第4話 熊送り

 エンリィは村の長に手を引かれて、兄が現れたという川下の川堰せきに向かった。


 …神様、神様、どうか、私から兄さんを奪わないでください。


 祈るような気持ちで先を急ぐ。辺りに立ちこめる白いもやはますます濃くなり、視界を遮ってくる。

 そのくせ、ふり仰いだ空は抜けるように青く、どこまでも澄みわたっている。その悠々とした無辺の美しさに泣きたくなった。


 …天に、帰る…天に帰れたらいいのに。


 あの空に帰る場所があること。憧れてやまない。

 人の世はなぜこんなにも苦しみに満ち満ちているのだろう。

 人に施し、天に帰る…なんという美しい生き方なのだろう。

 とりとめもないことを想っているうちに、いつの間にか川下へと近づいていたようだ。


「エンリィよ、兄は生きていたな」


 村の長の声にハッとなる。

 気づけば、足が止まっていた。

 白い靄がうっすら漂う凍てつく川の中を大きな雪山が動いていた…否。白い熊。グラチカだ。

 シュカの着衣の襟をくわえて、熊は川を渡っていた。

 エンリィや村の皆が固唾を呑んで見守る中、大熊グラチカは川から上がるとシュカをそっと岸に下ろした。

 濡れそぼった体を起こしたシュカの頬に鼻面を押し当てている。二人はちょっと微笑わらったようだった…そう思えた。


『グラチカ…なんで来ちゃったの?』


 いつかの兄の声が聞こえたような気が…した。

 やがて、グラチカはゆっくりとこちらを振り向いた。あんなに温厚だった真っ黒な瞳は憎しみの色に染まっている。


(…白き怒れる山の神カマラ。くまは山の神…)


 川岸のグラチカとシュカは火縄銃ラーミャを持った村の民に取り囲まれている。グラチカは逃げる気は全くないようだった。シュカを背後に庇うと、後ろ脚で立ちあがり…恐ろしげな牙を剥き出して、凄まじい勢いで咆哮した。


(…天の神。くまはけものの王)


 エンリィは火縄銃が火を吹き、怒り狂って大きく口を開いた熊の頭を目掛けて幾つもの鉛玉が飛び込んでいくのを見ていた。熊の牙が折れ、顔が歪み、熊の後方に血飛沫が跳ねるのを見ていた。白い体のあちこちに赤い染みができ、耐えきれなくなった大きな体がズルズルと沈んでいくのを見ていた。

 エンリィは噛みしめるように心の中で呟いた。


(くまはひとの…ひとの客人まろうど…)


 グラチカは【神の施し】となった。

 白い大熊はその場で解体され、切り刻まれた体は村の男達によって、村の中央にある儀式の場に運ばれた。熊送りの儀式は翌日の夕刻に執り行われる。


 熊送りが始まり、村の長に呼び出されたエンリィは、村の長の家族と共に真っ先に熊の肉をふるまわれた。渡された椀の中身をエンリィは残さず綺麗に平らげる。グラチカを天に返すために。


「エンリィや、身寄りがないのなら我がいえに住まうといい。御供ごくうを出した家は子々孫々栄えるという。歓迎するぞ。衣食住に不自由はさせんが」


 耳元で村の長が何か言っているが、よくわからない。エンリィは聞き流す…否、聞いていなかった。


 …兄もまた息絶えた熊の下で冷たくなっていた。

 氷のように冷たい川に突き落とされ、岸に上がった時には心の臓は凍りついていたと思われる。あの時…どうして、兄はグラチカと微笑わらっていられたのだろう。それはとても不思議なことのように思えた。


 祭壇の中央には牙の欠けた大熊グラチカ頭蓋骨シャーリプがある。その前には兄の亡骸なきがらを納めたひつぎが、酒や魚、木の実、干した野菜や獣肉と共に供えてあった。


 …御供ごくう。兄さんだったモノ。神への捧げ物。


「それでだな、エンリィ…お前たち兄妹は大変見目麗しいし、特に金の目は本当に美しい。我がせがれは春には18歳になるんだが、なかなか優れた狩人でな…お前のことが…」


 エンリィは黙って立ち上がる。

 そのまま祭壇の前に行くと、兄のひつぎの蓋をずらした。


 …兄さん。私も連れて行って…


 眠っているように穏やかな兄の頬に鼻を押し当てる…グラチカのように。

 しかし、魂のない兄の体は硬く冷たかった。

 次に、祭壇に祀られた熊の頭蓋骨シャーリプに近寄る。頬とおぼしき部分に鼻を押し当てる。


 …グラチカ。私も天に帰りたい。


 それは本当に…驚くべきことだった。

 不意にエンリィの頭の中で声が響いた。


『おいで。おいで。山においで』


 誘うような柔らかな声。

 とても穏やかな…グラチカの…?


「山に…」


 エンリィはきびすを返して、走り出した。

 目指すのは神帰山ナーキゴラン

 走っているうちに自然と体が前傾し、手が地面についていた。そのまま、けもののように四つ脚で道の雪を蹴立てて走る。走る。走る。

 いつの間にか、また吹雪ふぶいていた。

 氷のつぶてが全身に刺さる。

 静謐なしんと凍えた空気。


 …厳しくも美しい…山の…神々の…我らの。


 ひとであった時にはわからなかった匂いがする。

 ひとであった時にはわからなかったものが見える。

 目に入った前脚には…鋭い爪がついていた。







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神と贄 瑞崎はる @zuizui5963

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