おまけ

「それで、君はその男の子と過ごして何を得たんだい」


 喫茶店を出た私は、駐車場に向かって歩きながら美奈に聞く。美奈は賢い人だ。私がこの情勢下において帰国する便を手配できなかった間も無為に過ごしていないという自信があった。この人は簡単に”自分”というものを崩す人間ではない。


「あなたに言われたいくつかの資格と……新たな客観的視点」


「何に対する客観的視点だい? 」


「セックス」


 駐車場に止められているのは古い型式のクラウン。車が車だけに少し値段は張ったが、条件を満たしておりかつ手早く借りられるものはこれしか存在しなかった。しょうがない。私は精算を済ませると運転席のドアを開け、クラウンに乗り込む。


「あのテープは持ってきた?」


「もちろん。忘れるわけないでしょ」


 美奈からカセットテープを受け取り、カーステレオに挿入する。私がこの車を借りた理由がこれだ。カセットテープを流す機能がついていること。その他の機能なんてどうでもよかった。私は二年ぶりの美奈との再会をこのテープで迎えるつもりだったし、その義務があった。


 私も美奈も、このカセットテープが大好きだった。ちょうど美奈が生まれたころに発売されたカセットテープで、あるDJの厳選したソウルミュージックが九十分間、とめどなく流れ続ける。このテープを流しながらいろいろな場所に出かけたのが懐かしい。ただ湾岸線を流すのだってこのテープさえあればいつも違う刺激を感じられた。時間帯や季節によって異なる日差しや天気、細かな枝分かれごとに流れを共にする様々な自動車……。あの”流れ”における車たちは、まるで人と人との出会いのメタファーのようだ。誰かもわからぬ者たちの動かす車種だけを互いに見て、運転によって互いの呼吸をはかり、何を言うでもなく別れていく。我々はこの音楽を通して”社会”というものに接続していたのだと思う。


「ごめんね、帰るのがこんなに遅れるとは思わなかった。半年のはずだったのにな」


「ううん、私もいろいろ一人でやれることやってみたし。気にしないで」


 喫茶店の前の大通りは大小、色もさまざまな自動車で溢れていた。だが、このテープを流してさえいればどんな時間も心地いい。私は助手席に座る美奈が同じように心地よく感じていることを無言のうちに悟った。


「このテープ、家じゃ流さなかったのか」


「楽しみはしかるべき時まで取っておくことにしているから」


「素晴らしい」


 素晴らしい。やはりひとりで過ごさせることは彼女の内面に多少なりとも変化を及ぼしたらしい。二年間私が彼女に教えてきたことはしっかりと彼女の自信に繋がっていた。自分というものを保っている人間は、希望に向かって自分自身を変えていくことができる。彼女は立派に自分自身を成長させることができたのだろう。


 信号が青になった。前の車が動き出したのを見てゆっくりとアクセルを踏む。せっかくの再開の日だ、回りたい場所がいくつもあるだろう。忙しい一日になる。だが幸い、私たちには時間があった。この世界を二人で味わい尽くすのに、十分な時間が。


「ところで、その男の子はなんて名だったんだい」


「ケイよ。安住、ケイ」

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2/3 部屋 @inuda

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