14.ハイドラの生贄道——虫たちの食卓

 蠢葉しゅんようの月、香描かおりえがきの日。


〈逆立つ鱗山脈〉の麓に入る。レザウァで災難に見舞われたので、大きな街道を避けて裏道を行くことにした。知る人ぞ知る〈ハイドラの生贄道いけにえみち〉で地下からの山越え。


 色褪せた灌木がまばらに生えるだけの、乾燥した山脈こちら側の入口はわかりにくい。しおれた仙人掌さぼてんに掛けられた道標をようやく見つけ、落石の影にある入口に近づくと口論が聞こえてきた。男女二人組。日差しよけの長衣を着た一人は貴族で、もう一人はその従者らしい。どうやら隧道ずいどうに入ろうとする主を、従者の男が必死に止めているのだった。

 それも無理はない。主は三十前の見目よい婦人で、しかも貴族がわざわざこの道を通る道理はない。だが婦人は後から来た自分が躊躇なく洞窟に向かうのを見るや、我慢ならぬといった口調で従者を叱りつけ、青ざめる彼を置いて、自分のすぐ後に続いた。


 洞窟に入り二十歩も行くと、生贄道の真の入口手前に無造作に木箱が積んである。淡い燐光を放つ小瓶の薬をぐっと飲む自分へ、婦人は上品に微笑みかけてから薬瓶を軽く指で弾いた。


「私は時折、自分の死にざまを考える。祖父は宴席で他人の痴話喧嘩に巻き込まれて死に、姉妹のように育った侍女の娘は道端の笑い茸で酔っ払った馬に蹴られてぽっくり逝った。私もそのうち都で割れた石蓋を踏み抜き、落ちた下水に棲みついていた竜に食われて死ぬかも知れない。竜の顎の中で、あれをやるべきだった、これをやればよかったと後悔したくはないのだよ」


〈ハイドラの生贄道〉に、人間は入れない。山中深くに埋まった怪物は、眠っていても食道に入り込む有害な異物を蠕動ぜんどうで吐き出してしまう。フアランダンの変身薬で虫に化ければ通れるが、稀に魔法の効果が切れても人間に戻れぬ者が出る。

 婦人は一息で小瓶を飲み干し、絶望顔の従者もちびりちびりと飲み終えた。

 半時あまりですっかり虫に変身した自分たちは、即席の旅の仲間として暗闇の冒険行に繰り出した。経験者の自分を案内人に据えるのには、婦人も反対せずに従者の懇願を取り入れた。


 ハイドラがいつから山の下にいるかは、魔術師、詩人、学者、妖精、古い血筋の王族や農民たちのあいだで様々に語られている。最も主流なのは何万年も昔、世界の全てが海だった時代に生きていたハイドラが、北部の氷床ができるにつれて消えていった水に取り残され、再び大洋が戻るまで大地深くで眠りにつくことにしたという話だ。

 伝説を裏付けるように怪物の喉の中はじめじめと酷く湿り、足下には水溜まりも多い。普通の洞穴より生暖かければ棲み着く生き物も現れる。人間のように大きな生物は吐き出されてしまっても、この生きた洞窟には固有の植物や茸や虫、トカゲや妖精モドキが種々雑多に寄生している。物珍しくそれらを見学する同行者二人へ、自分は色々と解説してあげた。


 触ると粘つく壁にはびこっているのは疥癬苔かいせんごけ。大小の丸い判を押したように繁茂し、一つの苔玉に触れると連鎖的に他の塊も薄紫に発光しだす。炎症に効く薬草で、特に胃痛や胸焼けに効能が高い。

 若草色の光の粒を周囲に放ちながら、ゆっくり波打つように飛ぶ六翅の昆虫はムカシカゲラ。ところどころの体液溜まりでさざめき鳴く金雀蛙きんじゃくがえると同様、光や声の美しさから愛好家が多い。人工繁殖は難しいので、持ち出せば常に高く売れる。

 たまの傷口から流れ落ちて固化した血晶けっしょうは精力剤に。洞窟内唯一の果樹・白眼しろめヤシの鈴なりの実は、見た目どおり味も生肉に似て、干せば砂漠渡りに重宝の保存食となる。


 身体の輪郭以外、完全に透明なすきトカゲを追って道を進むと、口からの食道と胃からの食道が会する支点に到達した。山脈の両側に通じるハイドラの首は四本だが、〈夙夜しゅくやの塔〉の魔法使いによれば首はもっと多いという。実際、行き止まりとなる横穴も二、三ある。その一つから、ギシギシと何か擦れるような音がして、自分たちはいっせいにぎょっとした。


 大きな青灯茸せいとうたけを掲げてよちよちやってきたのは、自分たちと同じ犬サイズのカマドウマだった。彼(あるいは彼女)は、久々に客が来たと人語を喋って喜んだ。

 案の定、元の姿に戻れなくなった地元の猟師とのことだった。高価な品々の採取のため、何度も変身していたらついに戻れなくなったという。だが猟師は別段不運とも思っていないらしく、ハイドラの体内に寄生できて一生食うに困らず済むとゲシャゲシャ笑った。


 たまの訪問者と話すのが楽しみらしい。元猟師は自分らを、ハイドラの体内で取れる様々の珍味でもてなしてくれた。

 元猟師の住処は青灯茸せいとうたけや、幽霊蜘蛛の輝く網、ほの明かりを放つ疥癬苔かいせんごけを丸めたふかふかのクッションで幻想的に飾りつけられている。奥から年季の入った茶色いかめをえっちらおっちら押し出してくると、虫は真っ黒な四つの目で試すように訪問客を見回した。


「こいつはわし自慢の熟成酒じゃ。砂漠の仙人掌さぼてんの蒸留酒に白眼ヤシの未熟な実を漬け込んで、ハイドラの唾と妖精モドキの卵を合わせて発酵させる。ハイドラの肉ひだのあいだで寝かせた七年ものじゃよ。虫の身には極上じゃが、人間の鼻と舌には劇物らしい。さて、どうかな? 人の身では味わえぬ、天の園の夢をわしと一緒に楽しむ度胸のあるものは?」


 蓋を開けた途端、甕の口から名状しがたい色彩の蒸気が天井まで立ち上った。覗き込むと中身は紫と緑のどろどろで、腐ったような刺すような臭いは吐き気を催すどころではない。虫の嗅覚で考えても、とても飲める代物とは思えない。


 しかし元猟師はさっさと手酌で飲み始め、さも旨そうに舌鼓を打って再び一同をぐるりと見渡す。虫の顔に表情は見えずとも、ニヤついているのがわかった。

 自分たちは顔を見合わせた。従者の男は訊くまでもない。触覚をぷるぷる震わす彼の隣で、じっと考え込んでいた婦人がついに決断し、宣言した。


「私は遠慮する。これは後悔しない!」


 自分は飲んだ。


 飲み下すまでに三回はえずいたが、不思議なことに、我慢して酌を重ねていくと臭いは気にならなくなった。味には病みつきになった。舌先では黄金の蜜のように甘く、飲み下したあとには厳冬の朝に似た気持ちのよい痛みが残った。

 はらわたの中で熱を持ち、多少の幻覚作用もあるようで、物みな全てが輝かしく、鮮やかに変わり始めた。天井には朧バエの幼虫が万色の星図を瞬かせ、暗くじめついた怪物の体内がまるで巨匠の芸術品に満ちた宮殿に見えてきた。


 かすかに蠢く柔らかい肉床は、毛足の長い深紅の絨毯じゅうたんに。その隙間に歪んだ銀の鏡が落ちていて、波紋の狭間に異界を見せる。あたりを浮遊する発光虫たちは色とりどりの生きた燭台。天井からしたたる澄んだ雫が奇妙なレリーフを壁に刻み、それはやがて世界が海に覆われていた時代の歴史を語り始める。怒れる神々と怪物どもの壮大な戦い。鉦鼓草しょうこそう金雀蛙きんじゃくがえるのオーケストラがいよいよ劇的に高まって、やがて眠りから醒めたハイドラの太い咆哮が闇の彼方から押し寄せる——。


 自分と元猟師は酒甕が空になるまで飲み明かしたと思ったが、素面でいた同行者たちによると、五杯目を飲みながら二人ともひっくり返って痙攣したようだ。


 惜しまれつつ元猟師の宴席を辞す。変身薬の効果は一日半ほど。ちょうど密林側の口に出たところで効果が切れ始めた。全員無事に人に戻る。従者が泣いていたようだが、見ないふりをしてあげた。

 元猟師に、人に戻るまでによくよく口をゆすいでおくよう言い含められたので、そうした。おかげで胃から来る悪臭に食欲を削がれるのは三日で済む。

 もし口をゆすいでいなかったら、あの味を人間の舌でも試せたろうかと言うと、貴族婦人は信じがたい目つきで自分を眺め、首を振った。そして自分の勇敢さ、あるいは無謀さに敬意を表したとかで、青い石のついた指輪を一つ譲ってくれた。

「いつか必要になる薬代に」と言って彼女は笑った。


 最初の分かれ道で二人と別れる。

 それぞれの背嚢はいのうは〈ハイドラの生贄道〉のお宝でいっぱいになっていた。彼らも自分も、しばらく路銀には困らない。

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客人の月、風待ちの日 鷹羽 玖洋 @gunblue

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