カブと葉のシチュー
御餅田あんこ
カブと葉のシチュー
都の北西の山中に、宵という隠遁者が住んでいた。
十八年前に都の議会で議員を務めていたが、当時の議長を殺害した嫌疑をかけられたことで、議席を返上して隠遁者となった。小さな庵に住み、小さな畑を耕して、ひっそりと暮らしていた。
晩秋の日暮れに、宵の庵に客人があった。
東雲というその客は宵の学生時代の知己であり、来期の議会の議長に選出されていた。一癖も二癖もある議員をまとめ上げるには向かない性格だが、世論に強く押されて、今さら辞退出来ずに困っているようだった。だが、彼が宵の元に来たのは、辞退の相談のためではなかった。
宵が下ごしらえを終えた鍋を囲炉裏の自在鉤にかけて一息つき、東雲にホットワインを勧めたところ、東雲は口をつける前に大まじめな顔をして言った。
「宵、私と共に山を下りてはくれないか」
宵と東雲、そして死んだ議長・日輪とは、北院という議員を育成する学び舎の同期であった。議員になるのは資格制で、北院で学べば資格を得られるが、その誰もが議会に参加できるわけではない。議員資格を持つ者は年々増え続けるが、議席の数は変動しない。北院を出た若者は、既に議席を持つ老獪な現役議員と議席を争うことになる。そして、多くは何年も議席を得られず、都の役人として一生を終える。
宵たちは、北院では恐れを知らぬ振る舞いのために時に悪童と評されたが、成績はとりわけ優秀であった。幸運なことに三人は二十年前、北院の課程を終えると同時に揃って議席を獲得し、議員となった。そして一年後には、日輪が議長として選出された。これほど早く議長の座に就いたのは、後にも先にも日輪だけだ。前年に多くの年配議員が退いて議会の勢力図が大きく変わったことで、若手議員が台頭した。日輪は、その旗印だった。
「既に知っていると思うが……」
東雲は落ち着かない様子で、カップを手の中で回したり揺らしたり弄びながら話し始めた。
「私は、来期の議長に選出されている。向かないのは分かっているが、私が議長になれば、たとえ地方の下級官の子でも議長になれると示せる。地方と都の断絶を解消するために議員になったのだから、ここで怖じ気づくわけにはいかない」
東雲は、学生時代から議員として自分が成さねばならないことをはっきりと認識していた。父親にそう言われて育ったからだと言っていたが、東雲は父親の意思に関係なく自らの意思で動いていた。
一方で同じく地方出身者の宵は、初等学校でなまじ勉強ができたために、調子のいい家族から「宵は議員にならねばならん」と送り出されたもののやる気がなかった。北院を出れば働き口には困らないので、議員になれなくても、最低限課程を終えて都で仕事を探すつもりだった。日輪と東雲に出会わなければ、実際にそうしていただろう。日輪がいつか自分は議長になると言うので、それを支えてやりたいと思ったからこそ宵は議員になった。議員としてすべきこと、したいことなど、宵にはなかった。
「俺はてっきり、お前が議長を辞退したいが今さら出来ないと愚痴をこぼしに来たのだと思っていた。お前はすごいな。だが、俺はだめだ。俺は、評判が悪い」
「日輪のことなら、あんなもの、若手の台頭に怯えた老人たちのやっかみだ。当時の若者は今や中核を担う世代だ。あんな根も葉もない噂など誰も信じてはいない。現に私の補佐官に君を迎えたいと話し、当時の議会を知る人たちから賛同を得ている。あとは君から良い返事をもらえれば……」
「悪いが、断る」
「そこをなんとか」
鍋からは蓋越しにも食指をそそる匂いが立ち始めていた。蓋を取ると、室内にシチューの香りが漂う。学生時代、寮の食事は学生間で不人気で、こっそりと自炊して夜食を分け合っていたのだが、シチューは秋冬の定番だった。今晩は宵の畑のカブを葉ごと入れており、鮮やかな緑が映える。
宵はシチューを器に盛って東雲に差し出した。
「まあ食えよ。懐かしいだろう」
「君が良い返事さえくれれば、昔を懐かしみつつ快く味わえるのだが」
東雲は言いながら、冷め始めたホットワインを置いてシチューに手を伸ばした。ぼそりと、美味い、と呟いたのが聞こえた。
「こればっかりはどうしようもない。評判のことだけじゃない、俺は政治に向かんのだ。日輪と揉めたのだって、俺があそこのやり方を分かっていなかったのだ」
「決して違う。君の意見を間違いや大仰だと言うような議会などあってはならないんだ。私はそれを許さない。そのためにこそ、君の力が必要なんだ。私は議長として、幹線水路計画を再開するつもりだ」
幹線水路計画は、宵と日輪が袂を分かつ原因となった、人工水路で全国を繋ぐ大規模工事計画だった。この人工水路は水門の開閉によって速度や流れを調節し、速く安定した航行を行う。運べる物量は大型荷馬車と比しても船の方が多く、疲れた馬を替える必要もない。この新しい水路は、地方と都の断絶を解消し、流通と公共事業によって経済を潤す――、計画は議会の承認を得て、実現に向けて動き始めた。
最初に工事が行われることになったのは、都の外周に隣接した農村から、その農村地帯を有する郡の庁までの区間であった。
計画自体は、宵も東雲も、日輪が政策として掲げる以前から熟知していた。これは三人が北院時代に学生討議で提案した計画だったからだ。
ただ、その学生が議員ごっこで作成した計画を実行に移すには、現実的な視座が足りなかった。詰めの甘い計画は、方々で綻びが生じていた。あるところでは水路の用地に住んでいた住民へ説明不足のまま強制立ち退きをさせ、あるところでは工事が始まったが人員が足りずに滞り、工事が始まっているというのに水門の強度不足の可能性があると発覚するなど、問題が相次いだ。しかし、日輪は問題を隠蔽して強行しようとした。
このままではいずれ重大事故を引き起こしかねないと思い、宵は議会で日輪と対立することを覚悟の上で、急進派を糾弾した。計画は見直されなければならない、と。
対して日輪は、大まじめな宵に驚いた様子で、「これは試験運用だし、事故が起きても都に被害はないから大丈夫だ」と言った。日輪の言葉を責める者はなかった。議員のほとんどは都の外に対して無関心で、広い国土の真ん中にぽつんとある都が、そして議会が、この国の中心であり、頂点だと本気で思っていた。ほんの一握りの地方出身議員は、青い顔をして口を噤んだ。宵の中に生まれたのは、東雲のような志などではなくて、ただ議員への、議会への、嫌悪と侮蔑だった。
「私はこの国全体のために、幹線水路を運用したい。私の代では、いや、生きているうちに国中を繋ぐのは不可能かも知れないが、計画の礎を築き、可能性を示すことは出来るはずだ。君ならば必要性を分かってくれる、君ならば私に足りないものを真っ向から指摘してくれる。君になら、私の隣を任せることが出来る」
東雲は手にした器を横に置き、宵の前に手をついて頭を垂れた。
「君でなければならないと思ったからここへ来たのだ。どうか、私に力を貸してくれ」
「もし十八年前に日輪がそう言ってくれたのなら、俺は喜んで協力した。俺はあの晩、日輪と話をした。日輪は、大きなものが動くのならば小さなものは道を譲って当然なのだと言った。残念ながら、東雲、俺はお前が思うほど清廉潔白ではない」
宵は、あの晩に。
カブと葉のシチュー 御餅田あんこ @ankoooomochida
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