天地無用
井ノ下功
神部
私はいまだ混乱し続ける頭を抱えたまま電話を取った。桜庭。桜庭! 私の友人だった男はすぐに電話に出た。
『どうした、ツツミ』
私の言葉はすぐに出てこなかった。唾を飲み込んでようやく音をひねり出す。
「話がしたい。今すぐ」
彼は一拍のうちに躊躇と困惑のようなものを目一杯詰め込んだようだった。
『……分かった。そっちに行くよ』
「いや、来ないでくれ。どこか別の場所にしよう」
『けど、お前は今――』
「死体が転がってる家でゆっくりと話せるのか?」
私がそう言うと彼は黙り込んだ。その沈黙は息苦しいものだったが、嵐吹く頭の中を落ち着かせるには有効な重さだった――状況が整理されていく。そう、死体がある。同じ警察署に属する巡査の死体だ。場所は私のアパートのリビング。ローテーブルの足下に横たわっている。後頭部に打撲痕があるが、致命傷は喉元の刺創だ。まず瓶で後頭部を殴り、割れた瓶で喉元を突き刺したのだ。散らばったガラスの破片がその状況を明確に説明している。噴き出した血が絨毯にしみこんで、茶色に固まっていた。彼女の静かな死とは正反対だ。
「頼むよ、桜庭。……警察を頼る気にはなれないんだ。分かるだろう?」
彼は通話口の向こうで執拗に呼吸を繰り返した。吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、そしてふっと勢いよく吐くと、
『分かった。それじゃあ、そうだな……「ソクラテス」で』
かつてよく使った喫茶店の名を言って、電話を切った。ツー、ツー、ツー、という電子音は彼の呼吸に似ている。
私は大きく溜め息をついて携帯をポケットに落とした。彼は私を信じてくれているだろうか。私は彼を信じているだろうか? 駄目だ、考えがまとまらない。呼吸が浅くなる。今はただ動け。
鞄を掴む。しばらくは帰ってこられないだろう。薬が二種類、充分な量入っているかどうかを確認する。それからコートを羽織る。靴を履く。そんな平凡な動作でさえ、死体の横でやっていると震えるほどに異常だ。思い出してしまう。彼女の死の際を。あのときも靴紐が上手く結べないで戸惑った。けれどあのときとは明らかに違う。何もかもが。
扉の向こうに死体を閉じ込めて、錠の落ちる音が高らかに。そこでようやく私の震えは収まった。
喫茶店ソクラテスはいつ行っても人気がない。隅のボックス席を陣取る。鞄を脇に置く。覇気の無いウェイターが注文を取りに来る。数分と待たずにコーヒーが出てくる。熱すぎて飲めない。そう、いつだって私のほうが先に来ていて、彼が来るのとコーヒーが冷めるのとを同時に待つことになるのだった。それを不満に思ったことはなかったけれど、今日に限っては話が別だった。せめてどちらかだけでも私を待たせることがないようにしてほしかった、今日だけは。空白の時間が多いと考えが進んでしまう。結論なんて出せやしないのに、不毛に先へ進んでしまう! なぜ、どうして――どうして、私の――ああ、腹立たしい!
腹立ち紛れに湯気を立てるコーヒーカップを持ち上げた。それでも長年の習慣が傾きを最小にする。熱いっ! ほんの一滴か二滴程度でも、私の猫舌は過敏に反応した。くそ、何もかもが上手くいかない。
右手の中指がコツコツコツコツとテーブルを叩き始めたことを自覚する。したけれど、もはや止める気にはなれなかった。やめなさい、と言ってくれる人もいなくなってしまったのに、どうしてやめる必要があるだろう?
彼が向かいに座ったのは、湯気があらかた無くなった頃だった。
「悪い、待たせたな」
「いや、こっちが急に呼んだのだから」
あれだけ腹を立てておいて、いざ当人が目の前に来るとこうなる自分がなんとも情けない。
彼は運ばれてきたコーヒーを、息を吹きかけることすらしないで一口飲み込んだ。
「それで、どうして死体がお前の家に?」
「それが分かったら苦労しないだろう」
「心当たりは」
私は黙って彼を見つめた。
彼はもう一口コーヒーを飲んでから、慎重に、言葉を選ぶような素振りを見せた。
「……お前が犯人だと言われるのは避けられないな」
「そうだろうな。仕方がない」
「お前が犯人じゃないとしたら、お前の家を知っていて、お前が最近睡眠薬を飲まないと眠れないってことを知っている人間だろうな。でなきゃ、運び込むにしろそこでやるにしろ、お前の家を犯行現場になんてできないだろうから。誰か、心当たりはないか? お前を犯罪者にしたい人間に」
「君以外で?」
桜庭は苦笑を浮かべた――その直前、一瞬だけ眉頭に罪悪感のようなものが滲んだのを私は見逃さなかった。
「当然だろう。俺がどうしてお前をはめなきゃならないんだ。真剣に考えろ」
「半年前のあの事件」
彼の表情がびくりと震えて固まった。
「考えたんだが、やっぱりあれに関連しているとしか思えないんだ」
「あれは……」
「うちで殺されていたのは神部だ。あれに関わっていた内の一人だ。神部と杉原と――」
彼が手を振って私の言葉を遮った。彼は目を伏せていた。私は彼の言葉を待ち構えた。
やがて彼は言った。
「……あれのことはもう忘れろ」
「忘れられるものか!」
ガシャン、とテーブルの上でコーヒーカップが跳ねた。桜庭が手のひらを私に向ける。落ち着け、どうどうどう。私は自分が暴れ馬になったことを理解して、人間に戻るべくゆっくりと座り直した。
こぼれたコーヒーをおしぼりで拭く。茶色に染まる。
「悪い、思慮のないことを言った」
と、彼は言う。
「だけど、なぁ、本当にそれと関係があるとしたら、一体何がどう関係しているんだ? ――あるとしたら、それこそ本当にお前が犯人ってことにされるぞ」
「冤罪だ」
私は彼の目をじっと見た。
繰り返す。
「冤罪なんだよ」
彼の目は私を見返した。瞳がわずかに揺れている。瞬きの回数が目に見えて増えた。軽く開かれた口元を空気の塊がひっきりなしに出入りしている。
ふいに、彼の瞼は力を失ったように垂れ下がった。
「ちょっと、外す」
手洗い場に彼の背中が消える。
私はすっかり冷めたコーヒーを半分ほど喉に流し込んだ。苦いばかりで大して美味くもない。彼のカップにもコーヒーは半分ほど残っている。私はそっと鞄を引き寄せた。手が震える。
彼は私を信じているだろうか。
私は彼を信じられるだろうか。
桜庭はそれほど時間を置かずに戻ってきた。動揺を振り払った顔で座り直す。彼がちらりと私の右手を見たことで、私は自分の指先がテーブルを叩いていることに気が付いた。絶え間なく続いていた音がぴたりと止まる。
彼は黙っていた。コーヒーカップの取っ手を掴み、親指で縁をなぞる。深く考え込むときの仕草。
彼は深く、深く考え込む。カップの縁を指がなぞる。なぞる。
凪いでいた。それが嵐の前兆だったかどうかは、嵐が来てから分かることだった。
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