甲辺
睡眠導入剤の効果が切れかける頃、私は着信音に叩き起こされた。
『今すぐ署に来い、堤!』
「ですが――」
『いいから来い、すぐにだ!』
ひどく切羽詰まった声。尋常ならざることが起きたのだ。私は慌てて着替えて署に向かった。
署は騒然としていた。まるで事件現場のように――いや、まさしくそこは事件現場だったのである。
甲辺巡査の死体は駐輪場を塞ぐような形で転がっていた。今は白い線がその位置を囲っている。ちょうど防犯カメラが切れる位置だ。
同じ夜勤の警官が第一発見者だった。昨夜十一時頃、甲辺巡査は電話のために席を立って、それきり戻ってこなかった。不審に思った同僚が見に行ったところ、すでに死んでいたのだという。死因は駐輪場の縁石の角に頭を強く打ち付けたことによる脳挫傷だ。
それでどうして私が呼ばれたのかというと、甲辺と最後に会ったのが私だからだという。甲辺が裏口を通った少し後に、私が同じ場所を通っているのだ。
「確かに会いましたが……けれど、少し話をしただけで、すぐに別れました」
「何の話をした?」
馴染みのない本部の刑事にあれこれと聞かれるのは精神的にくるものがある。きっと彼女はもっとつらかっただろう。吹き荒ぶ嵐が胸の奥を抉り、声高に痛みを訴える。
「半年前の事件について」
「半年前の? どの事件だ」
「四月の頭に○○区で起きた、強盗殺人事件です。被害者は八十代の女性で、被疑者死亡で捜査が打ち切られた」
私がそう言うと、彼は振り向いて、目で部下に命令した。少しして、捜査資料を持った若い子が入ってくる。奪い取るようにして資料を受け取ると、その刑事は中をざっと見て眉をひそめた。
「担当者がいないな」
「はい。それを不思議に思って聞いてみたんです。彼は知らないと言っていましたが」
「どうしてそんなことを気にする?」
「あなたは気になりませんか? 偶然見ていた書類にこんな不備があると気が付いたら、誰だって関係者に話を聞きに行くくらいするでしょう」
刑事は喉の奥を鳴らした。獣の唸り声のような音がしぶしぶ納得の意を表す。
「どうして甲辺巡査に聞いたんだ」
「彼が捜査に加わっていたような記憶があって。私自身はそのとき、別の捜査に参加していたので、定かではないのですが」
再び、獣の唸り声。私は猛獣使いになった気分でいた。隙を見せたらやられる、という緊張感などきっと大差ないに違いない。こんな状況に置かれて――つらかっただろうに。苦しかっただろうに――そう思うにつけ、私の奥底では嵐が唸りを上げるのだった。
同じ話を何度か繰り返して、ようやく私は猛獣の檻から出ることを許された。
周囲の視線が突き刺さってくる。囁き交わす声が耳に障る。しかし、そんなことはまったく気にならなかった。胸の内で嵐が猛る狂っている。
私は足早に署内を突っ切り出ていこうとして、
「ツツミ」
桜庭に呼び止められた。
「俺、これで上がりなんだ。コーヒーでも飲んでいかないか」
本当は酒って言いたいところなんだけどな、と彼はちょっとだけおどけて言った。私は小さく頷いた。
駅前の適当なカフェに腰を落ち着ける。
「なんだってお前はあいつに会いに行ったんだ?」
私は馴染みのない刑事にしたのと同じ話を、昔馴染みである彼にもした。一言一句違うことなく。
大して長い話でもなかったのに、彼はその間に息絶えてしまったかのように黙り込んだ。不審に思った私が彼を窺うと、彼は目を伏せて、わずかに顔色を悪くしていた。指先が神経質に紙コップの縁を撫でている。それを見た瞬間、私の脳裏に嫌な想像がひらめいた。この時間に上がるということは、彼も夜勤だったのだ。第一発見者にならなかったというだけで。私と甲辺巡査を見た可能性は大いにある。そうすると――。
ふいに彼は視線を上げた。そして、
「その件はもう忘れたほうがいい」
と、繰り返した。
「忘れたほうがいい」
「忘れられるものか」
私も繰り返した。
「忘れることなどできるもんか。君は分かっているだろう?」
彼は再び黙り込んだ。知っているのは彼だけだった。あの事件で被疑者となり、獣どもに追い詰められ、自ら毒を呷って死んだ女性。彼女が私の婚約者であったということを知っているのは。
遅く来た春を、遅すぎるからと言って隠しておかなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
彼はようやく言葉を絞り出した。
「それでも、少なくとも、今は何もしないほうがいい。下手に動くとお前が犯人にされるぞ」
「……そうだろうね」
それでも私は動かないわけにいかない。
去り際になって、彼が消え入りそうな声で――「俺は、止めたんだからな」――呟いたのが聞こえた。
聞き返す前に、彼は歩き去ってしまった。
来た道を戻っていった彼を見送ってから、私もまた歩き出した。黙ってはいられない。動かずにはいられない。私がやるべきことは決まっている。
私は何食わぬ顔で杉原課長の家に侵入した。堂々としていれば存外怪しまれないということは知っている。家に誰もいないことも。ここでやるべきことをしなくては。
玄関に立てかけられていた金属バットを拾い、書斎へ行く。決定的な証拠があるとは思っていない。けれど、どうにかして、何かを見つけ出さなければいられなかった。もはや藁にもすがるような思いだ。
本棚を一通り調べたが、めぼしい物はなかった。パソコンにはパスワード。引き出しには鍵。厳重なことだ。
壊してでも開けようか、と考えたときだった。
急に扉が開いた。私は緩慢に振り返る。誰が来たのかは分かっていた。バットを握りしめる。
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