杉原
あんなことがあった次の日に出勤するのは気が重い。仕方がないことではあるが、息苦しさを感じずにはいられない。肌が過敏になっていて、視線に物理的な痛みを覚える。
「ツツミ」
桜庭は変わらぬ態度で私に話しかけてくれた。声を潜めて続ける。
「コウベの件、気にしすぎるなよ。犯人は絶対に別にいる。捜査が進めばはっきりするから、今は耐えるんだ」
私は分かったともありがとうとも言えず、曖昧に頷いた。彼の言葉は雨水のようだった。そして度重なる嵐のせいで私はすでにずぶ濡れだった。
桜庭が精一杯こちらを気遣ったような顔で頷き返して、腰を伸ばした。
「課長、遅いな。珍しい」
彼の言葉に、空のデスクへ目を向ける。
そのときだった。
電話が鳴り響き、巡査が素早くそれに反応した。そして、
「えっ? ……課長が?」
――張り詰めた声というものはさして大きくなくても注意を引くものである。場の全員の意識が一斉にそちらを向いて、若い彼は気圧されたように受話器を握り直した。
はい、はい、といくつかの相槌。それから彼は受話器を置いて、待ち構えていた私たちに向けて言った。
「杉原課長がご自宅で亡くなっていたそうです」
どよめきが起こった室内であっても、「他殺と見られるそうです」という言葉の存在感が薄れることはなかった。
昨日の今日の出来事である。当然、私が捜査に加わることは許されなかった。
そして、私が取り調べを受ける側に回ることも予想通りだった。大方の犯罪者と違うところは、ここが私の職場であって、散々する側を経験してきたところであろう。やはり担当したのは本部から来た人間で、顔も名前も知らない相手であったが。それでもやり口は同じである。
私は知らぬ存ぜぬを押し通した。そうするしかなかった。向こうに確たる証拠がないことは分かっていたが、同時に私にもアリバイがないのだから。私は必要以上に隠したりはせず、大人しくしゃべった。桜庭と会っていたこと。彼と別れた後は駅前の安いビジネスホテルに泊まったこと。
「なぜわざわざホテルに?」
「普段から、家には数えるほどしか帰っていません」
「どうして」
「一人暮らしが苦手で。ホテルを愛用しているんです。特に、捜査が忙しいときなんかは、一度も帰らないぐらいでして」
会員カードを見せると、不承不承ながら納得したようだった。実を言うとここ半年は仕事に関係なく帰っていないのだが、そんなことを言う必要はないだろう。
課長は自宅の書斎に倒れていた。後頭部を殴られたことによる脳挫傷が死因だ。凶器は金属バットで、死体のすぐ側に落ちていた。進学を機に出ていった息子さんの物であり、外部から持ち込まれた物ではない。指紋はもちろん無かった。部屋は綺麗な状態だったため、物取りの犯行ではない。奥さんと娘さんは三日前から旅行に出ていて、その間世話を焼きに来ていた実母が第一発見者になったという。
関連を疑われた私には、一時謹慎が言い渡された。
取調室から出てきた私に向かって、喫煙室から桜庭が手を振った。次は彼の番であるらしい。私が謹慎を食らったことを聞くと、彼は苦笑した。
「散々なオフの次は謹慎か。厄年だな」
「だとしたら君だって同じはずなんだけれどね」
「そうだった」
桜庭は大きく煙をふかすと、灰皿に煙草を押しつけた。
「連続した以上、共通点が探られるのは間違いない。警部と巡査、同じ署内の人間、ってこと以外の共通点なんて――」
後の言葉を彼は飲み込んだ。指先が灰皿の縁をすっとなぞった。それから私のほうを一瞥する。
「家で大人しくしてろよ。……嫌だろうけど」
彼がいなくなってから、私は呟いた。冬だからまだマシさ、と。
できる限り音を潜めて錠を開け、生気のない部屋に入る。真っ直ぐ寝室にこもる。リビングには一歩だって入りたくなかった。帰りがけに買ってきた瓶ビールを一息で空にして、ベッドに寝転がる。こんなことをしたって眠れやしないのに。空きっ腹にアルコールを放り込んだせいで吐き気がやってきた。胃と脳がぐちゃぐちゃにかき乱される感覚が、間違いなく気のせいだけれど、なんとなく心地よいような気がしてくる。このままぐるぐると吸い込まれていってしまいたい。誰もいなくて、何も考えなくていい場所に。
そういうわけにもいかないのだった。
重さと冷たさがよみがえる。それは私の腕の中にあった。白と黒の造花のような生温さ。
私はぼうっとする頭を引きずり起こして、鞄を引き寄せた。メモ帳を取り出す。一番新しいページには、カンベ090-98××――という殴り書き。もうひとつの名前は……書き残す気になれなかったから書いていない。
大人しく座っているわけにはいかなかった。この件は私がどうにかしなくてはいけない、という直感的な使命感が嵐の中央に居座っている。
桜庭。
彼の行動を丹念に思い返す。カフェを出て、その後彼はどこへ行った? 帰る、と言って――彼が自宅へ帰るなら、真っ直ぐ駅へ向かうべきだった。ところが、彼は警察署のほうへ向かったのだった。その行動の意味するところを考える。右手の中指が壁を叩く。やっぱり彼も関わっているのか? トントントン……信じたい。彼は関わっていない……トントントントントン……駄目だ、信じられない。少なくとも確かめなくては……トントントントントントントントン……。
アルコールが抜けるのを待って、私は電話を掛けた。
「次は君だ。――分かってる、詳しく話そう。今から会えないか?」
私の覚悟はすでに固まっていた。ただ、少し足りなかったというだけで。
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