2/3 部屋

主文

「冷蔵庫にあるもの適当に食べていいからね、今日はちゃんとお昼食べるんだよ? じゃあ、行ってくるね」


「んー、行ってらっしゃい」


 バタン、と扉の閉まる音の少し後、鍵の閉まる音が聞こえ、そして鍵がしっかりとかかっているかノブをひねって確認する小さな音が続く。一日の始まりだ。ちょうど朝のニュースが終わり、テレビからは朝のドラマのさわやかなオープニングが流れ出す。この時間は大抵テレビをつけっぱなしにしているけど、あまり内容は覚えていない。というか見てすらいない。テレビを流したままにしているのはこんな朝から部屋が無音だと寂しいからだ。


 スマートフォンでタイムラインをチェックする。続々と流れてくる「おはよう」というツイートにいいねを押し、リプライをつけることなく公開ツイートでおはよう、と反応していく。半分以上は女の子のアカウントだ。もちろんその全員と1回は通話して女の子であることを確認済み。男に反応するのは気が向いたときだけ。自分で言うのもなんだが、男よりは女の子の方が仲良くなれるからだ。そんなことをしているうちに仲の良い女の子はみんな起きてきて仕事や学校の準備にかかったようで、タイムラインの更新も減ってくる。ツイッターを閉じてゲームアプリを開く。


 スマホにはいくつかのソシャゲが入っている。どれも基本無料でプレイできるもので、もちろんレアなキャラクターを引こうと思ったら相応の課金は必要だが、今の俺にはそんな金はない。始める時のリセマラで引いた割と強いキャラをずっと使いまわしてストーリーを進める程度がやっとだ。最近ではスタミナを使い切ることも減って、それぞれのソシャゲのログインボーナスをもらってすぐ閉じることもしばしばだ。今日は……やっぱりやる気が起きない。


 テレビはいつの間にか主婦向けの便利な情報をまとめる番組に変わっていた。ツイッターを開き、「眠いし二度寝しよ」とツイートする。実際には二度寝なんてしない。あるアカウントへの合図だ。ツイートにいいねがつき、通話用のアプリから着信があった。


『寝るなーーー! 』


「ふふっ、おはよ」


 同い年の女の子だ。今は確か関西で一人暮らししながら大学に通っている。元から仲はそこそこ良かったのだが、ある晩に通話した時、酒の勢いでわちゃわちゃとしているうちに、二度寝しようかな、とツイートすると必ず通話をかけてくれるようになった。通話してないで大学行かなくていいの、と言うと、大抵「うーん、今日はだるいし午後からでいいかな」と返ってくる。単位は危ないらしいが留年はまだしていないらしい。


―――


『今日もお昼食べないの? 』


「ん? 」


 通話を繋げたままだらだらと過ごしていたらいつの間にかお昼前だった。この子とはいつも十二時半ごろまで通話を繋げているから、もちろん俺があまり昼ご飯を食べないことを知っている。


「あー、いいかな……お腹空いてないし……」


『も~、ちゃんと食べなって』


「ひとりだと食べる気が起きないんだよね」


『はぁ……養ってあげられるなら私が養ってあげたいくらいだよ……関西来ないの? 』


 もちろんお腹があまり空かないのも事実だが、自分からご飯を食べようとしないというのは結構女の子にらしい。皆世話を焼こうとしてくれるのだ。今住んでいるこの部屋だって、俺が借りている部屋ではない。部屋の主、美奈は、俺をここに住まわせてくれるどころか、ご飯だって作ってくれる。頭が上がらない。


 美奈は三つほど年上の女性だ。朝早く家を出て、朝から夕方までコールセンターで、日によってはその後居酒屋の閉め作業までアルバイトをしている。平日の日中はほとんど家にはおらず、今日も帰ってくるのは23時頃になるだろうか。居酒屋でシフトが入っていない日は資格の勉強をしている。何の資格だったかは……忘れた。対して面白そうな資格じゃなかったことだけは確かだ。時々、夕方の時間帯になると「資格を沢山持っている女刑事がその資格を活かして捜査に活かす」って内容のドラマの再放送がある。間違いなくあれに出てくるような面白い資格じゃなかったことだけは確かだ。


 寝る準備が終わり、美奈の気が向いたときはセックスをする。大抵の場合、俺が美奈に押し倒される形になる。俺は自分からあまりそういうことをしたいと思わない、だが押し倒されるとなると身体は正直なもので、ちゃんと反応する。美奈は俺の上に、自分で動く。ときどき、次の日の朝に予定が入っておらずゆっくり楽しめるようなときは、手錠や首輪といった拘束具をつけさせられることもあった。美奈は、拘束されて身動きが取れない俺を見ながら、昂ったように笑顔を浮かべていた。


 美奈のことを考えながら話しているうちに、通話していた女の子は午後の授業に行ってくるね、と通話を切った。十三時あたりからは本当にやることのない時間だ。タイムラインの更新もほとんどなく、通話ができるような女の子もあんまりいない。だいたいこの時間には昼寝をしている。ほら、画面をスワイプして更新を確認する手も止まって、いい感じだ、今日もまた眠りに入っていく……。


―――


 ふと目を覚ます。窓の外は既に真っ暗になっていて、つけっぱなしのテレビは首都圏の天気や今日の昼間に起きた出来事のニュースを流している。至極すっきりした目覚めだ。二度寝はできないだろう。そうなるとまたやることがなくなってしまう。仕方なくツイッターを開く。適当に人と絡んでいるうちに時間も潰せるだろう。つまらなくなってきたらソシャゲを開く、その繰り返し。今日一度もベッドから降りていないことに気がついた。汗もほとんどかいていないしシャワーも浴びなくていいだろう。そうして美奈が帰ってくるのを待つ。


―――


 美奈のことでふと思い出した。普段あの人が使っているデスクには基本、新品同様にきれいなものしかない。だが一つだけ、古ぼけたカセットテープだけが大事そうに飾られている。飾られていると言っても目につきやすいところに置いてあるというだけなのだが、その表面や内部、つまりケースの中の紙などについた汚れが、きれいなものばかりのデスクにおいてそのカセットテープを目立たせる要因となっていた。一度、聞いてみたことがある。このカセットテープは一体なんなの、と。美奈は


「ちょっと! 触らんで勝手に」


と声を荒げ、俺の手からカセットテープを奪った。珍しく関西弁を出して。どうやらこのカセットテープは昔大事な人からもらったものらしかった。

 このアパートの部屋にはカセットテープを流す機械なんてないし、美奈がスマホから音楽を流しているところすら見たことがなかった。音楽が好きというより、その「大事な人」とやらを忘れられないだけなのだろう。関西弁が出てしまうのもそのいい証拠だ。そんなに感情を昂らせずに冷静にいられないものかと思う。


―――


 カシャカシャ、ガチャッ。鍵を開ける音に連続して扉の開く音が聞こえた。美奈が帰ってきたのだろう。部屋の電気がつく。そういえば今日は部屋を明るくすることすら忘れていた。


 「ただいま~、ケイ今日は何か食べた~? 」


 「あー、何も食べてないや」


 「またー!? もー、急いで準備するから一緒に食べよ」


 今日初めてベッドから身を起こす。パサ、と美奈がテーブルに投げた郵便物に目をやる。光熱費や水道代の通告の中に、見慣れないポストカードが混ざっている。西洋風の街並みの写真。裏側には「二十日、あの喫茶店にて待つ」とだけ書かれている。写真がどこで撮られたものなのかはどこにも書いていなかった。


「美奈、こんなの来てたけど」


「ん~? 」


 手紙を受け取った美奈の顔が一変する。目が一瞬だけ見開かれたかと思うと次の瞬間には手紙をしきりに裏返しながら目を細くして眺める。口を開いたまま。そして「二十日、あの喫茶店にて待つ」という文章を見据え、目を細くしたまま口を閉じる。


 結局、その晩美奈はずっと、その手紙に映った写真を眺めていた。口に手を当て、目を細め、時折ポストカードを手に取って光の反射を確かめるように手首を少しずつひねりながら、写真に写る異国の情景に思いをはせているようだった。その晩、美奈が俺を押し倒すことはなかった。美奈は俺が眠ってしまうまでずっとそのポストカードを眺めていた。


―――


 翌朝、美奈から「部屋を引き払う」と告げられた。つまり俺が過ごす場所も無くなってしまうということだ。俺は必死になってわけを聞いた。美奈は話したがらなかったが、かろうじて聞けたのは、ポストカードの送り主は美奈にとって「大事な人」だということ、「大事な人」がやっと帰ってくるのだということ、これからは「大事な人」と過ごすということだけだった。きっとカセットテープを渡したのと同じ奴だろう。すぐに勘づいた。「都合のいいように女とっかえひっかえしてるだけなんじゃないの」とも諭した。美奈は聞く耳を持たなかった。今日は十三日。約束の日まで一週間しか残っていなかった。


 美奈は素早くバイト先と大家に連絡し、十九日までしかアルバイトができないこと、残った家具は廃品回収に出してほしいこと、をそれぞれに話した。それから最低限の荷造りをし始めた。俺は結局、二十日までにこの部屋を立ち退くことになった。ツイッターを開く。こうなった時、俺が頼れる人間はいま一人しかいない。


―――


 あっけなく二十日を迎えた。美奈の荷物はリュックと大きめのボストンバッグ一つに全て収まったようだった。デスクに置いてあったものたちもノートPCや何冊かの本、筆記用具など、比較的かさばらない物ばかりだったし、衣類に関してはバッグに十分詰め込める量だった。ほかに残された家具や調理器具などは全て廃品として出してしまうのだろう。丁寧なことに、大家の方には多すぎるくらい廃品回収のための代金を渡していたようだった。


「ほら、ケイも行くよ。鍵も大家さんに渡しちゃうんだから。ほら」


「うん」


 俺の荷物はポーチに収まる程度だった。この家に来た時の服を着て、後は二万円も入っていない財布とSIMフリーのスマートフォン、冷蔵庫の中に入っていたアルコール9%のロング缶。他に持ってきたものも持っていくべきものも俺にはなかった。


―――


 新幹線に乗らないといけない。美奈にはそう言った。新幹線に乗る必要があるのは事実だったが、時間はいつでもよかった。乗り換えが充実している大きな駅で美奈と別れた後、俺は見つからないように美奈の後ろ姿を追いかけた。美奈は改札を出て、そのまま道を検索するような仕草も見せずある方向へ歩いていく。やがて、美奈はあるカフェに入っていった。追いかけ、ちらりと中を覗く。


 美奈はちょうど窓に近い席に座ったところだった。美奈の向かいにはチャラそうな男が座っている。少し焼けた肌、キャップを被り、パーカーに金のネックレス、オーバーサイズのパンツ。顎に若干の髭を生やし、顔の皺からもさほど若さを感じられない。少なくとも俺よりは年上だろう。どんな会話をしていたのかはわからない。ただ、その男と会話している美奈は俺にも見せたことのない笑顔をたたえていた。


―――


 一時間もせずに二人はカフェから出てきた。二人のあとをつける。駅とは真反対の方向だ、恐らく男は車で来ているのだろう。そう思いつつ追うとやはり、店の裏手の路地にコインパーキングがあり、二人はかなり古い機種の自動車に乗り込んだ。ナンバープレートのひらがなは「わ」、つまりレンタカーだ。あの男は、こんな古い機種のレンタカーでしか美奈を迎えに来れないのだ。俺はなんだか安心した気持ちになった。もういい頃合いだ、駅に戻るとしよう。俺は男が美奈と話しながら車を動かすのを見送ると、駅に向かって引き返した。


―――


 一年後


 俺はなんだかんだこの街のことが気に入っていた。夕方になるとチャイムが流れ出し、制服を着た三、四人の集団の後ろに並ぶ。ここのたい焼きはいつ食べてもおいしいが、特に夕方は、和をたたえる街の風景と夕陽とが重なり無類の美味しさを誇った。


 あの日、既に京都に住んでいるあの大学生の女の子に話をつけていた俺は、SIMフリーのスマホひとつで(酒はカフェの出待ち中にとっくに飲み干していた)京都駅まで来て迎えを待った。そうしてその女の子の家にお世話になることになった。その女の子は早希という名前だった。


 早希は二年次までは俺との通話もあったせいか午前の授業を受けることは少なかったものの、一年次から続けているバイトでの貯蓄もあったおかげか美奈と同じようにご飯を作ってくれたり、三年になり午前中から大学へ通うことが増えても基本的にご飯代を置いていってくれた。


 俺はというと、早希のおかげで外出する頻度は高くなった。ただ、大抵昼は食べず、夕方にたい焼きを買いに行くくらいだ。でも週の半分は通うもんだからたい焼き屋のおばちゃんとは仲良くなった。そのおかげで京都弁も少し身についてきた。完璧とは言い難いが、おばちゃんと日常的に会話することで細かなアクセントも身についてきたと思う。この頃は早希と話すときも関西弁を使うくらいだ。早希は実家が兵庫で大学のために京都に住んでいるらしいが、その早希から見ても一年間京都で過ごしただけの俺の京都弁は自然なものに聞こえるらしかった。大きな進歩だろう。


―――


 ふと部屋で目を覚ます。街は夕暮れのオレンジ色に染まっていた。スマホで時間を確認し、ツイッターのDMを開く。危ない、もう少し長く寝ていたら遅刻するところだった。今夜は遊んでくると早希にも伝えてある。すべて大丈夫だ。指先を水で濡らし、髪をささっと整えると早希のドライヤーで毛先の向きを整える。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に俺の声が反響する。バタン、扉が閉じる。

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