Ω
エピローグ
梅雨が明けたのは、十三日を過ぎての事であった。
空を覆っていた灰色の雲は何処かに失せ、夏らしい入道雲が名古屋場所の関取のような顔を覗かせる。
「あっつい、冗談じゃあないッ!」
通学路。来良は家電量販店で貰った団扇で激しく自分を仰ぎ、スポーツタオルで汗を拭う。しかし拭っても拭っても汗が噴き出し、背中を気持ち悪く湿らせた。
「最高気温三十八度って、人間の平熱超えているじゃん。非常識でしょ、こんな暑い時まで学校なんて!!」
「寒いよりマシかな、僕は。それに暑いのは通学路だけで、校舎に入ればエアコンが効いているじゃあないか」
「その通学路を問題視しているのですよ、わたしは。このままだと溶けるね、確実に。いや、むしろ丸焼きになる。遠赤外線でじっくりと。女子高生の丸焼きとか、好事家にしか需要がないでしょ」
「日焼け止め、塗ればいいじゃあないか」
意味の分からない事を口走る来良に嘆息し、午兎は肩を竦めた。
「今日一杯登校すれば、後は夏休みだ。そうすれば、幾らか暇になるだろう? それまでの辛抱だ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
午兎の励ましに対し、来良はだらだらと汗を掻きながら俯く。
「夏休みなんてイベント、実は高校生にはないのです・・・・・・未来人は知らないかもしれないけれど、アレは円盤販促の為に作られた非実在イベントであり、普通の高校生の夏休みは夏期講習と模試であっという間に消えていくモノなのですよ・・・・・・」
不明瞭な言葉を読経のように紡ぐ来良を尻目に、午兎は自分のスマートフォンで〝円盤〟の意味を検索した。
成る程、そういう意味か。
「随分、使い熟しているじゃん」
「そりゃあ、
「へぇ、そんなアプリ入れているんだ」
「いや・・・・・・これは――」
午兎はしどろもどろになりながら、スマートフォンのディスプレイを裏返した。
「スケベ」
「違う、間違えて広告をタップしたら勝手にインストールされたんだ。不可抗力であって、僕の嗜好じゃあない」
「ふぅん」
「その眼、止めろ。腹立つから」
それより、と慌ててスマートフォンを仕舞うと午兎は話題を切り替える。
「君、海に行くって、言っていたじゃあないか。休みが取れないと、行けないんじゃあないか?」
「一日ぐらいならね。何、わたしの水着目当て?」
「いや・・・・・・その――」
来良は照れているのかと思って気分を良くするが、直ぐに午兎の視線が胸部に集中している事に気付いた。
「喧嘩売ってんのか」
「察したのは、君の方だろう」
「・・・・・・このクソ暑い日に何イチャついてんのよ、そこの二人。周囲の気温が三度ほど上昇するじゃない」
後ろから呼び止める声に、二人同時に振り返る。
そこにはコンビニで買ったガリガリ君を片手に、汗ばんだ顔を引きつらせる璃子が居た。
「ああ、璃子。海行くって話なんだけれど一緒に行く?」
「アンタね、悪意なく人を公開処刑するんじゃあないよ。何が哀しくてアンタら二人と一緒に海へ行かなければならないの。それにあたしの夏休みは大体部活だから無理。合宿もあるしね」
遅刻するよ、そう言うと璃子は駆け足で二人を追い越していった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どうしたんだい?」
「いや・・・・・・変なんだけれどさ」
来良は遠ざかっていく璃子の後ろ姿を見つめながら、濡れた頬を拭う。
「璃子が生きているって事がね、何故かとても嬉しいの。自分でも不思議なんだけれど、溜まらなくなる。おかしいよね、昨日も会っているのに」
それは汗とはまた違う、哀しみを帯びていた。
◇
「――銃弾って便利だね」
赤々と燃える焚き火を見つめながら、来良は徐に口を開いた。
「人を殺すだけじゃあなくて扉も破れるし、こうして焚き付けにも使える」
立ち上がり、外の様子を見に入り口まで歩いて行く。闇の中、淡々としていた昼間とは違い吹雪が荒れ狂っていた。
「寒く、ないかい?」
「平気。この姿になってからね、あんまり寒暖を感じないんだ。あと眠気も。だから遠慮しないで、その毛布使って寝ていいよ。疲れてるでしょ? 火の番はわたしがしておくから」
来良は、焚き火に照らし出される毛布に視線をやった。此所は恐らくハイヴが建設されるよりも前に作られた簡易シェルター。既に内部に備蓄されていた物資は朽ち果てており、焚き火の燃料となる廃材の他に暖を取れる物は、その薄汚い毛布一枚だけであった。
「いいよ、そういうの。余計格好悪くなる」
「じゃあ、こうしよっか」
深緑色の毛布を身に纏うと来良は午兎の隣へ座り込み、彼を毛布で包み込んだ。
「格好悪いな、僕は」
「風邪引くよりもマシでしょ。ナノマシンが壊されているってのもあるけれど、リベカの話だとナノマシンだって万能という訳じゃあないんだから」
「リベカ――――」
午兎は焚き火を剣呑に見つめる。
「君、あの時どうして彼女を助けようとしたんだ? 幾ら計画だったからと言っても、自分の身体をそんな風にされたんだから、恨みの一つぐらいあったんじゃあないのか?」
「特にないな、恨みなんて。同じぐらい、感謝する気もないけれど。助けようとしたのだって咄嗟の事だし、意味なんてない」
「僕は、彼女を恨んでいる。君をそんな姿にして、こんな寸詰まりの世界に連れてきた彼女を僕は生涯許さない」
木片を一つ、放り込む。一瞬炎が大きくなり、火の粉を撒き散らした。
「朝になったら、別のハイヴへ行ってみよう。エーテルプラントが稼働していれば、タイムマシンは起動出来る。君だけでも、あっちの世界へ――」
「いいよ、それは」
午兎の唇に人差し指を当て、来良は首を横へ振る。
「ネフィリムはミトラやアルバみたいな〝物〟だから自在に行ったり来たり出来たけれど、モドキのわたしは道に迷うから。それに手からビームサーベル出る女子高生なんて、おかしいでしょ。飛行機とかも乗れなくなるし」
焚き火へ視線を向け、来良は言った。
「未来、変わったのかな。璃子、あっちの世界でちゃんと生きているのかな」
「変わったよ、間違いなく。エリアが侵略する前にエーテルプラントを破壊し、〝
目の前の焚き火に、午兎はあの日の惨劇を幻視する。
燃え盛る炎と、濛々と立ち籠める黒煙。四方八方から響き渡る慟哭は、今も耳から離れる事はない。
「もしかしたら、僕らのやった事は無意味だったのかもしれない。あの日にテロが起きたか起きなかったか、そんな事は長い人類の歴史の中では誤差の範囲だ。どうせ那由他の数だけ存在する結果は、全て僕らが今居る世界へ収束するんだから」
「そうかな」
薪の爆ぜる音に、来良の声が重なった。
「変わった世界が一つだけでもあるなら、わたしはそれで良いかな。あの日、テロが起きなかった世界。そこは、わたしと午兎君があっちで暮らしている世界なんだよね」
花が咲いたように、来良は笑う。
「それってつまり、わたしは璃子や午兎君だけじゃなくて、わたし自身も救ったんだよ。この世界が行き止まりだとしても、あっちに居るわたし達は続いていく。それって、とても凄い事じゃあない?」
「君は――――」
午兎は失笑し、毛布の中で肩を竦めた。
「本当に、面白いな」
◇
「それ・・・・・・」
「ああ、正直どうしようかと思ってさ」
午兎はポケットから取り出したトーチを弄びながら、来良に応えた。
「先週から、もう動かないんだ。コイツもタイムマシンと同じで、電力をエーテルプラントから供給されている。これが動かないって事は、恐らくエーテルプラントはその活動を停止したんだと思う。もう未来からタイムマシンを使って侵略する事は出来ないし、僕もあっちに戻る事は出来ない。こいつはもう、ただのガラクタだ」
「それ、この間からずっと聞いているけど、だったら捨てればいいじゃん」
トーチを握り締め、午兎は首を横に振る。
「それは出来ない。これは現状、僕の切り札だ。このトーチが故障している可能性も考えられる今、連中の侵略を食い止められる切り札を失う訳にはいかないんだ」
「でも、故障しているんでしょ? 切り札にはならないじゃん」
「それは・・・・・・まあ、そうなんだけれど――」
「もう少し、楽観的に考えようよ」
しどろもどろに答える午兎に対し、来良は言った。
「もう何回かしか、タイムマシンを動かせるエネルギーが残っていなかったんでしょ? なら、使っちゃったんだよ。使い果たしてしまって、停まっちゃった。それで良いじゃん」
「けれど、エリアは電力の供給方法について何か隠し球を握っていた。それを使わずに、自滅するとは思えない」
「じゃあ、こういうのは? 何処かの正義の味方が、邪悪な野望を事前に察知して挫いたとか」
「そんなご都合主義――」
言い掛けて、午兎は言い淀む。彼の脳裏に、イサクとリベカが浮かんだ。彼らなら、或いは。疑ってはいても、何処かで彼らへ希望を持っている自分が確かに居た。
「何となく、なんだけれどさ。もう何も起きないような気がするんだよね。いや、根拠は全くないんだけれどさ。でも来るか来ないかビクビクしているよりは、ずっと良いと思うよ」
「そうかも、しれないな」
午兎は来良に笑い掛けると、トーチをポケットにねじ込んだ。
「あ、捨てないんだ」
「不法投棄っていうんだろ、そういうの。ちゃんとゴミは、ゴミの日に出さなければ。でも、トーチって何ゴミなんだろう?」
「燃えないゴミじゃないの?」
つまらなげに答えて、来良は話題を切り替える。
「ずっと気になっていたんだけれど、午兎君って進路希望調査表に何て書いたの? だって午兎君、あの時まだこの世界の事を殆ど知らなかったじゃない?」
「ああ、あの紙か。別に大したことは書いてない。隣の紙を盗み見て、書き写しただけだよ」
「その手があったか・・・・・・」
何故思い付かなかった、あの時のわたし。
返せ、あの説教時間を利息付けて今すぐ返せ!
「君は? 何を書いたんだ?」
「取り敢えずアイビー一式と、小さく世界征服」
「正気か?」
「わたしも、そう思うよ・・・・・・」
げんなりとした口調で来良は答えた。
「でもさ、あんなのは紙切れだけれど、いつかは本当に選ばなければならないんだよね。自分が一体、何になるか。今は全く実感はないけれど、必ず」
「何になるか、か――」
午兎は顎を撫でながら、思案に耽る。
穏やかな死を望み、終わりを待ち続けた彼が、生きて続く為に頭を悩ませる――その姿がとても、東風瑞 来良は愛おしく感じられた。
璃子に話せば、
「今はまだ、分からないな。僕は何かを目指してなれるほど、人生を生きていない。もう少しこの世界で生きてから、何になるか決めてみようと思う」
「時間はたっぷりあるしね」
来良の言葉に眼を見開き、それから午兎は微笑んだ。
「そうだね・・・・・・あるんだ。僕の時間は、君と過ごす僕達の時間は、両手に抱えきれない程沢山ある。今度こそ、盗まれないようにしないと」
「時間泥棒に?」
意地悪げに笑う来良に、午兎ははにかむように笑った。
屈託なく、肩の荷が下りたように。
「じゃあ取り敢えず、海に行く計画進めようか。午兎君、暇なんだよね? 夏休み。なら、わたしが行ける時に合わせて――」
「すまない、僕も実は予定がある」
「初耳なんだけど、それ」
「実は探偵のオッサンに捕まって、バイトさせられてる」
「え、何それうらやま・・・・・・じゃなくて、トーチが動かなくなった事を話した時にもう終わったから帰れって、わたしには退職金押し付けたくせに何で午兎君は拘束されてるのさ?」
「多分、監視だろう」
「監視ねえ・・・・・・」
「探偵として鍛えてやる、と言われているが、実体は事務所の雑用だ。多分あの人の中では、まだ事件は終わってないんだと思う。だから僕を監視下に置きたいんだろう」
「どうかな。午兎君だけならそうかもしれないけれど、璃子も一緒に居るからね。案外、本当に雑用かもよ?」
ここ最近、璃子は色々理由を付けて探偵事務所に出入りしている。曰く、自分が居ないと事務所がゴミで埋まるから仕方なく、だそうだ。
ツンデレがどうのこうの言っていたヤツの台詞ではないと思うが、武士の情けだ。何も言わないでそっとしておこう。その方が面白いし。
「じゃあ、そっちが休みでわたしが暇な時か。そうなると、やっぱり江ノ島とかかな。あそこなら日帰り出来るし。人、めっちゃ居そうだけれど。きっとぷよぷよだと連鎖で消えるよ、こう七連鎖とか」
「その方が良いかな、僕は」
「混んでるのに?」
「うん。人が沢山居るっていうのは、良い事だよ。世界が生きている証拠だから」
「生きている、世界か――――」
来良は午兎の言葉を反芻させ、改めて周囲を見渡した。
通学路は学校へ向かう生徒で溢れ、空は小さく飛行機が飛んでいた。道路では車が行き交い、その合間を縫うように茶色の野良猫が横断する。
千年後、世界は終わり人類の歴史はその幕を閉じる。
だがそれは、
勿論、自分が生きている時間でもない。
「どうしたんだ?」
「何でもないよ。平和だなって、思っちゃっただけ」
笑う来良の右手は、しっかりと午兎の左手に絡んでいた。
もう決して、放さぬように。
◇
あれ程荒ぶっていた吹雪は、夜明けと共にぴたりと収まった。
相変わらず、暑い灰色の雲に覆われた空。しかしじんわりと温かみを帯びるそれは、世界にまだ太陽がある事を如実に表していた。
「薄々思っていたけれど、この生活はやっぱり未来っていうか原始時代だね」
薪にする為に廃材を手頃な大きさに解体しながら、来良は言った。
その手には、折り畳み式キャンプ用包丁が握られている。
「ねぇ知ってる? 人類最古の道具は、ナイフだったんじゃあないかって話。力も牙もない弱い個体が、生きる為に石や黒曜石で人工の牙を作った、始まりの道具。それを人類最後のわたし達がこうして使っているってのは、何だかとても面白いよね」
「面白がってはいられないよ、僕は。これからどうしようか、それだけで憂鬱になる」
午兎はハードボーラーの
「大丈夫だよ、きっと。取り敢えず、昨日決めたように近くのハイヴに行ってみようよ。食料だけでなく、使える道具もあるかもしれないし。流石に薪割りに
来良は薪を縛り上げると外へ出る。沙漠と雪が照り返されて白む世界は、何処か幻想的で美しかった。
「本当に滅びちゃったのかな、人間」
「さあ・・・・・・でも、滅びたんじゃあないかな。イサク達のように人工的なものも含めて、〝
「でも、一つはイレギュラーがあったんでしょ? なら、何処かのハイヴでもイレギュラーがあったかもしれない。探してみようよ、他の〝
「そうだな、旅には何か目的があった方がいい」
来良の言葉に、肩を竦めて午兎は同意する。それから外へ出ると、来良の隣に立った。
「何もないな、何も。全部、真っ白だ」
「そんなことないよ。隠れているだけ。このシェルターも、あの雲の先にある太陽も、ちゃんとあったでしょ? 確かに滅びるかもしれないけれど、まだ終わってはいないんだ。滅びと終わりは違う。だからこうして、わたし達が居る。午兎君だって、別に生きる事を諦めてはいないでしょ?」
午兎は頷く。
「勿論。穏やかな死を求めた僕だけれど、自殺を考えた事はないんだ。説得力は、ないかもしれないけれど」
気恥ずかしげに、来良から僅かに視線を逸らしながら。
「生きられる限りは、生きてみよう。行けるところまで、行ってみよう。僕一人では無理だけれど、君となら不思議と大丈夫なんだ」
「・・・・・・そうだね、わたしも同じ」
来良は午兎に右手を差し出し、僅かに躊躇する。機械仕掛けの右手。彼女が代わりに左手を出す前、その機械仕掛けの右手を午兎は強く掴んだ。
繋いだ手が、強い熱を帯びる。
凍て付く世界を撥ね除けるように。
「行こう、来良」
「うん」
そうして、二人は終わった世界を歩き出した。
一歩、二歩、歩く度に二人の足跡が轍のように刻まれていく。
しかしそれも、しんしんと降り続く雪に埋もれて、いつか白く消えていくだろう。二人が生きた証しと共に。
「やっぱり綺麗だよね、この世界。現実はこんなにも厳しく残酷なのに、この綺麗な世界を旅出来る事に少し・・・・・・わくわくしてる」
「実は僕も、そう思い始めた所だ。これも君に言わせれば、動物的ってヤツなのかな」
人類という本、その最後の数行。
指で文字を追うように、辿々しく二人は共に歩んでいく。
「・・・・・・うん、そうだよ。きっと、ね」
人類の物語が終わりを迎えたとしても、二人の物語は終わらない。
The White world Don't Innocence world is THE END !!
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終わった世界に、君と僕。 湊利記 @riki3710
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