第3話 凍れる川

 飢饉に喘ぐ厳しい冬となった。


 小屋の外はしばしば雪に閉ざされ、エンリィたちは吹雪の合間を見計らって、外に積んである薪を取りに行ったり、家の側に埋めていた野菜を掘り出す。

 女子供のエンリィは村の道や橋の雪掻きには参加させられなかったが、兄のシュカは大人に混ざって、村民としての義務を果たしている。シュカは一見すると頼りなげで繊細な容姿であるが、忍耐強く、意外と体力はあるようだった。でも、それは兄妹の食事情が悪くなかったことも影響しているのかもしれない。


 村の長は宣言していた通り、兄妹に食べ物や薪、その他の生活に必要なものを数日おきに、村の誰かに届けさせていた。シュカはあまり歓迎してはいなかったようだが、妹とグラチカの命を繋ぐためと割り切って、当面は恩恵を享受することにしたらしい。

 今日やって来た使いの者は兄にわれるままに村の噂話を喋り続けている。村の北側に住んでいた一家が何日も前に凍死か餓死し、そのままになっていたのだが、一昨日見に行った者の話によると遺体は酷く食い荒らされていた。おそらくは熊害ゆうがい…らしい。

 今年は例年にも増して、秋に充分に餌を食べたり、貯めることのできなかった熊が冬眠できずに村を彷徨うろついているという噂だった。


「食べたのはグラチカじゃないですよ」


 話を聞いたシュカは静かに否定する。

 使いの男は嘲笑あざわらうように鼻を鳴らした。


「馬鹿言え。美味いもんばっか食わせてるそこの白熊がカチコチの村人なんざぁ、食うかよ」


 男は嫌な目つきでエンリィを見た。


「こっちも…まだガキだって聞いてたがそうでもねぇな。いいもん食ってるからか?」


「やめてください」


 シュカがエンリィを男の目から隠すように進み出る。同時に巨躯となった成長凄まじい猛熊グラチカが鋭い牙を剥き出しにして「グルル…」と、男に向かって脅すように低くうなった。


「真に受けんなよ。冗談だって。お熊様には敵いませんって。でも、お前は…もうわかってるんだろう?」


 シュカは黙ったまま、男に小屋の戸の方を指差してみせた。そして、金の瞳をくらく曇らせながら、何事かを一生懸命に思案しているように見えた。


 翌朝。グラチカが姿を消した。

 なんの前触れもなく、来た時と同じように不意にいなくなってしまった。


「兄さん…何か知ってるの?」


 凍てつく氷雪に吹きつけられながらも、小屋と外を行ったり来たりして必死にグラチカの姿を探し求めるエンリィとは対照的に、シュカはぼんやりと小屋の隅に座っていた。不審に思ったエンリィが尋ねると、兄はしばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。


「もし…おれに何かあったら、フィオさんの所に行って欲しい。フィオさん夫婦には子供がいない。もう出来ないそうだ。お前を引き取ってもいいと言ってくれている」


「…何を言っているの、兄さん?」


「おれは村の掟を破った。罰を受けなければならない」


 そう告げた後、シュカは膝に顔をうずめたまま、もう何を聞いても答えなかった。


 昼過ぎになり、吹雪が止んだ頃合いに村の長が兄妹の小屋を訪れた。

 この二月ふたつきの間、食べ物などを届けさせてはいたが、村の長本人が赴いたのは、グラチカの存在がわかってしまった日以来のことだった。村の長は小屋にグラチカがいないことを確認するや否や、シュカの髪を乱暴に掴んで立たせ、一緒に来ていた村の男にシュカの腕を後ろ手に縛るように指示を出した。シュカは黙って手を後ろに回した。

 エンリィは兄に取りすがって「いきなりなんですか?酷い」と、皆に抗議したが、村の長はもちろん、その場の誰も取り合ってくれることはなく、縛られたシュカは踏み固められた雪の道を大勢の村の連中に取り囲まれながら、引きられるようにして連れて行かれた。そして、シュカを中心としたその行列は村の北側を流れる氷凛川ルゥシュレイに架かる橋の真ん中で止まる。

 転がるようにして、男たちの後を追っていたエンリィは橋の上で今まさに行われようとしている行為に悲鳴を上げた。


「やめて、やめて!何するの?」


 シュカは手を縛られたまま、橋の上から突き落とされた。


 シュカは氷のように冷たい川に呑み込まれ、すぐに見えなくなってしまった。


「兄さん…兄さん…なんで…」


 呆然と座り込んだエンリィのそばに、いつの間にか村の長が来ていた。


「…お前の兄をために山の神が現れる」


 村の長は意外なことに痛ましそうにエンリィを見下ろした。長はひとちるように続ける。


寒凪かんなぎ…吹雪が長い間ぴたりと止んでいるだろう?早朝でもないのにもやまで出てきた。シュカはこの村が神に捧げる特別な【御供ごくう】だ…」


「どういうことですか?」


 村の長は憂うような調子で語り始める。

 それは驚くとともに受け入れ難い話でもあった。

 今年になって現れた雌熊が人食いと化したのには理由がある。村の年若い鹿撃ちの猟師らが【熊狩りの禁忌】を犯したのだ。


「知らぬなら鹿だけを狩っておればいいものを、よりによって一頭仔を狙いおって…」


 熊狩りにおける決まり事に【母と仔一頭の親子は狩ってはならない】というものがある。

 仔二頭のうちの一頭は獲っても構わない。しかし、仔を全て奪うと次の代に命を繋ぐことが出来なくなる。また、母を奪っては仔は育つことが出来ない。

 熊は山の神、大いなる山の恵み。

 人は施されていること、恵みを与えられることに対する敬意と感謝を忘れてはならない。


「仔は瀕死の重傷を負い、怒った母熊は人喰いの化け物になった。一度人を喰らった熊は他の肉は口にしなくなる」


 熊の怒りは山の怒り。

 村の死者は次第に増え、くだんの荒ぶる神を天に返そうとしたが失敗した。雌熊ヒドゥンは人の手でもてなされることを拒み、自ら天に帰ってしまった。


「神に見放された村の末路は悲惨なものだ。下手すると村ごと根絶やしにされる。知っているか?今、村の民の数はかつての半分にも満たない。熊害と餓死、凍死によってな…」


 エンリィは息を呑んだ。

 小屋をほとんど出ず、優しく聡明な兄に守られていたエンリィは村の現状をうっすらとしかわかっていなかった。


「…そこに兄さんがグラチカを…」


 村の長は頷いた。


「天の采配に感謝した。白き熊は天からの施しだ。これでやっと熊を送れると思ったが…まさか、シュカが逃がしてしまうとは…」


 熊は村の皆の財産。生け捕りの熊を手に入れた者は、村の顔役として【熊送り】の儀式まで、熊を大事に預からなければならないというのが村の最も重要な掟の一つであった。


「掟を破ったシュカは己の身を供えてもらわねば。氷凛川ルゥシュレイ神帰山ナーキゴランに通じる。人身ひとみ御供ごくうを投じれば、山の神たる熊は必ず現れる。この村はどうしても熊を送らなければならない」


 村の長はエンリィに厳しい顔で告げた。そして、川下から走って来る村の男に気づき、手を挙げて合図する。男は吐く息を白く切らしながら、長のそばで足を止めた。


「来たか?」


「白い大熊が山を駆け下りて、川に向かっています。シュカは川堰せきに引っ掛かっています」


 エンリィは兄の名を耳にして、顔を上げた。


「死んだか?」


「わかりません。水につかったまま動かない」


 それを聞いた村の長はエンリィの腕をとって立ち上がらせた。

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