心聴き

霜月透乃

心聴き

 これは夢だなってなんとなくわかった。ふわふわしすぎているし、そもそも最後の記憶がベッドで横になってる記憶だから。

 朧げながらも、やけに鮮明に頭を働かせられて、妙な感覚。頭が冴え始めても、夢が覚めるような気配はない。

「うーちゃん。こっちおいで」

 私を呼ぶその声に“耳”をぴくっとさせて、聴こえた方向を向く。そこには一面の花畑が広がっていて、真ん中には白いワンピースを着た人影が私を手招きしている。

「あ……せんぱぁい」

 ほっぺたがとろりと緩む。その場から早足で駆け寄ってその人の元へ行く。その人は花畑の中心、綺麗な黒髪を地に降ろして、ぺたんと座り込んでいる。白いワンピースからは肩が出ていて、うなじから肩にかけてのすらっとしたラインと色白で傷一つない綺麗な肌が露出している。

 近づくや否や、その人は私のことを優しく抱き寄せてくれた。“耳”がぺたりと胸にくっついて、その人の元気な鼓動が聴こえる。

「うーちゃん、くすぐったいよ」

「せんぱいの心臓の音、大好きなんですもん」

「もう、そんなに近づかなくても聴こえるでしょ? キミの“耳”なら」

「ひゃぁ、くすぐったいですよぉー」

 その人は私の頭の上に生えているそれを触る。ふわふわ、もふもふ、とその感触を楽しんでいるせんぱいの胸に顔を埋めながら上目遣いで見る。

「ウサギは耳がいいで有名でしょ?」

「確かにそうですけどー、せんぱいの胸にくっつけて聴くのが好きなんですー」

 せんぱいの手から解放されたそれをあと引くくすぐっささからぴくぴくとさせる。

 この“耳”……ウサギの耳を、人間の形をしながら頭の上に生やす私たちは「亜兎人あとじん」と呼ばれる種。

 正確にはウサギの耳ではないとも言われているが、祖先はウサギだともいわれたり、人が進化した姿だといわれたりもするから、正直のところよくわかっていないというのが正解。

 ウサギの耳ではないといわれる所以として、私たちの耳は、人の胸に耳を当てて心臓の音を聴くと、その人の心の声が聴こえる。だから今目の前にいるその人はいつも私に心の声が聴かれるのを恥ずかしがって、私に心臓の音を聴かせてくれない。私はただ心臓の音を聴きたいだけなのに……なんていうのは、半分嘘で、半分ホント。

「今だけですからー。ねー?」

「もう……しょうがないなぁ」

 わざとらしく困ってみせると、その人は少しはにかんで、手を広げて私を迎え入れてくれる。私は嬉々として再度その中に飛び込み、耳を胸へぴたりとくっつける。

 目を閉じて、心地いい等間隔の音に集中する。とくん……とくん……と最初はゆっくり落ち着いた可愛らしい音だったのが、次第にとく、とく、どくん、どくん、と、早く、慌ただしいような音を立てて鳴らす。その鼓動を聴いて少し不思議に思った私は顔を上げてせんぱいに尋ねてみる。

「……せんぱぁい、緊張してますかー?」

「もう……ウサギさんならわかるでしょ? 心の声が聴こえるんだから」

「そうなんですけどー……?」

 もう一度耳を胸に戻す。早くなる心臓の音は変わらない。けれど、どこまで早く、うるさくなっても、心の声が聴こえない。普通なら、声と同じで大きければ大きいほど聴き取りやすいはずなのに、今は一向に声が聴こえない。ただ、どくんどくんと早くなっていく鼓動が虚しく響くだけ。

 ……あ、そっか。今、夢を見てるんだった。夢なのに、現実よりつまんないなんて、へんなの。こんな夢なら、早く覚めちゃえばいいのに――。

「…………んぅ? あれ……?」

 気づくと、今いる場所は花畑じゃなくなっていて、私は横になって目を瞑っていた。閉じていた目を開けると、薄暗い空間とともに、私と同じく寝転がっている人物の後ろ姿が視界に入ってくる。

「くあーっ……せんぱぁい? まだ寝てますかー?」

 一度腕を伸ばしながらあくびを天井に向けてから、私に背中を向けて寝転がってる人物の顔を覗き込むと、先ほど夢に出てきた白いワンピース姿の人と同じ顔をしていた。私が覆い被さっても動じず目を瞑ったままの姿に、汗が手のひらへ少し滲む。人差し指でその人のほっぺたをつんつん、とすると、「んー……」と唸り声がそこから聴こえて、胸を撫で下ろす。ふとその人のうなじが見えて、そこにあるものに少し気分が沈む。

 指でつつかれ唸り声をあげたくせ、全然起きないその人にふてくされ、起きるまで寝てようと寝返りを打って天井を見る。ここは、せんぱいの部屋。最近は会社でせんぱいと一緒に夜遅くまで残業し終電を見送っているので、勤めている会社から徒歩五分くらいのこの部屋に毎日泊まりに来ている。そのせんぱいというのは会社の先輩で、今私の横で安らかな寝息を立てているその人だ。

 ふと思い出して、今二人一緒に頭を預けている枕の近くにあるせんぱいのスマホを確認する。今の時刻と、昨日寝る時に仕掛けたいたずらが残っているかを見る。いたずらはちゃんと残っていて、しめしめと悪い笑顔を浮かべる。

「ん……ふわぁ〜……あれ? 起きてたの……?」

 せんぱいがいきなり動き出したから急いでスマホを手から離す。手から飛び出たスマホがせんぱいに当たりそうで少しひやっとした。

「おはよーございますー、せんぱぁい」

「おはよう……あれ、今何時!?」

 部屋のカーテンから漏れる光がいつもより明るいからか、せんぱいはなにかを察し、さっきまで私が触っていたことも知らずに自分のスマホを探り当て画面を点ける。今の時刻は、九時半。

「ああっ……! 完全に遅刻だぁ……なんでアラーム鳴らなかったの……あ、サイレントモードになってる!? もう、私のバカ!」

 想像以上にせんぱいが自分の非を責めて頭を抱えているのを見て、罪悪感がぞわっと襲ってきた。サイレントモードにしてアラームを消したのは私のいたずらのせい。

「とりあえず、早く行かなきゃ!」

 慌ててベッドから出ようとするせんぱいに私は腕を回して、拘束して動けなくする。

「ちょっと、うーちゃん!?」

「せんぱい。どうせ遅刻で怒られるんですからー、いっそのこと、サボっちゃいましょうよー」

 せんぱいの耳元へと口を近づけて、悪魔の囁きを聴かせる。腕にさらに力を込めて、逃がさないという意思を伝える。

 スマホに子どもみたいないたずらをした理由は、私のエゴ。端的に言えばせんぱいは働きすぎで、私は休んで欲しかった。その理由を無理やり作った。けれどそんな子ども騙しじゃ大人の休む理由にはならないみたいで。

「そんな学生気分で休めないの! 無断欠勤はだめ!」

「せんぱいは真面目ですねー。でも今のせんぱい、頑張りすぎだからー、心配なんです。今日だけでも、休みましょー、ねー?」

「……怒られちゃうよ、いいの?」

 せんぱいはなんとなく苦い顔をして訊いてくる。思ったより引き下がるのが早かった。今さっきまで私の頭を掴んで引き剥がそうとしていたのに、働きすぎな自覚症状はあったみたい。なんとか見せた隙に私は微笑んで返す。

「せんぱいと一緒なら、へっちゃらですー。あんな上司、怖くなんてないですよー」

「一緒に怒られてくれるのね」

「当たり前じゃないですかー。私だって遅刻ですしー」

 せんぱいはぴた、と動きを止めて、数秒険しい顔をしたのち、一度乗り出した身体を布団の中へと戻した。

「うーちゃんが一緒なら、許してあげる」

「やった〜。それじゃあ、今日はいっぱい休みますよー」

 抱きつきながら身体をゆらゆら揺らす私をせんぱいは軽く宥めて近くにあったリモコンをとってテレビをつける。寝起きに二人でベッドに寝転がりながらテレビを見るなんて、忙しかった昨日までは考えられない。夢みたい。

「――近ごろ増加している『緩衰症かんすいしょう』は、突如心臓が緩やかに衰弱し始め、およそ数時間程度で心臓が停止し、死に至るという病気ですが――」

 テレビから不穏なニュースが聴こえてきて、夢の心地はいっぺんに霧散した。私は頭上の耳を折りたたみ、せんぱいの背中に顔を埋めるようにしてうつむいた。お互い黙りこくってしまい、薄暗い部屋にテレビの音だけが響いている。

「――予兆として、発症者のうなじから肩あたりにかけて白い斑点が出てくるという特徴があります。治療法は未だ見つかっておらず――」

 そこまで聴くと我慢ができなくなってしまい、私はせんぱいの持っているリモコンをせんぱいの手の上から握ってテレビを消した。

「……ごめん」

「いえ、せんぱいは、なにも悪くなんてないですよー。……ごめん、なさい」

「謝らないの。よし、この話終わり。そんなへたってないで、耳をピンとさせなさいな」

 せんぱいは私に背中を向けながら後ろ手に私の耳を撫でた。それに応じて顔を上げると、せんぱいのうなじが見えた。色白で、すらっとしたラインが通っていて……白い斑点の浮き出ているうなじ。「ウサギが耳をピンとするのは警戒してる時ですよ」なんて茶化そうかと思ったのに、耳を触られるくすぐったさすら感じられない。

「せんぱい。こっち向いてくれないんですか?」

「嫌よ。だってうーちゃん、すぐ私の心臓の音聴こうとするでしょ」

「だって好きなんですもん」

「もう……恥ずかしいの。心の声、聴いちゃうでしょ」

「そりゃあ……副産物です。我慢してください」

「やだ。ダメなものはダメ」

 少しふてくされながらせんぱいの後ろ髪を少しどけて、背中にぺたりと耳を当てる。せんぱいは胸からじゃないと心臓の音は聴こえないと思ってるけど、ウサギの……亜兎人の耳はせんぱいの想像より何倍もいい。全然聴こえてしまう。

(少し冷たくしすぎたかな……)

 せんぱいの心の声が心臓の音とともに聴こえる。どくんどくんとせわしなく打ち続ける脈とは対照的にか細い声だった。そのコントラストが私は嬉しかった。ちゃんと自分の意見を伝えるくせに、相手のことばっかり考えるようなせんぱいらしさと、強い鼓動からその白い斑点の影響を一切受けていないというのを感じられたから。

 せんぱいがこちらを向いてくれない理由が恥ずかしいからではないことは心の声を聴かなくてもわかった。一週間前くらいにうなじに白い斑点が出てくるまで、せんぱいは二人きりの時なら恥ずかしがりはするけれど、なんだかんだ胸から心臓の音を聴かせてくれた。その斑点が出てきてからだ。せんぱいは会社でうなじを服やストールで隠すのとともに、私にも胸を隠した。

(もし心臓の音が小さくなるのを聴いたら、心配させちゃうもんね)

 せんぱいの声が答えだった。

「……ねぇうーちゃん。心臓の音を聴く時、勝手に心の声も聴こえるものなの?」

 しばらく流れた沈黙からなんの脈絡もなくそんな話が振られて、私は少し笑いそうになってしまった。

(うーちゃんがものすごく近くて、ドキドキする……! でも黙ってるのも変だし、なにか話振らなきゃ……)

 そんなせんぱいの心の声が同時に聞こえてきたから。でも今の私は「せんぱいの心の声が聞こえていないうーちゃん」なので噴き出すわけにはいかなかった。

「そうですねー。聴きたくなくても聴こえちゃいますー。そこは人間と同じで器用なことはできませんよー」

「そうなのね。私、うーちゃん以外の亜兎人に逢ったことないから」

「そうなんですかー? 私ちょくちょく見ますけど。小学校の時も私含め三人いましたよー。耳くらべとかよくしましたねー」

 亜兎人は人間よりも少ない種とはいえ、結構ちらほら見かける。噂では世界人口の十分の一くらいは亜兎人だとか。

「耳くらべ?」

「耳の長さを比べるんです。背くらべみたいなものですよー。意外と垂れ耳な子とかの方が長いんですよねー」

 亜兎人にもウサギよろしく個々に耳の違いがあった。垂れ耳だとか、ちょこんと小さい耳だとか。耳の色も様々で、私はピンク色。髪の毛も対応するように淡いピンクに染まっている。

「へぇ。亜兎人って、小さい耳の子もいるっていうじゃない? そんなことしていじめられたりしないの?」

「そんな野蛮な遊びじゃありませんよー。それに、小さい耳の子は大体クラスのマスコット的な感じで可愛がられてましたよー」

「へーいいなぁ。私も小さい耳の子見てみたいなぁ。絶対可愛いよね」

 誰とも言われてないのに、私以外の亜兎人の話をされて勝手に嫉妬する。膨れた頬をせんぱいの背中にくっつける。

「そういえば、亜兎人で思い出したんですけどー、せんぱいのその『うーちゃん』って呼び方、もしかしてウサギからとってますかー?」

「ええ。そうだけど……もしかして気づかなかった?」

「いや……安直すぎて逆に理解に時間がかかったんですよー……」

 私の名前にうの字は一つもない。だからといってほかの特徴からつけようとしても亜兎人だからウサギ、とは普通ならないだろう。それなら亜兎人は全員「うーちゃん」になってしまう。

「ずっとうーちゃんって呼んでるのに、今気づいたの? 今まで気づかれないなんて、私ってあだ名付ける天才!?」

「ふつーはあだ名はわかりやすいものなんですよ……」

 ふふっ、と小さく笑う声が部屋にこだまする。なんとなく思い出す。数ヶ月前、せんぱいが初めて私をうーちゃんと呼んでくれた時のこと。

 一年前に会社に入った時、背が高くて、クールで綺麗な姿のせんぱいに一目惚れしてしまった。仕事もそつなくこなしてしまって、他の後輩からも慕われてて、私がミスをして上司にこっぴどく怒られ、嫌味混じりの文句を浴びていると間に入って助けてくれて、「あんな言い方しなくてもいいのにね。キミがとっても頑張ってるのは知ってるよ。だからあんまり気負わないで。もしミスした時は、私を頼ってね」と言ってくれたり。理想の上司は誰ですかと訊かれれば真っ先に名前をあげられる人だった。

 ずっと前からせんぱいは会社の誰よりも遅くまで残業していて、いつまでやってるんだろうと気になっていた。ある日私も同じくらい仕事に追われ、あと一歩のところで終電を逃してしまった時、会社に帰るとせんぱいが薄暗い部屋にひとりぼっちで仕事していて、残業の疲れと終電を逃したショックでめったうちにされた思考が停止したのを憶えている。

 話を聞くと毎日このくらいやってるとせんぱいは言った。今いる会社は私含めどの社員にもブラックなところだが、流石に毎日電車がなくなるまで残業してるのは狂気的だった。会社から徒歩五分くらいのアパートに住んでるから平気と言っていたけどそういう問題じゃない。せんぱいの身の危険を案じた私はそれを手伝うと言った。それがきっかけで、今私は毎日この部屋にいる。

 仕事が一段落着いた時、初めてせんぱいと二人っきりになっていたことに気づいた。せんぱいを心配する一心で手伝っていたから、気づくまで時間がかかった。これはチャンスだ、と思った私は「少し休憩しませんか?」とアプローチを仕掛けた。せんぱいに承諾されて自販機でコーヒーを買ってきてお話をしてた時、

「キミといると楽しい。キミともっと仲良くなりたいな」

 なんて言うから、ちょっと期待して

「それじゃああだ名で呼ぶとかどうですか?」

 なんてとっさに提案した。その時に

「うーちゃんって呼んでいい?」

 って訊かれて、本当にあだ名で呼んでくれたうれしさであだ名の由来なんて一切気になっていなかった。それに気づいた今考えると、せんぱいはもしやネーミングセンスがそれなりに個性的な人なのだろうか。それでも、私はこのあだ名が大好きだった。

 そのあとせんぱいが「帰るところないなら、私の家に泊まりに来る?」と言ってくれたので、私は快く首を縦に振った。それが数か月の間に毎日の習慣になって、今もせんぱいの家に帰る生活が続いている。実はこの部屋に泊まりに来るために、終電が行ってしまうまで残業を延ばしているのだけれど、それはせんぱいには言ってない。

 思い耽っているうちに会話が途切れてまたしばしの静寂が流れ始め、私はせんぱいの心地よい等間隔の音を求めまた背中に耳を当てる。すると、背中にぞわっとしたものが流れた。

 どくん、どくん、と、少し鼓動の間隔が広がっている。先ほどのニュースが頭によぎった。「緩衰症は突如心臓が緩やかに衰弱し始める」、せんぱいのうなじに浮かぶ白い斑点をちらとみて頭がそれを理解しかける。

 違う。さっきせんぱいは私に抱き着かれた恥ずかしさでドキドキしてた。それが単に落ち着いただけで、ニュースも、白い斑点も、なにも関係ない。そう思いながら、私はせんぱいの背中から耳が離せなかった。

(ちょっと落ち着いてきたかな……ドキドキしてたの、バレて……ないよね……)

 せんぱいと同じ考えにほっとする。ドキドキしていたのはバレバレだけど。身体に入っていた変な力が抜けたせいか、緩やかなせんぱいの心臓の音が心地よく響く。

「そ、それにしても、二人仲良くベッドでなにもせず寝転がるなんて、まるで恋人同士の休日ね」

「え? 恋人じゃないんですか?」

「えっ? 恋人になってもいいの?」

「え?」

「えっ?」

 ずっと私に背中を向けていたせんぱいが初めてこちらに顔だけ振り向いた。お互いのきょとんとした顔が合わさって、変な空気が流れる。

「だってー、一緒のお家に帰って、一緒にご飯食べて、一緒のお風呂入って、一緒のベッドで寝て。立派な恋人ですよー」

「そ、それだけで?」

「それだけって、それ自体が恋人のすることなんですからそうでしょー」

 せんぱいが納得してるような全然理解できてないような顔でまた向こうを向く。

「そっか、もう恋人だったかぁ……」

 その言葉に合わせてせんぱいの鼓動が少し早まる。それに私は胸を撫で下ろしたけど、どことなく不安だった。

(嬉しい……。正直、ちょっと怖かったから。恋人なんて嫌だ、なんて言われたらどうしようって)

 え? なんて強がっておきながら、本当は私もそうだった。今まで言い出せなかったからこそ、せんぱいの家に通ってるうちに勝手に自分の中で既成事実を作って満足してた。満更でもなさそうなせんぱいの鼓動を聞きながら、少し踏み込もうと前に回していた手を意味ありげに動かす。

「ひゃっ、うーちゃん? えっと……」

「なんですー? 恋人なんですし、これくらいじゃれあいっこですよー」

 せんぱいの心臓の音がさらに早まった。せんぱいのシャツの中に手を入れただけで、こんなに面白い反応が見られると思わなくて、もっといたずらしたくなる。というか、もとよりその先まで行ってしまうつもりだった。そうすれば、せんぱいのせわしない心臓はずっとドキドキしっぱなしでいてくれるだろうから。数か月間恋人と一緒に寝てて、この前で留まっていたのが今ではおかしなことに思えてくる。お互い恋人だったなんて知らなかったからと自分の中ですっとぼける。

(っ……! 待って! これって、そういうこと、だよね……? こ、心の準備が……!)

 せんぱいは一切抵抗せずに平然と背中を向けたままだけれど、心が声にならない声を出しながら慌てている。どくんどくんとさっきのような元気な心臓の音が聴こえてきて心地よさと安心感を覚える。私はせんぱいの胸の真ん中、心臓のすぐ上にそっと手を添えて、すべすべな肌を通じて手からもその鼓動を感じる。せんぱいも黙りこくって、静かな部屋にバクバクと叫ぶ心臓の音が響く。

「……」

 もう少し、あと少し。すぐ横の柔らかさに手を伸ばせば、もっと深いところまで触れられるのに。なぜか手を動かせない。動かすのが、怖い。一度手を離してしまえば、この鼓動がすぐに小さくなって消えてしまいそうで。このままずっと感じていたくて。

「……うーちゃん?」

 せんぱいも手が止まった違和感に気づいた。触れられるのを待ち望んでいる声を聴きながら、私はその声を裏切った。

「……せんぱい。このままでいたいです」

「……うん。いいよ」

 本当にずっとこのままでいたかった。せんぱいから求めてくれたらもしかしたら動けたかもしれないけど、やっぱりせんぱいは、私の方を向いてくれない。

(ほんとは、触れてほしかったけど、ウサギって怖がりさんだものね。それに、うーちゃんがそうしたいなら、このままがいい)

 怖がりなんかじゃないです、って言い返したかったけど、怖かった。逃げた言い訳ができなくて、したくなくて。

 ドキドキする時間を私が止めてから、さっきのうるさい心臓が嘘のようにどんどんか弱くなっていくのが聴こえる。それが嫌で心なしか胸に置いた手に力が入る。すると宥めるようにせんぱいは自分の手をシャツの中に入れて、私の手の上に重ねてきた。

(……薄々気づいてたけどやっぱり、少し弱くなってる)

 そんな心の声が聴こえて、私はとうとう理解してしまった。今の状況を。せんぱいの、この先を。それに気づいた時、私はふるふるとか弱く、首を左右に振った。

「? うーちゃん? すりすりしてどうしたの?」

「っ……なんでも、ないです」

「……そっか」

 できるだけ平然を装おうと思ってたけど、もしかしたら少し涙ぐんだ声になっていたかもしれない。もう一度黙ると、せんぱいは優しく私の手を撫でてくれた。撫でられるたび、手から緩やかに力が抜けていく。

(さっき見てた夢の中じゃ、元気だったのになぁ……楽しかったな。うーちゃんと二人っきりでお花畑お散歩するの……)

 耳をぴくっとさせた。二人っきりで花畑にいる、先ほど見ていた私の夢と同じだ。せんぱいと私は、夢の中でも一緒だったみたい。くしゃっとしてしまった顔が少し綻ぶ。

 それと同時に、私の手を撫でるせんぱいの動きが止まった。

「……せんぱい?」

「えっ? ……ああごめん。ちょっと、眠いのかも」

 さっと背筋を通った寒さに綻んだ顔が引き締まる。私はくっつけていた耳をさらにそば立てて、心臓の音を逃さないようにする。

 とくん……とくん……。

 聴き取れるかわからないくらい、その声はとても小さくなっていた。また嫌がる子どもが駄々をこねるように手に力が入る。それをもう一度、せんぱいは撫で始めてくれた。先ほどより、やけに優しく。

(このまま、眠ったら……また、さっきの夢……見れるかな……)

 心の声も小さくなっていた。私は一言も聴き逃したくなくて、耳をピンと立てて必死に背中にくっつけた。

(元気だったら……うーちゃんに胸、貸してあげられるのになぁ……)

 夢の中でのせんぱいの鼓動を思い出す。心の声は聴こえなかったけれど、元気で、安心できるような、心地いい心臓の音が聴けた。心臓の音が聴けなくなるくらいなら、心の声なんて聴こえなくていい。こんな夢覚めてしまえばいいと思った自分を恨む。

 夢の中の心臓の音が大きくなるたび、目の前の心臓の音が小さくなっていく。白い斑点なんてない綺麗なうなじのせんぱいが恋しくなるたび、目の前のせんぱいが遠く離れていく。

(もしかしたら……ウサギは、耳が、いいから……心臓の音……うーちゃんに、聴こえてるのかな……)

 とくん……とくん……

(聴こえてたら……情けないなぁ……。うーちゃん……悲しませちゃうな……)

 とくん…………とくん…………

(でも……聴こえてたら…………心の中でなら……言えるかな……)

 とく………………とく………………

(うーちゃん…………だ……い…………す………………)

 …………………………………………

「……どうして、口にしてくれないんですか」

 やがてなにも聴こえなくなって、私の手を撫でる手も止まった時、私は小さくそう吐いた。恨めしくて、やるせなくて、なにかを呪うように。

「最後まで言わないと……っ、わかり、ませんよ……」

 なにも聴こえなくなった部屋にはなにも響かない。自分の声すら、今は聴きたくない。聴きたいのは、目の前の止まった命の音。目から熱いものが溢れて、せんぱいの背中を濡らす。その熱さに引っ張られて、自分の心臓の音が内側からドクンドクンと響く。うるさい。止まって。止まってよ。止まってってば……。

 本当は聴こえてたと、一言言えば聴かせてくれたのだろうか。心臓の音が小さくなろうと悲しまないと、強がれば良かったのだろうか。

 ずるい。自分だけ、心の声で呟いて。私の声は、せんぱいに聴こえないのに。自分の本心すら言えないくらい怖がりで、どうしようもないのに。

 せんぱいに、どうやったら伝わるのかな。声に出せばいいのかな。それでも私は言えなくて。誰にも聴こえない心の中でだけ呟いた。ずるいせんぱいみたいに。

 私はなにも聴こえない部屋の中、ただせんぱいのぬくもりだけを感じていた。

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心聴き 霜月透乃 @innocentlis

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