ、僕をここから連れ出してくれるために、来てくれたんだよね、トーカ……」


 一郎が言ったその言葉を心の中で反芻する。


 ここは……、


 僕は一郎に手渡された大きなガラスの破片、血のついたそれを見る。

 さっき、傍に人間の死体があったように思う。僕はそれを、あらためて確認する気にはなれない。


 壁も床も一面が黒く、闇い。漆黒だ。夜が悪意を持った時の、ある一時間帯とも言うべき情景。僕はおそらく全てを知っている。そして、知らないふりをしている。やがて、というほど長くはないある時にはすべてと向き合い、詳らかにそれと直面しなければならないことはわかりきっている。「つけ」というべきか。僕にとって生きるということは、そのようなことの連続だったように思う。


「一郎……、君を、助けに来た。」


「うん。知っていたよ。」


 一郎は知ってくれていた。信じる必要さえなかった。僕……、いや、俺だ。俺が一郎を救いに「戻って」来ること。それは或る時に於いては決定した未来だった。俺はそれを信じ、決めた。であるならば、一郎は心配する必要など、なかったんだ。


 それは俺と一郎について、自明であった。関係という言葉さえも頼りない。苦々しいことこの上ない。


 さて、猶予はもはやなかろう。


 僕は右手の指で一郎の唇と頬に触れて言った。


 言葉にすべきことなのか。する必要があるのか。それ、は今この瞬間においては……


「実に、トゥリビアルなことを、気にしてしまっていたよ。」


「知ってる。トーカ、これ夢じゃないよ」

「ああ……」


 横たわった男……、名は覚えちゃあいないけれど、知っている。


 殺したのは、俺だ。


「一郎、どうしてあの時、ここから逃げなかったの?」

 

 そう。


 俺は、


 僕は、


 男を殺して、


 警察に連行された時、


 病棟の窓、鉄格子越しに見た一朗の姿をひとときも忘れたことはなかった。

 それは「保存」であり、「記録」でもあった。

 

 一人でいても、誰といても、何かを学ぶときも、苛まれているときも、いつもずっと、ずっとずっと、俺の中には彼がいた。あの一朗のまなざしが、俺をいつでも見ていた。


 これは夢ではない、今、そう言われた。

 そうなのか。

 俺はその言葉は嘘なのではないかと思ってしまう。嘘というほどでもない。考えるに値しない程度のことだよ、という意味で呟いた言葉だったのではないだろうか?どちらにせよ、今この瞬間においては大したことじゃあない……。



「僕が逃げなかったのは……、この病院に閉じ込められていれば、外よりも寂しくはないんじゃないかって思ったから……」


 それを聞いて、彼の過酷さを、想った。

 叫ぶ声を、抑えることができそうになかった。


「いち、ろう……!」


 俺は、泣いていた。


「トーカさんのことは少しだけど伝わってきてたよ。一応、新聞とテレビはあったからね。……そう、そのガラス……、テレビだったんだよね」


「閉鎖病棟に刃物なんか持ち込めない。壁だって、豆腐とは言わないけれど、自殺できないように柔らかく作られてる。ガラスのグラスなんか、あるわけがない。何があるか考えながらテレビ見ててさ……、それが、目についたのさ……」


 一郎がくすくすと小さく笑う。

 

「ぼくよりも、トーカさんの方がずっと……苦しかったんだよね?」


「ほとんど実名報道はされなかった……。ニュースにはなったと思うけれど……。起訴はされなかった。事件はなかったことになった。だから殺人犯だと後ろ指を刺されることは、なかった。だから、俺は大丈夫だったんだ。でも、賭けだった……。一郎も俺も見てきた。人を殺しても事件にならない人はたくさんいた。『刑法三十九条、心神喪失者の行為は、罰しない。』なんて話とはぜんぜん違う。有罪でも無罪でもない。起訴されないのだから……。でも大抵、刑務所の代わりに病院に放り込まれてしまう。まさにここのようにさ。刑務所ならまだいい。懲役15年の判決ならどんなに最悪でも15年経てば出られるのだから。そうじゃない。不起訴処分だとしてもまた違う病棟に閉じ込められるリスクはあった。賭けだった……。あの男……安藤が俺を攻撃していたから、一般の病院の入院が認められたんだ……。


どうしても、俺は殺さなきゃいけなかった……」


「知ってる……。 この閉鎖病棟から、『ふつう』の世界に戻る方法はきっと、それしかなかった。だから、トーカさんは間違ってない。ぼくはそのこと、知っているから……」


「俺は見た……。世界の中にあるこの世界を。誰も知らない世界があることを知った。知らないやつは、仕合わせだ。知らないことさえ、知らないのさ。でも俺は知ってしまった。当事者になってしまった。そんな環境に堕ちたとき、人はふたつに分かれる。」


「うん。」


「あきらめる奴と、つづける奴さ。一郎……待たせてしまったけど、君を迎えにきた」



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たかった。 赤キトーカ @akaitohma

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