最初の被害者

 私が書類の不備に気が付いたのは、本当に偶然のことだった。別件で過去の資料に当たる必要があったのだ。時間の感覚も失うほど長く資料室にこもって、いい加減帰ろうかと片付けを始めたときに、うっかり別のファイルを落としてしまったのである。そしてそこに、あってはならない空欄を見つけたのだった。

(担当者の名前がない……?)

 ありえないミスである。

 これは一大事だ。課長に伝えなくては。そう思った私は書類をよく見て――瞬間、頭が真っ白になった。

 それは、私が頭の片隅で思い返すことすら嫌っていた事件の書類だった。

 強盗殺人事件。被疑者死亡のため捜査終了。

 私は腕の中に彼女の死の感触をありありとよみがえらせた――真希――私がこれまでの人生で最も愛した女性――死亡した被疑者とは彼女のことだ。彼女は毒を呷って死んだのだ!

 別の事件の担当であったことをこんなにも恨んだことはなかった。捜査の合間を縫って帰宅したときにはもう遅かった。かろうじて意識を残していた彼女を、私は呆然と抱きかかえたのだ。春の日差しを掻き消すような冷たさを覚えている。造花の桜のような重さがまだ腕の中にある。乾いた唇が小さく動いて『ごめんなさい』とさえずったのを。瞳孔の開いた真っ黒い瞳が私を映さなかったことを。真っ白に固まった指先が私の指を握り返さなかったことを。もうあのときの彼女しか思い出せない。もっと、もっと楽しい記憶があったはずなのに、すべてがこの黒と白の写真に塗り潰されている。私が持っている彼女の姿はすべて遺影だった。私の腕に焼き付けられた遺影だった。

 あの日以来、家にはいられなくなった。特に、日差しが差し込む日中は、絶対に。――暖かければ暖かいほど、身の内の冷たさが際立つから。

 彼女と私のつながりは、友人である桜庭以外の誰も知らないことだった。だから騒ぎ立てられてはいない。私は静かに悲しみに沈み、このまま消えてしまおうかと考えていた。

 けれど、

(どうしてこんな不備が許されているのだろうか。それもこの事件で)

 そう思うと無性に腹が立った。彼女の最期の一幕が中途半端に途切れているなんて、許せるわけがない。

(辞めるにしたって、この件をはっきりさせてからだな)

 私はふつふつと煮えだした腹の底に突き動かされるようにして、足早に裏口を潜った。

 そのときだった。

「やっぱ駄目ですよ、あんなことを隠しておくなんて」

 彼の声が聞こえてきたのは、裏口から署を出て、数歩歩いたときだった。

 今年配属されたばかりの新人だ。名前は――確か、甲辺コウベと言ったか。

「僕にはこれ以上は無理です。冤罪だったのを隠すなんて……」

 冤罪? 穏やかならぬ言葉が聞こえてきて、私は思わず立ち止まった。

 彼は駐輪場の隅の外灯の下に立ち、こちらに背を向けていた。スマホをしっかりと握りしめている。

「課長――」

 びくりとスマホを耳から離したのは、怒鳴られたか切られたかしたからだろう。それから彼は大きく肩を落として、スマホをポケットにしまった。

 振り返った彼と目が合った。

「あ……」

 さぁっと顔面を蒼白にした彼を刺激しないよう、私はそっと近付いた。

「ごめん、聞こえてしまった」

「あの、堤さん、今のは……」

「君以外の誰かが監察に言えば、問題ないんじゃないかな」

 甲辺巡査は深くうつむき、ひどく迷う素振りを見せた。私は辛抱強く待ち続ける。と、彼は頭を振り上げるようにして、

「半年前の強盗殺人事件、ご存知ですか」

 と、言った。

 私は奇妙な一致に息を飲んだ。ついさっき気が付いたばかりの違和感――ついさっき聞いたばかりの言葉――二つが結び付いて歪な円になる。まさか。そんな馬鹿なことがあるものか。まさか!

 私の変化に気付く余裕が甲辺にはなさそうだった。彼は必死の形相で、

「あれは冤罪だったんです」

 息が止まった。荒れていた腹の底が静まり返る。しんと凪いだそれは間違いなく嵐の――そして間違いなく前代未聞の激しさをもった大嵐の――前兆であった。

「容疑者とされた女性には、実際は何の証拠もなくて」

 右手の中指が震え出す。冤罪? だとしたらどうして。

「けれど、他に関係していると思われる人物が出てこなくって」

 歯の根が合わなくなる。どうして、私は彼女を。

「それで、状況証拠だけでいい、とにかく自供を取れって杉原課長が僕らに――」

 私の手が彼の胸ぐらを掴んだ。

「堤さん?」

「それで殺したのか」

「え?」

「そうやって追い詰めて、彼女を――っ!」

 絶叫は押し込めなくては、という理性が働いた。どうしてかは分からない。働いたものは働いたのだ。その結果、押し込められた感情の動きはそのまま動作に変換され、私の手は彼を思い切り突き飛ばしていた。

 外灯の下に投げ出された両足がぴくりと震え、押し黙る。

 私はしばらく立ち尽くしていた。彼は起き上がってこなかった。辺りに見知った気配が立ち込める。

 私は灯りの下からそっと抜け出し、いつものようにホテルへ向かった。

 ホテルの安普請の机に向かって、私は混乱する頭を抱え込み、じっと考えた。意識的に脳味噌を動かした。そうしていないと際限なく己を責め立てて殺してしまいそうだった。

 冤罪。

 冤罪!

 真希は殺されたのだ。無実の罪を着せられて!

 だとしたら――

(時間はない)

 甲辺は死んだ。私が犯人だと明らかにされるのもそう遠い未来ではないだろう。

 その前に、すべての真相を。

(……杉原、と言っていたな)

 杉原課長。課長が絡んでいるなら、書類の不備が見落とされたことにも説明が付く。形だけ作って、時が流れればどうにでもなると考えたのだろうが。

(どこまで関わっているのか――他に誰が関わっているのか、聞かないといけないな)

 幸いにして、彼は今擬似的な一人暮らしだ。妻と娘が旅行に行ってしまって、家の中が寒々しい、と嘆いていたのを思い出す。

 もっと寒々しい家の有り様を、彼は知らないのだ。忌々しい。

 私は机に手のひらを叩きつけた。そうして無理に冷静さを呼び戻し、睡眠導入剤を飲み込む。怒っていてはできることもできなくなる。凪げ。波風を立てるな。嵐には吹くべきタイミングがある。それを見誤るな。

 天の神も、地の人も、正しく裁けないならば無用である。

 ひたひたと押し寄せてきた眠気に身を任せ、私はベッドに横たわった。

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天地無用 井ノ下功 @inosita-kou

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